もう一度、あの舞台へ

夢をつむぐ 羽生結弦

羽生結弦はいつも、深々とお辞儀をする。リンクに立つとき、去るときに氷に触る。良くない演技をした後には、天に向かって「ごめんなさい」とつぶやくこともある。「いつからですかね。徐々に増えていっていますよね。それくらい、ものごとには色んなものがついていて、支えてくれるものもたくさんあるんです」羽生のルーティンには、コーチ、家族、日本スケート界の先人たちへの思いが込められている。
とんだ王子様 1998年4歳

山田真実と羽生結弦

ちょっと、待ちなさい!

「まずい。ちょっと、待ちなさい!」。4歳の羽生結弦が初めてリンクに乗った時の焦りを、コーチの山田真実は覚えている。助走をつけて氷に飛び乗り、勢いよく転んでヘルメットごと頭を打ち、またムクッと起き上がって走った。山田は思わず声を上げていた。フィギュアを習う姉と一緒に来ると、リンク外を走り回る。山田が「そんなにうるさいのならやってみる?」と言うと、羽生はスケート靴を履いた。初めての子はそーっと氷に乗り、座位から転んで氷に慣れる。しかし、羽生は違った。「こんなに怖がらない子は見たことがなかった」

自分見つめる研究ノート

10分で練習に飽きてどこかに行く。頭や手足を思い切り振る表現も独特。「真剣になっていますという表情が得意で、少年漫画の主人公ではなく少女漫画の王子様といった感じ」。自己流をやめさせて基礎を身につけさせたいのに、話を聞かないので困っていた。あまりにも言ったことを覚えていないので、山田は「日記をつけなさい。注意されてできなかったことを記しなさい」と助言した。それが、羽生が「研究ノート」と呼び、要所で書き続けてきたメモだ。羽生はこう話す。「小学校2年生くらいですかね。毎日の練習の記録をつけなさい、と言われたところから始まっています。適当に、何を考えたかをわーっと書いている」練習後、夜寝る前、ひらめいた時にジャンプの跳び方やその際の手の動きを記す。練習リンクに持ち込んで試し、自分に合う跳び方を見つけていった。

原石は託された

小学2年生の終わりまで教えた後、山田は実家の北海道へと引っ越した。その際、名コーチの都築章一郎に電話をかけた。「先生、お願いだから仙台に来て。ぜったいダメにしないでね。すごい子だから」
日本フィギュア史を彩る人々

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芸術家になれ 2003年9歳

都築章一郎と小学生時代の羽生結弦

シング・シング・シング

羽生結弦は小学校中学年から高学年にかけても変わらず、やんちゃな子だった。都築章一郎は「他の男の子とけんかし、泣かされて刃向かっていく。氷の上では集中できず、5分で飽きてしまう」と振り返る。一方で、羽生の音楽表現の非凡さを感じていた。「音楽をかけて滑ると、人が変わったように生き生きと演技しました。シング・シング・シングっていう音楽が好きでね。ジャズがすごく好きで、それをかけると、すぐに跳びはねてやっていました」

都築章一郎が指導した選手

気持ちぶつける

都築は1969年に旧ソ連を訪れた際、踊りながらジャンプもするフィギュアを目の当たりにした。苦労してソ連から指導者を日本に招き、選手にその手法をたたき込んだ。羽生は他の日本選手と違い、表現することに照れがない。バランス感覚も身体能力もある。「新時代の選手だと一目で思いました」と言う都築は、ことあるごとに伝えた。「芸術家になれ」「世界に羽ばたこう」。羽生がロシアで練習できるように、都築はパイプ役を担った。
羽生は振り返る。「今、都築先生が言っていたことがわかる気がします。小さい頃、ジャンプを跳んでプラスアルファということを教えてもらいました。自分の気持ちをしっかり演技にぶつけることがすごく大事なんだと、小さいながらも感じていました」ジャンプと表現力を兼ね備えた羽生は、この競技の奥深さをこう表現する。「ジャンプを跳ぶ、体力を限界まで使う、それと共に、アーティストとして芸術家としてしっかり見せられる雰囲気をつくることも必要だと思います」
涙の向こう側 2011年17歳

リンク2度失った

リンクを2度失い、自分は変わったと羽生は語る。「僕は小学校低学年の頃、さぼってばかりだった」 1度目は経営難によるリンクの閉鎖。10歳の頃だった。2度目は16歳の時の東日本大震災。避難所暮らしをし、3時間並んで手に入れたスナック菓子一袋をほおばった。横浜の都築章一郎を頼りに仙台を離れるとき、羽生は涙した。「こういう状態の中でスケートを続けていいのか葛藤した」。都築にそう漏らした。

