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【ワールドウオッチ】
 
嗚呼ベレシチャーギン

ベレシチャーギンの代表作「戦争の結末」
ベレシチャーギンの代表作「戦争の結末」
平福百穂の描いたベレスチャーギンの肖像が載った「平民新聞」
平福百穂の描いたベレスチャーギンの肖像が載った「平民新聞」
日本滞在中に日本の女性を描いた絵
日本滞在中に日本の女性を描いた絵

大野正美(論説委員)

 日露戦争の旅順港攻防戦でロシア軍艦とともに沈み、命を落とした画家ベレシチャーギンについて先ごろ、夕刊の「窓」で書いた。彼のことを教えてくれたのは、北大スラブ研究センターの原暉之教授だった。

 ロシア太平洋艦隊の旗艦ペトロパブロフスクは1904年4月13日、旅順港外で日本海軍の敷設した機雷に触れ、爆沈した。ロシア海軍内の信望が厚かった艦隊司令官のマカロフ提督も画家と一緒に海に沈み、その後で艦隊の士気は急速に落ちてゆく。

 ちょうど100年後の今年4月13日、朝日新聞の朝刊1面に、一木一草もない砂漠のような場所にえんえんと土盛りの墓がつらなる写真が載った。

 駐留米軍とイスラム・スンニ派の抵抗武装勢力との間で激しい戦闘が続くイラク中部のファルージャで、米軍による掃討作戦の犠牲になった民間人を葬るため、サッカー場に急ごしらえでつくられた墓地だ。

 原教授は写真を見て、ベレシチャーギンの代表作「戦争の結末」をただちに思い浮かべたという。

 兵士の無数のどくろが、荒野にピラミッドのように積み重なっている。その上に、カラスが何羽も飛んできては、どくろをついばんでいる。遠方にはイスラム寺院らしい建物も見える。

 この「戦争の結末」は、ベレシチャーギンが帝政ロシアによる中央アジア征服戦争に従軍したあと、1871年に描かれた。中央アジアはイラクと同じく、イスラム教徒が多数を占める地域だ。征服戦争の結果がもたらす、おびただしい死の光景がよく似ているのも、そのためだろう。

 ベレシチャーギンは、ほかに露土戦争など、帝政ロシアが起こした数々の戦争に足を運び、戦場の惨状を告発する絵を描き続けた。

 負傷し、殺された兵士の姿を通して戦争の非人間性を告発したことでロシア宮廷の不興を買い、政府による絵の買い上げを拒否されたりもした。

 「はるか遠く離れて双眼鏡を通して戦闘をながめながら、嘘いつわりのない本物の戦争の絵を社会に提出することなどできはしない。自分自身がすべてを感じとり、実行し、攻撃や突撃、勝利や敗北に直接かかわり、飢えや寒さや病気を体験しなくてはならない……。自分の血と肉を犠牲にすることを恐れてはならない、さもなければ絵は似て非なるものとならざるを得ず、真の絵を描くことはできないであろう」(I・コジェーブニコワ、藻利佳彦訳「ヴェレシチャーギンと日本」より)

 絵と取り組む態度についてこう書いたベレシチャーギンは、信念通りに日露戦争が起こると60歳を超えた体にむちうち、極東の戦場へとやってきた。遼陽、奉天を回って旅順港で乗ったペトロパブロフスク号が爆沈した時は、写生帳を手に艦橋にいたという。

    ◇

 画家の死は、ただちに世界に強い反響を引き起こした。

 戦争の相手国日本で真っ先に哀悼の声をあげたのが、社会主義者の幸徳秋水らが日露戦争反対の論陣を張っていた平民新聞だった。

 5月15日号の一報には、「露国高名の画家にして常に戦争の惨禍を描き人類平和の理想を実現せしむるに尽力せしヴェレスチャギン氏が、旅順に於てマカロフ氏と倶に溺死せしは吾人の哀悼に堪える所」「満州を視察して一たび欧州に帰り大に戦争の非を論じ、戦争起るに及んで再び旅順に来り遂に戦争の犠牲となれるなれき」などとある。

 また、後に『大菩薩峠』を書く作家の中里介山は「嗚呼ヴェレスチャギン」と題した追悼文を寄せ、「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」とその死を惜しんだ。

 平民新聞は6月19日にも「露国非戦主義画家、故ベレシチャーギン氏」の肖像画を載せている。描いたのは、アララギ派の短歌運動に参加して斎藤茂吉の歌集「赤光」にさし絵を寄せた日本画家の平福百穂だ。

 この日の紙面には、秋水自らが筆を取り、「実にトルストイが文章を以てせし説教を、丹青の技を以てなしたりき、彼はトルストイと共に露国の人なるも或意味に於て世界の人なりき、露国暴なりと雖も猶ほ如此き人を生して其軍艦中に伴へりき、吾人は此点に於て露国の大を認めざる能わず」と、ベレシチャーギンの人道主義と、その軍内での活動を許容したロシアという国の度量の大きさをたたえている。

 6年後の大逆事件で秋水自身の命を奪う、異端に対する明治国家の暴虐さを予感していたかのような書きぶりである。

    ◇

 秋水ら大逆事件の被告を「有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類の為に尽さんとする志士である」(「謀叛論」)と擁護した作家の徳冨蘆花も、ベレシチャーギンの絵から戦争に深く思いをめぐらした日本人の一人だ。

 ポーツマス講和の翌1906年に旅行で訪れたロシアで画家の作品を直接目にした。

 ただし、その旅の記録である「順禮紀行」には、同時代のロシアの画家レーピンやゲーに比べて「ヴェレスチャギンの絵は絵として頗る落ちたり」とあり、評価はあまり高くない。モスクワで見た「戦争の結末」についても「例の一将功成万骨枯(いっしょうこうなりてばんこつか)るる髑髏(しゃれこうべ)の山は、浅露に過ぎ」と手きびしい。

