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トウ小平が仕掛けた史上類ない「実験」

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〈トウ小平(トン・シアオピン)〉(とう・しょうへい、1904〜1997)  3度の失脚から復活し、中国の最高実力者として改革・開放路線を軌道に乗せた政治家。四川省に生まれ、16歳でフランスに留学。副首相、党総書記を歴任し、文化大革命で失脚したが77年に党副主席として復活した。写真は深センの公園に掲げられた肖像=福田写す。

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胡鞍鋼教授

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宝山製鉄所

 夜遅く、北京の定宿で寝つけぬまま窓を開け、たばこに火をつける。まだ喫煙できる部屋があるのは昨今ひどく肩身が狭くなった身にはありがたいが、この国でも遠からずそうはいかなくなるのだろう。

 ひっきりなしの車のクラクションに、どこからか流れてくる京劇風の音楽が重なって、3月の声を聞いて急に暖かくなった北京の夜はざわざわと落ち着かない。五輪を控えて街は大層忙しく、工事の音もトンカンと混ざってくる。

 巨体を揺すって猛進する中国。実質経済成長率は5年続けて2けたの伸びを記録し、貿易総額はアメリカやドイツに次いで世界3位、外貨準備高は日本を超えて世界1位に浮上した。どこまで膨れあがるのか、いや早晩破綻(はたん)を来すに違いないと、行き着く先をめぐって世界はかまびすしい。

 なにしろ13億人――しっかり数えたらひょっとして14億人――で形作る国家である。それだけで無理筋の実験とも思えるが、加えて共産党独裁下の市場経済という類のない試みとあれば、世界が固唾(かたず)をのむのも当然ではあるのだった。

 北京の清華大学に訪ねた胡鞍鋼(フー・アンカン)教授(54)は中国の経済や政治、社会を総合的に分析する「国情研究」の第一人者だが、この国の台頭を示す世界銀行の数字を次々に挙げると経済成長の勢いのままに語った。

 「強国と富民、この二つをともに達成しなければいけない。これからナンバーワンになるのは中国だけだろう」

 環境汚染の防止、政治と社会の安定その他、胡氏はさらなる発展のための課題をさまざま指摘することも忘れない。だが何より私が深くうなずいたのは、政府の政策決定にも関与する胡氏が口にした「この巨大な国の行方を正確に予測することなど誰にも出来ない」という言葉だった。

 80年に中国初の経済特区となった深セン(シェンツェン)を15年ぶりに再訪すれば、高層ビルの群れが遠目にはマンハッタンにも似て、行き交う人の装いは東京の繁華街と変わりがない。かつて訪ねた時には、できて間もない百貨店で店員たちが何をしていいものやらと立ちすくんでいたが、今ではすっかりそれらしい顔つきの人々がせっせと働いている。

 昨年の深センの域内総生産(GDP)は米ドルで930億、輸出入総額は2800億で港のコンテナ量は世界4位であると、これまた数字を列挙してくれたのは深セン市社会科学院の楽正(ロー・チョン)院長(52)だ。人口860万人、出入りを含めれば1200万人というのだから、その点でも東京並みである。

 深センには武漢の武昌駅から4人相部屋の夜行列車で向かったのだが、その武昌駅の立派なことにも驚いた。日本円にしてざっと170億円をかけた拡張工事をほぼ終えたばかり、博物館のように豪壮な構えで構内の通路が幅20メートルもある。建物だけでなく、副駅長の楊濤(ヤン・タオ)氏(35)に聞けば「根本的な理念を大きく変えた」そうだ。何かと思えば、切符入手や乗り換えの便を利用客本位で考え、「管理する駅」から「サービスする駅」に変わったのだという。

 そこからゴトゴトと揺られて着いた深センには、蓮花山という美しい公園がある。小高い丘の上で立派な銅像が高層ビルを眺め渡していた。今に至る改革・開放路線を生んだトウ小平で、人はここ深センを「トウ小平城市」と呼ぶ。別の公園には巨大な肖像画が掲げられ、「堅持党的基本路線一百年不動揺」とある。改革・開放は百年の計というわけだが、この道をトウ小平が開いたのは78年、今からちょうど30年前のことだった。

 当時、その路線の象徴となった一大事業がある。

■日中で設立の製鉄所、今や世界トップ級

 沿道の歓声に応え、大勢のランナーが聖火を手に中国の街をひた走る。張り子の巨大な竜が舞い、あたりはすっかりお祭り騒ぎだ。会場に到着したランナーたちは聖火台へ駆け上がると、厳かに火を移す――。

