本書を読む前に、森村誠一著『悪魔の飽食』を久々に取り出して見た。奥付に「昭和56年」とある。そうか、あのフィーバーからもう二十五年近くが過ぎたのか。
若い読者のために申し添えると、『悪魔の飽食』は、戦中の満州(中国東北地方)で「石井部隊」こと関東軍第七三一部隊が、中国人捕虜らを人体実験や生体解剖に供しながら、大規模な細菌戦に備えていた事実を、初めて満天下に知らしめたドキュメントである。三部作で累計三百万部以上の超ベストセラーとなったが、著者の森村氏には匿名の脅迫や右翼団体からの抗議が殺到したことでも知られた。
その七三一部隊を率いていた石井四郎の日記が、最近、本書の著者により発見されたとの記事を読み、思わず唸(うな)った。戦後六十年も経(た)って、まだこんなものが出てくるのか、と。いや、関係者の大半が鬼籍に入ったいまだからこそ出てきたのかもしれないのだが……。
ただし、石井が敗戦直後に記した日記帳二冊の内容それ自体は、備忘録代わりのメモ程度のもので、そこから生々しい告白の類が飛び出してくるわけではない。その暗号や略称ばかりで第三者には何が何やらわからない日記の中身を、アメリカの公文書や関係者たちが残した証言、数少ない存命者へのインタビューと突き合わせて、丹念に肉付けをし、誰にもわかる形で提示したところに、本書の真骨頂がある。
戦争犯罪の極みとも言うべき蛮行を冒しながら、石井ら七三一の隊員たちは、なぜ誰一人として戦犯にならずに済んだのか。そこにあったとされる当時のGHQとの密約とは、いったいどんなものだったのか。著者は、厖大(ぼうだい)な公文書から新事実を洗い出し、これまで一度も取材に応じてこなかった元軍医の口を開かせた。
こうして浮かび上がってきた現代史の奇々怪々な絵図を小文で説明するのは不可能で、本書をお読みいただくしかないのだが、おそろしく単純化して言うと、次のようなものだ。
アメリカにとっては、石井らを絞首台に送ることよりも、彼らが満州から密(ひそ)かに持ち帰った人体実験のデータのほうが、はるかに重要であった。とりわけペスト菌に感染させたペスト蚤(のみ)は、「七三一部隊が発明した当時の最新秘密兵器」で、ソ連も虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。石井らは戦犯の訴追を免れるため、その背後にいた陸軍参謀本部は「天皇にも累が及ぶ」のをかわすべく、いわば血まみれのデータをアメリカ側にそっくり引き渡したのである。
元七三一の面々は、素知らぬ顔で戦後の医学界に活躍の場を得た。自称「石井の番頭」はのちのミドリ十字を創業し、"薬害エイズ事件"を引き起こす。ニューヨーク在住の著者は、9・11後、炭疽菌(たんそきん)やペスト菌によるテロ攻撃の恐怖を肌で味わう。"悪魔の飽食"は決して終わっていないのである。
日記に垣間見える石井の素顔が、人一倍の母親思いだったというのも、人間存在の底知れなさを感じさせるばかりだ。