 確かに、ベレシチャーギンは、フランス新古典主義絵画の大家で典型的なアカデミーの画家だったジェロームに若いころ学び、その影響が強く残っている。とりわけ緻密な写実と、東方趣味的なロマンティシズムにもとづく大仰な表現を師から受けついだが、その人工的な雰囲気が「自然と人生」の作家蘆花には、すんなりとは受けいれられなかったのだろう。

 蘆花が愛したのは、「自然を愛し、自然を解し、自然に同情を有し、而して生ける自然を伝うることを務めた」印象派の先駆者コローであり、「似而非(えせ)クラシック風の画は時代の精神に駆り去られて」役割を終えたとの立場を取っていたからだ。

 それでも、サンクトペテルブルクで見た絵は蘆花の心をとらえる。ロシア遠征で勝利の進撃を続け、モスクワまでやってきたナポレオンが、丘に立ってモスクワを下し見る絵である。

 「兵士は小さく帽をささげて歓呼するに」、ナポレオンは「大きく手を背にして黙然と丘に立ち」、「蓬々(ほうほう)たるもの」ナポレオンの腰をかすめるのを見て、「勝の哀(かなしみ)」を感じてしまうのだ。

 剣により立つものは剣により滅ぶ。

 帰国したあと蘆花は、「勝利の悲哀」と題した講演で日露戦争の戦勝に浮かれる日本人の姿を批判し、「一歩を誤まらば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曽有の人種的大戦乱の原(もと)とならん」と強く警告した。

 しかし、代わりに「大義を四海に布く」「平和の光を日の如く輝かす」ことを日露戦後の日本の使命とするよう求め、「日本国民、悔改めよ」と諭した蘆花の思いは届かなかった。その後の日本が、ナポレオンのように破滅の道を転げ落ちて行ったのは、歴史の示す通りである。

    ◇

 ベレシチャーギンの回顧展が今年3月、サンクトペテルブルクにある海軍博物館で開かれるなど、没後100年を機に祖国では再評価の動きがでている。ある歴史雑誌には、19世紀の作家コロレンコが交流のあったこの画家の思い出をつづった文章も掲載された。

 また、蘆花の見たナポレオンの絵などを展示するサンクトペテルブルクのロシア美術館から、ベレシチャーギンの絵が盗まれかける、という事件も起きたそうだ。

 チェチェンやイラクの戦火が、戦争というものをロシアの人々にあらためて身近にしたためだろうか。

 かつて筑波大で学び、今はモスクワで日本語の通訳もしている美術研究家のスベトラーナ・ミハイロワさん(35)は、古文書館などに通ってベレシチャーギンが残した文書の研究を進めている。このことも原教授から教えられた。

 日本からの観光客をロシア美術館や、「戦争の結末」があるモスクワのトレチャコフ美術館に連れて行き、この画家の絵を見せながら日露戦争の旅順港攻防戦で死んだことをミハイロワさんが教えると、たいてい「えーっ」と声をあげてびっくりするそうだ。

 ベレシチャーギンは日本を、日露戦争直前の1903年に訪れたこともある。ミハイロワさんが最近書いた論文「日本を訪れたロシアの侍」によると、敦賀に上陸した後、3カ月ほどの間に日光をはじめ、東京、大阪、奈良などをスケッチしながら見物して歩いた。

 「ロシアとはあまりに違うので、感動とは異質なものではあるが、ここの自然は驚くほど美しい。巨大な杉が何キロもの並木になっている。大きな石、水の流れ、滝、どこにも緑のこけがある」「女たちはまるで人形のようである。貧しい女の子たちの多くは、両親を助けるために娼婦になる。でもこれは悪いことと受けとめられてはいない。娼婦の仕事は罪と思われていないから、両親を助けた後で娼婦をやめた女性が労働者と結婚するのは当たり前のことだ。政府も娼婦を奨励している」

 画家は、こうした見聞記も残している。滞在が短かったため、観察が表面的なことも否めない。それでも、彼が日光の東照宮や日本の女性を描いた絵と一緒に持ち帰った陶磁器や着物などのコレクションは、日本の美を革命前のロシアに伝えるのに大きく貢献した。

 ベレシチャーギンには複雑な性格もある。

 もともと海軍士官で露土戦争には、トルコの圧制からブルガリアを解放するロシア軍の一兵士として自ら進んで従軍した。反戦の画家であると同時に、大ロシア主義に基づくツァーリの帝国の勢力拡大を支持してもいたらしいのだ。

 ミハイロワさんによると、「無意味で無駄で、どこから見ても破産しそうな支出を国にもたらす戦争だ」と日露戦争の開戦前には反対論を唱えていたが、実際に戦争が回避できない情勢になってからは、「戦争をやる以上は勝たなければならない」と、極東でロシア軍の増強を求める手紙を皇帝ニコライ2世に書いていたという。

 戦争への批判と、こうした祖国への強い愛情がどのようにベレシチャーギンの中で同居していたのか。いかにもロシアの芸術家らしい混沌ぶりであり、人を引きつける一種の魅力にもなっている。ミハイロワさんは、「残された絵や文書の再検討を通じてその実像に迫りたい」と意欲的だ。

 いずれにせよ、ベレシチャーギンの死が日露戦争の敵国同士に非戦の連帯を生んだのは事実である。日本でも彼の生涯と作品に、もっと注意が向けられてよいとあらためて思うのだが。

(04/07/09 18:24)


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