<連載> 住まい探し 生き方探し

自分なりの繋がりを大切に、南房総で農を育む

住まい探し 生き方探し(6)都会から田舎への移住を決意(千葉県館山市)

2020.04.20

 人生後半を過ごす場所として挙げられる「田舎」という選択肢。「Iターン」「Uターン」などの言葉を耳にする機会も増え、今ではさまざまな理由から自然豊かな田舎に移住を決める人がいます。

南房総で農を育む 安西淳さん

 今年51歳となる安西淳さんは、お父様のご病気がきっかけで、安西家が代々営む農園を30歳で受け継ぎました。都会でサラリーマン生活をしていたところから、奥様と共に移住を決意され、ご家族のサポートをしながら地元の農業を盛り上げてきた安西さん。移住するまで、そして移住してから現在までの暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか?

 家族のこと、仕事のこと、田舎での生活、そしてこれからのこと。南房総で新たな農家のあり方を模索する安西さんに話を聞き、「人生後半の田舎住まい」のヒントを探りました。

父親の病気でUターンを決意

 私はここ千葉県南房総に生まれました。家は代々農家で、私は一男一女の長男。いずれは実家を継がなければいけないという意識はありました。しかし、物心ついた時から見てきた農業は「しんどくて儲からない職業」という印象が強く、実家は継ぐが農業はやりたくないと感じていました。

 そういうわけで、地元の農業高校を卒業した後は都内の大手百貨店に就職。婦人用品部門に配属され、新宿、水戸、川崎などの店舗に勤務し、新店舗の立ち上げなども担当していました。その間に結婚もして、川崎市内のマンションで夫婦共働きの都会生活を満喫。ちょうどバブルの頃だったので生活に不便もなく、「次は外車に乗っちゃう?」とか言っていましたね(笑)。

 ところが、結婚して数年経った28歳のときに父が体調を崩し、家族で営んでいた農業を母と祖母の2人だけで運営していかなければならないことに。男手が足りず、大変な状況になってしまいました。まさかこんなに早く!?というのが正直な気持ちでしたね。百貨店の仕事をある程度やりきった50歳くらいで実家に戻るのがいいだろうと考えていましたから。

 3つ歳上の姉は結婚して実家を出ていたので、自分が何とかしなければならない。退職して実家を手伝うか、会社員を続けながら週末だけ実家を手伝うか、もう少し様子を見るか。どうすべきかとても悩みました。妻や上司にも、「会社を辞めることになるかもしれない」と相談しました。助かったのは、妻の茨城の実家でも農業を営んでいるので、田舎で農家になることに妻はさほど抵抗がなかったことです。結婚するときに「いずれは実家を継ぐ」と話していたので、ある程度は覚悟してくれていたようです。

 結果的に私の背中を押してくれたのは、当時勤めていた川崎店の店長でした。私が辞めるかもしれないと耳にした店長が、わざわざ私のところへ来て話しかけてくれたのです。川崎店は店舗の中でも規模が大きい方だったので、アシスタントマネージャーの私が店長と話をする機会はほぼありませんでしたから驚きました。

 実は店長も私と同じ境遇で、20代の時に父親が脳梗塞で倒れてどうすべきか悩んだことを打ち明けてくれました。「私には家業がなかったのでここに残って働くことに決めたが、お前はあるだろ?」と。「とにかく辞めるにしても辞めないにしても、全力を尽くせ!」と言われて、「もう迷わず進もう」と決心できました。あの時に涙ながらに話してくれた店長がいたから、今こうして農業を続けてこれたのだと思います。

南房総で農を育む 安西淳さん
お話を伺った安西淳さん

 都会から田舎への移住には、不安もたくさんありました。まずは、不便なこと。家から一歩外に出れば何でも揃う都会の生活に慣れてしまっていたので、不便な生活に戻るのが嫌でした。どちらかというと、妻よりも私の方が生活を変えることに抵抗があったんです。