 北京五輪の予行演習ではない。85年9月、上海宝山製鉄所第1高炉の火入れ式の様子である。私は当時の記録ビデオでこれを見た。作家山崎豊子の「大地の子」で知られる宝山製鉄所は、新中国誕生以来最大の国家プロジェクトとして78年に着手された。中国が手本とし、指導を仰いだ新日鉄との長きにわたる共同作業によって、宝山建設は戦後の日中協力の象徴ともなる。

 第1高炉の火入れ式の出席者に、このプロジェクトで中国側責任者の一人だった黄錦発(ホワン・チンファー)氏(81)がいた。「その日は上機嫌、普段飲まない酒に大いに酔った」と上海で懐かしそうに語った黄氏は、建設にあたって新日鉄側と「この機械が欲しい」「いやダメだ」とさんざんやりあった人だ。

 中国側は最新鋭の新日鉄君津製鉄所と同じものを造るのだと譲らない。技術指導で慣れぬ異国に派遣された新日鉄社員たちは四苦八苦した。現在は新日鉄エンジニアリング常務執行役員の高橋誠氏(58)は、中国の技術者たちの気負いと、それゆえの執拗(しつよう)な質問に向き合った日々をよく覚えている。まだ若手ながら設計連絡員に選ばれ、上海に渡ったのだった。

 このネジはなぜ曲がっているのか、なぜとがっているのか。中国で高橋氏は質問攻めに遭い、ミスでもあろうものなら容赦なくあげつらわれた。「こちらの説明にすぐイエスと言ってはまずいという感じだった」という。戦争の記憶が今より鮮明だったころのこと、上海に集結した中国人技術者にすれば、あの日本になめられてたまるかという思いと、技術習得への純粋な熱意がない交ぜになっていたことだろう。

 かたや中国側も日本に人員を送り、新日鉄で研修させている。いさかいにまみれながらも――おそらくは「だからこそ」――宝山建設という同じ目標に向かっての共同作業は互いの理解を確実に深めていった。

 現場の苦闘が続く中で、だが宝山建設は一度ならず中止の危機に見舞われる。中国の資金不足に共産党内の激しい権力闘争も大いに絡んで、計画は建設半ばで揺れに揺れた。中国側で総指揮の任にあった陳錦華(チェン・チンホワ)氏(79)を北京に訪ねると、もはやこれまでと観念した時期もあったそうだ。胃の痛い日々、最大の支えはトウ小平だったという陳氏が一つのエピソードを語る。

 建設のさなか、日本から届いた杭(くい)打ち機が傷物だったとして中国側が「日本は中古品を売りつけた」と大騒ぎになったことがあった。トウ小平に「どういうことか」と聞かれたので、実は調べてみると中国側の検査でついた傷である旨説明したところ、「それならそのようにみんなによく話しなさい」と指示したという。

 陳氏は「方針が一貫し、大から小まで指示が具体的なトウ小平がいなければ、宝山建設はなかった」と振り返る。後に国家計画委員会主任も務めた陳氏は改革・開放路線を実務面で切り盛りした人で、今は中国企業連合会名誉会長として重きをなす。

 その陳氏もまた現場の人たち同様、宝山建設を通じて日本人をよく知ることになる。新日鉄会長として日本側立役者だった稲山嘉寛には今も敬愛の念を隠さず、建設当時の日本人技術者の働きぶりを高く評価して「魯迅の『藤野先生』をよく思い出したものだ」と語った。

 何もない場所に一から立ち上げた宝山製鉄所は巨大企業「宝鋼集団」に成長し、04年には米誌「フォーチュン」で世界企業500傑に名を連ねた。新日鉄の常務執行役員入山幸(いりやま・ゆき)氏(60)は「エンジニアの層の厚さ、設備、効率性、そうした点で中国では群を抜く。ここまで来ると分野によっては我々と遜色(そんしょく)ないし、鋼を造る基本的技術では世界のトップランクに入る」と話す。

 宝山が牽引車(けんいんしゃ)となって中国の鉄鋼業は躍進した。78年に世界5位だった粗鋼生産量は96年にトップに立つ。国内需要の大きさは他国と比較にならない。日本の鉄鋼業が今世紀に息を吹き返したのが中国のおかげなら、資源の奪い合いになって原料値上がりに苦しむのも原因は中国と、鉄鋼業界はこの巨象の身じろぎ一つで揺れ動く。

