人と人とが密に関わる介護の職場。いわゆる食事、排泄(はいせつ)、車いすからベッドへの移乗といったスキルだけではなく、他人と心を通わせる姿勢が求められます。お年寄りの声に耳を傾け、その心をおもんばかる仕事は人を成長させます。それは時に人生を動かす大きな力になることも。奨励会を2度退会し、3度目の挑戦でプロ棋士となった今泉健司五段は介護現場で働く中で力を得ました。4年間介護職として働き、その後夢をつかんだ今泉さんに仕事を通じて学んだこと、さらには地域の皆さんが介護に関わる意味や魅力について話していただきました。

忘れられない「革命のような出来事」
今泉さんが介護職として働きはじめたのは35歳を過ぎてからでした。中学生で奨励会に入会して以来、生活は将棋中心で就職に有利な職歴もない。そんな時、ハローワークで見つけたのが介護の求人でした。ホームヘルパー2級(現在の介護職員初任者研修)の研修を修了し、広島県内の介護事業所に就職。高い目的があるわけではなく生きるために働かなくてはいけないというスタートでした。入職して数日後、忘れられない出来事が起こります。施設の利用者の男性から突然殴られてしまったのです。
「右ストレートを顔面にコーンとくらって。えーっとなったわけですね。あいさつで人に殴られるのは初めての経験でした。その男性は右に立たれるのを極端に嫌う人だったんですよ。左だったらよかった。左ならセーフ、右だったら殴られる。それまで相手の立場に立って動くということを全く考えたことがなかった僕にとっては革命のような出来事でした」
利用する人、働く人。介護施設では、さまざまな人が共に過ごしています。たどってきた道も考え方も人それぞれ。相手の気持ちをくみとり助け、助けられる。そんなことを繰り返す日々の中で、今泉さんは心の幅を少しずつ広げていきました。
「仕事ではミスばっかりでした。でも、同僚のスタッフさんが黙ってフォローしてくれたこともたくさんあった。例えば洗濯物を取り忘れたのを、取り込んでくれていたこととか。ご飯を炊き忘れた、と思ったらなぜか炊けていて。そんなこともあってね。やってくれたんだ、ありがたいなと思いました」

気づかされた、人の気持ちに立つことの大切さ
今泉さんが今も印象に残っているという男性利用者がいます。普段は物腰が柔らかく穏やかな人柄なのですが、トイレに連れて行こうとするたびに、びっくりするほど大きな声を出して嫌がります。でもそれには理由がありました。
「そのおじいちゃんは、戦争中独房で1年軟禁されたんだそうです。だから極端に狭いところを恐れたんです。なるほどね、人にはそれぞれ事情があるんだね、と感じました。人の気持ちに立つこと、そして人にはそれぞれ事情があるということ。35歳にもなってそんなこともわからなかったのかと言われるかもしれないけど、そこら辺を学んだのは僕にとってすごく大きなことだったんです」
今泉さんは、後に、この男性の死に立ち会います。思いがけなかった男性の死は人生観を大きく変えました。
「前日、やたらと手を握ってね。にいちゃんの手ぇ温いなって。まあごきげんなら何より、ぐらいに思っていた。それで翌朝『おはよー』と顔を見に行ったら、亡くなっていた。いやー。ショックでね。だからいまだに覚えているんだよね。その後で、別の利用者の方から言われたのが『人間には平等なことが二つある。1日が24時間しかないこと。そして死ぬ時を誰も教えられていないこと』。それからです。今は今の自分を精いっぱい生きよう。元気で過ごそう。元気で笑顔で、周りの人も笑顔になってもらおう。そう思うようになって。それから変わり出した」
介護の仕事とともに、将棋の成績が上がり始めた
介護現場で働きながらアマチュアとして将棋を続けてきた今泉さんは朝日アマ名人戦全国大会で優勝するなど、好成績を収めるようになります。
2014年にはプロ編入試験の資格を得て、ついにプロ棋士になりました。41歳は新四段の最高齢でした。1度目は年齢規定により奨励会を退会し、2度目は奨励会の編入制度を経て挑戦したものの成績が残せず失敗。3度目の挑戦でした。
「相手の気持ちを読む、など介護で学んだことが将棋に勝つ上でも必要なことだったのかなと今となっては思います。それに僕には介護現場というもう一つの帰れる場所があった。帰れる場所があるから、うまく回ることができた。大切なのは心の余裕だと思います。それまでは、ただ勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい。間違っていないけれど、足りない部分があったんじゃないか。怨念にも似た『勝ちたい』という思い。それだけではない気持ちが介護現場で働く中で芽吹いた。すると将棋の成績も上向いてきた」