村上佳菜子と一緒に練習 2011.8.3

神戸がくれた勇気

4~7月に約60回のショーで各地を転々とした経験が、心をいやした。「ファンの方が支えてくださっているのがわかった。練習に真剣に向き合わなきゃと思わせられた」「こっちに(練習しに)来て下さいという声をたくさん頂いた」「(神戸のショーで)震災への思いを『白鳥の湖』で滑ったんですが、たくさん拍手をしてくださって……。神戸は大震災から復興した。僕が勇気づけられました。神戸に行かなかったら、スケートもあいまいになっていた」

4回転サルコー初成功

それでもなお、横浜で感じる余震に恐怖を感じた。頑張る被災者の象徴として取材を受け続ける一方で、「自分は何もできない」と無力感にもさいなまれた。6月、せきを切ったように羽生は泣き出し、母から「頑張らなきゃね」と声をかけられた。その数日後だった。羽生は母に告げた。「そうだね。もう泣いたから大丈夫」羽生はこの頃、大技の4回転サルコージャンプに初成功している。指導した田中総司は言う。「あれだけ『しんどいっす』って顔で練習していたのに変わった。『楽しいー!』って笑って。震災後に色んな人から受けた優しさは、彼の宝物になった」

震災後、フィギュアへの思いを語る羽生 2013.8.30

突き抜けたい 2012年18歳

名選手集うカナダへ

東京都渋谷区の会席料理店。羽生、現コーチのブライアン・オーサー、現ANAスケート部監督の城田憲子、日本選手の育成に40年以上携わってきた樋口豊らが誓い合った。「世界王者を目指そう」直後の2012年夏、羽生は練習拠点をカナダに移した。トロントにあるフィギュアの名門道場『クリケット・クラブ』への移籍を推したのが樋口だった。クリケットの指導責任者のオーサーは現役時代、難しい3回転半ジャンプを武器にしていたので、4回転の先駆者になるであろう羽生に的確な助言ができる。心優しく、羽生を追い詰める心配もない。移民が多いカナダは、差別なく扱ってくれる。樋口はそう考え、旧知のオーサーや名振付師デビッド・ウィルソンに「羽生君をよろしく」と根回しした。
羽生は、移籍先で周囲の滑りに驚く。後に世界王者を争うハビエル・フェルナンデス(スペイン)の4回転。子どもの片足ターン。羽生は「悔しかった。でも、うれしかった。『俺、もっとこうなりたい』っていうものが色々と見つかったから」と言う。

樋口豊氏とのつながり

ソチのハートブレイカー

ウィルソンと親交が深く、共に羽生の振り付けをしたジェフリー・バトルは「少年が青年になろうとしている結弦の魅力」をショートプログラム(SP)「パリの散歩道」で十二分に引き出した。「女性をもて遊ぶハートブレイカー」を演じた羽生は4度、世界歴代最高得点を更新。14年ソチ五輪は、このSPとウィルソン振り付けのフリーで金メダルに輝いた。羽生はソチ後もバトルのSPで記録更新を重ねた。カナダ人に磨かれ、日本の才能は輝きを増した。
スケートとの出会いを羽生結弦にもたらしたのは1998年長野五輪だった。そのブームに乗って姉と共に競技を始めた。人生を決定づけた五輪。「金メダリストになれたからこそ、そこからスタート」と誓った。練習中に負った右足首のけがのリハビリを続け、五輪の男子フィギュアで66年ぶりの連覇に挑もうとしている羽生。今季、こんな言葉を口にしている。「つらいこと、楽しいこと、一つ一つを胸に抱いて」「みんなの温かいパワーを胸にオリンピックを頑張りたい」
  • 羽生結弦(はにゅう・ゆづる)
    1994年生まれ、仙台市出身。ANA所属
  • 2018 平昌オリンピック 優勝
  • 2017 世界選手権 優勝
  • 2016 グランプリファイナル 優勝
  • 2015 グランプリファイナル 優勝
  • 2014 グランプリファイナル 優勝
  • 2014 世界選手権 優勝
  • 2014 ソチオリンピック 優勝
  • 2013 全日本選手権 優勝
  • 2013 グランプリファイナル 優勝
  • 2012 全日本選手権 優勝
  • 2010 世界ジュニア選手権 優勝
  • 2008 全日本ジュニア選手権 優勝
  • SPIN THE DREAM(前編)夢をつむぐ 羽生結弦

    2017.12.24公開 2018.2.17更新
  • 後藤太輔

    取材:後藤太輔|twitter @gototaisuke

    朝日新聞スポーツ部記者。フィギュアスケート、パラリンピックスポーツ、サッカーなど担当

  • デザイン・制作:加藤啓太郎、佐藤義晴(朝日新聞メディアプロダクション)
    敬称略。写真は本人または関係者提供、日本スケート連盟、朝日新聞社など
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