 ほかにも、金銭的な不安がありましたね。どう生計を立てていくかが見えていませんでした。ひとまず実家暮らしで住むことと食べることは保証されていたので、それ以外は生活水準を落とせばなんとか生きていけるだろう、というギリギリの状態でした。実際に生活が始まると、1ヶ月農家として働いた給料は3万円。夫婦2人で6万円でした。なんでこんなに安いんだと思いましたね。

 はじめは農業以外のこともやりたいと思っていたので、実家が保有している土地でコンビニやペンションを開業するプランを練りながら農業を手伝っていました。しかしその計画はうまくいかず。気がつけば、あまりにも儲からない農業に対して「何の仕組みが悪いんだ?」と必死になって考えている自分がいて、そこから農業と真剣に向き合うようになりました。

 父は脳梗塞で倒れてから3ヶ月ほど入院し、そのあと自宅に帰ってきました。しかし仕事ができる状態ではなく、週何回かデイサービスに通う生活を送っていました。高齢の祖母、母、私たち夫婦で農業を続ける日々でした。その8年後に父が2回目の脳梗塞で倒れ、2ヶ月の間に、父の入院、祖母の他界、妻の出産も重なりました。35歳で一家の長になり、「これからどうしよう?」と途方に暮れた時期も...。実家に帰ってからの十年ほどは、もう本当に大変でしたね。

南房総で感じた充実感

 実家に戻る時に感じていた不安がすぐに解消されることはありませんでしたが、2〜3年経つと徐々に慣れてきました。私の同級生は半分以上が南房総から出てしまっていましたが、地元に残った友人とまたつながることができましたし、妻も近所のコミュニティを広げていきました。会社員時代の友人が家族連れで遊びに来てくれることもありました。

 生活についてはマイナスのイメージしかなかったのですが、自然の中にいると心が穏やかになりましたし、なにより人口が少ないので一人一人の存在が大きくなるんです。地元のレタスの青年組合から、高校のPTA、バレーボールのクラブチームの監督まで、これまでさまざまなところにお声がけいただき、昼間は農業をして夜は会合やスポーツをしてと、これまで以上に密接な人付き合いができるようになり日々が充実しました。

 もちろん妻には、「私はまだこっちに友達がいないのに、あなたばっかり!」と嫌な顔をされることもありましたが(笑)。

 現在は、母と私たち夫婦、娘2人の5人で暮らしています。私には4人の子どもがいて、双子の長男長女は進学・就職で巣立ちましたが、家にいる高校一年生と小学校5年生の娘たちは休日に直売所の手伝いをしてくれます。また畑の隣が通学路なので、近所の子どもたちとも自然に顔見知りになることができました。このように自分の子どもや地域の子どもたちと関わる時間を持つことは、都会で働き詰めのサラリーマンをしているとなかなかできないことなのではないかと思います。

南房総で農を育む 安西淳さん
安西さんのご自宅。ご両親の代で建てた家屋と、安西さんの代で建てた家屋が並ぶ
南房総で農を育む 安西淳さん
安西さんの娘さんたち。学校が休みの日は、直売所「百笑園」の看板娘として活躍中。訪れた人が元気になるような明るい接客で迎えてくれる

 南房総に戻ってきたときに感じたのは、周りの農家が疲弊してしまっていることでした。高齢で後継ぎがいない農家も多く、このままでは南房総の農業は死んでしまうと思いました。このような状況は、南房総だけでなく日本国内のさまざまな地域で起きていることではないでしょうか。

 幸いなことに近年南房総には移住者が多く、40代から新たに農業を始めるという方もいます。東京湾アクアラインが開通したことにより「都心から2時間でいける温暖な田舎」という認識が生まれ、2拠点居住やリモートワークなど最近注目されつつある生き方・働き方を実践しやすいようです。このような視点から南房総を見てみると、外からの人を受け入れる寛容な土地であるともいえますね。