今泉さんの日本将棋連盟の棋士データベースの写真は満面の笑みです。笑う練習をしていた時期もあったそうですが、今は自然と笑えるようになったといいます。
「思ったまま笑える。こういうことって大事なことじゃないかな。プロ棋士になることができて幸せです。本当に幸せです。もちろん苦しい時も当然ある。将棋指しって1局負けるたびに小さく死ぬんです。気持ちはそんな気持ちになるんです。そういう厳しいゲームなのだけれど、ずっと全くかなえられなかったものをかなえることができて幸せですよ。対局でコマを並べる時にはありがとうと唱えます」
2018年には当時15歳だった藤井聡太さんと対戦し勝利しました。幸運にも得意な勝ちパターンに持ち込むことができたのだ、と振り返ります。
「あの頃はまだ大器の片鱗(へんりん)を見せ始めていた頃だったんじゃないかな。それでもすごかったので対局する前は公開処刑みたいなもんだなと思った。けど、勝てるわけがないと思ったら絶対負けます。彼のすごいところは当時からさらにギューンと強くなったところ。恐れいった、の一言です。だけど勝てないとは言っていません。彼と戦うためには勝ち抜かなきゃいけないのですが、その資格を得たなら負けることを考えて指す棋士はひとりもいないと思います」

一緒に楽しみ、お年寄りが楽しむお手伝いをできればいい
プロ棋士になることを決めた2014年の末、今泉さんは勤めていた介護事業所を退職しました。よりよい報酬を得ようとすると、将棋にかける時間がなくなるというジレンマがあったといいます。ですが、それでも仕事としてみた場合、介護はやりがいがあるのだと今泉さんは強調します。
「自分の一つ一つの行動や言葉に対して、反応があり感情が全て返ってくるんですから。こっちが放った言葉に対して笑顔になってくれるとすごくうれしい気持ちになります。僕は世の中の動きに関してはあまり興味がなくて、目の前の人、接する人が笑ってくれたらOKだと思っています。こんなハッピーなことはないじゃないですか。自分が楽しむことで周りが楽しんでくれるのは最強だと思うんですよ」
介護で大切にしていたのは敬意です、と今泉さんは取材中何度も繰り返しました。お年寄りが働いてきたからこそ、今の私たちがあると。大切なのは年長者に対して誠意を尽くすことだといいます。
「僕は介護のスペシャリストたちが言うような利用者の能力を高めるなどといった話はできませんが、絶対に失礼のないように、といつも思っていた。そこだけは胸をはって語れる部分です。僕の在り方はちょっと特殊だとは思うんですけど、利用者の方の心情的なところは捉えていたと思います」
では、そういった心のありようがあれば、特別な資格や経験がない人でも、現場で役に立つことができるのでしょうか。
「一緒に楽しみ、お年寄りが楽しむお手伝いをする、というようになればいいですね。実際、笑えることもたくさんあったんですよ。楽しい思い出がいっぱいある。僕ももう48歳ですが、それこそ20、30年後にここに行く身。楽しんでやってもらえればいいな、と。介護現場は第二の人生を楽しむ、そんな場所の一つになると思います」
◇
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この連載について / 介護を語る
Reライフ世代にとって「介護」は他人事ではありません。親のこと、自分のこと、そして社会のあり方として、これからの介護をどうしていけばいいか。識者の方々に自らの経験やあるべき形を伺いました。
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