 鉄は国家なりを地で行く中国にあって、陳氏は自著「国事憶述」でこんなことを書いている。中国は紀元前から鋼を造り、その技術で世界をリードしたが、のちに後れを取ったがために「近代的製鋼技術を持つ列強に度重なる侵略を受けた」。日本が日清戦争、中国でいう甲午戦争からそこに加わった歴史を思えば、きれいごとばかりではないにせよ、宝山建設はやはり貴重な共同作業であったに違いない。黄錦発氏は宝山を語って「飲水思源」と言った。水を飲む時には源を思う、と。

■地方巡る講話が契機、経済改革にひた走る

 深セン、武漢、上海、私が取り上げてきた場所はいずれもトウ小平ゆかりの地である。改革・開放路線を敷いて十数年を経た92年初め、トウ小平はこうした地を回って路線推進を唱えた。南巡講話と呼ばれ、武昌駅はまさにその舞台となった場所だ。中国が真に改革・開放へ疾走し出したのはこの南巡講話からで、社会主義市場経済をうたうのはまさに92年のことだった。

 白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るのはよい猫だとはトウ小平語録でも広く伝わる「白猫黒猫論」だが、南巡講話ではさまざま持論を展開して面目躍如の感がある。

 「正しいと見定めたら、一、二年やってみる。正しかったら思い切ってやり、誤っていたら是正し、やめればよい。やめるにしても、すぐやめてもよいし様子を見ながら徐々にやめてもよい。また尻尾(しっぽ)を残してもよい」

 日本のサラリーマンなら苦笑とともにうなずきそうなことも言っている。

 「会議が多く、文章が長すぎ、話も長すぎ、しかも内容が重複し、新しい言葉が少ない。一部のことについて重複して話す必要もあるが、簡潔でなければならない」

 公にならないところで何をどう話していたかは不明だが、こうしたトウ小平の言葉は端的で実に分かりやすい。多くの国民の支持を得たのも当然で、それではと中国は金もうけに邁進(まいしん)することにした。東洋学園大学の朱建栄教授に解説を聞く。

 「80年代は中国というジャンボ機が離陸に向かう滑走段階で、92年はまさに操縦桿(かん)を上げた時だった。ソ連・東欧に計画経済のゆがみも見ていたし、文化大革命の悲惨な経験が改革・開放の道を後押しした」

 トウ小平の手腕は特筆されると朱氏はいう。崩れゆくソ連・東欧を横目に、国内の不平不満を政治体制に向かわせず、経済改革へと導いた。政治体制では共産党独裁を頑として譲らず、89年の天安門事件では弾圧をためらわなかったのだから、手放しで評価はできない。だがトウ小平なくして中国がどう治まってきたかと問われれば、しかと答えるのは簡単ではないだろう。

 さて、もともと商売はお手の物の中国人、その気になればたちまち現状のようなことになるのだが、派生する問題もまた深刻ではある。都市部こそきらびやかでも、地方に行けば食うや食わずの人が億単位でいる。役人腐敗のすさまじさもあって――07年までの5年間で有罪判決を受けた悪徳公務員だけで11万人を超える――国内にたまった不穏な空気は相当なものだとは、この一年中国に行くたびあちこちで聞いた。改革・開放と現政治体制の矛盾はいずれ噴き出すという見立ても頻繁に語られる。

 中国には先行モデルがなくなった。ほころびがあればなにがしか繕おうとし、少しずつ変化しながら、旧ソ連式でも欧米式でもない手だてを探るしかない。「もともと地上に道はない」と言ったのは魯迅だった。その魯迅が考えもしなかったであろう道を、中国は進んでいく。

(福田宏樹)

キーワード:中国の改革・開放

 農業、工業、国防、科学技術の「四つの近代化」に向け、トウ小平の主導で始まった国内改革および対外開放政策を指す。1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で毛沢東時代からの路線の歴史的転換が決定的となった。毛沢東の死去と、江青夫人ら4人組の逮捕から2年後のことで、大躍進政策や文化大革命の混乱で疲弊していた中国は以後、従来の計画経済を脱して市場原理を大胆に採り入れていくようになる。

 人民公社を解体して個別農家に自主的権限を与える生産請負制とし、国有企業を守りながらも個人経営を認め、広東省の深センなどに経済特区を作って積極的に外資導入を図った。富める条件の地域から先に富むべしというトウ小平の考えは「先富論」として知られる。89年の天安門事件で中国は政治経済の活力が落ちたが、トウ小平はこれを見て92年には南巡講話で改革・開放の大号令を発した。

 このあと中国は「社会主義市場経済」を掲げて驚異的な経済成長を続けているが、一方で沿岸部と内陸部の格差や環境汚染など問題も深刻化している。


 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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