直接顔が見える関係を大切に、農業の新しい流通をつくっていく

 私が南房総に戻ったころは、まだ直売所もなく収穫した野菜を卸す場所が農協か地元の市場しかありませんでした。良い野菜ができても地元価格で売値が伸びず、結果的に農家に負担がかかる状況です。これを変えるために、農業の新しい流通をつくり、農業を「しっかりと利益を生み出す職業」にしていきたいと思いました。

 これまでに、南房総で採れた野菜の販売と観光案内の拠点となる直売所「百笑園」の開業、野菜の収穫体験ツアーの企画、都内の大手企業との直接取引、日本ではあまり手に入らないイタリア野菜の栽培と販路開拓、農業の魅力を伝えるためのNPO法人「南房総農育プロジェクト」の立ち上げなど、さまざまな取り組みをしてきました。農地も2倍に増やし、従業員も雇いました。テレビにも30本以上出演しましたね。

 このように活動が広がっていったのは、周りの方がさまざまな機会を与え、ご縁を繋いでくれたからです。

 最近は、都内に出て販売会を開催したり、南房総市の交流市町村である川崎市の活動団体とも交流を深めながら、良い農作物を作れる環境を増やしたいと考えています。もちろん大変なこともありますが、これまでの農家の枠を超えさまざまな繋がりをつくっていくことが本当に面白いです。

南房総で農を育む 安西淳さん
野菜の収穫体験ツアー参加者の方に、レタスの採り方を教える安西さん。収穫したての神戸(かんべ)レタスはずっしりと重みがあり、とてもジューシー
南房総で農を育む 安西淳さん
8年前に開業した、南房総で採れる野菜の直売所「百笑園」。バスツアーの目的地になり、観光案内の拠点としての役割も果たしている
南房総で農を育む 安西淳さん
援農ボランティアの作業の様子。千葉大学に通う太田さん(右)は、自分が普段食しているものがどのように育てられているか、現地で知ることに重要性を感じ、援農ボランティアに参加するようになったそう

 子どもの頃に経験した「食の記憶」は、脳のどこかに刷り込まれるといわれています。

 たとえば家族で畑を訪れて、子どもに収穫体験をさせるとします。するとその子どもが大きくなったときに、子どもの頃に食べた甘いとうもろこしを思い出して彼女とデートで畑に来る。そして親になって自分の子どもを連れて来る。そしておじいちゃんになって...と、一生のリピーターになってくれる。このように顔が見え繋がっていく関係が築けると、商売としても楽しいと思いませんか?

 とくに今の時代、生きている喜びはお金だけでは測れないと感じます。美味しい野菜が作れた。食べた人が美味しいと言ってくれた。笑顔になってくれた。そんな人間関係を農業人は昔から大切にしています。これからも、農業を通して自分なりの「いいもの」を残していけるように頑張っていきたいです。

安西 淳さん(51歳)
1968年千葉県館山市生まれ。千葉県立安房(あわ)農業高等学校(現:千葉県立安房拓心高校)を1987年に卒業し、同年4月株式会社マルイ新宿店に入社。婦人用品部門に配属される。その後、マルイ水戸店、マルイ川崎店での勤務を経験し1997年に退社。1998年に夫婦で就農し、6代目として実家の農業を継ぐ。地元の農業を盛り上げるため、1999年よりテレビに30本以上出演しメディア戦略を行う。一方で、2010年に千葉県農業士協会支部長に就任するなど、地元の活動にも積極的に参画。2012年に百笑園を開業し、都内でも販売会を行うようになる。2016年、NPO法人南房総農育プロジェクトの理事長に就任。また教育にも関心があり、2012年に地元小学校のPTA会長、2018年に地元館山総合高校PTA会長も経験している。

  • この連載について / 住まい探し 生き方探し

    退職したとき、子どもが巣立ったとき、パートナーが旅立ったとき、生涯独身を決意したとき、サポートが必要になったとき……。さまざまな場面で住まい方とともに、自分の生き方を振り返るタイミングが訪れます。人生後半を前向きに生きるためのヒントとなる住まい方を紹介します。

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