Reスタート 寄りそう日々<上>第1回Reライフ文学賞・Reライフ読者賞受賞作品

作・杉村眞知子さん(神奈川県)

2022.05.25

 朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第1回受賞作から、Reライフ読者賞の「Reスタート 寄りそう日々」(神奈川県・杉村眞知子さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。Reライフ読者会議のメンバーが選考委員となって選んだ作品です。

Reライフ文学賞ロゴ

<目次>

一 冒険ドライブ計画

 三陸海岸沿岸部の小さな町。
 実家の玄関から一歩外に出る。二月のその日の朝も気温は摂氏(せっし)0度、昨日より、冷気が肌を刺す感覚がゆるい。
「よしっ! 」
 一人つぶやくと、角を曲がってすぐの駐車場に行って、バンに詰め込んだ荷物の確認をする。
 これから始まる『冒険』を思い、私は緊張と興奮の混ざった武者震いをした。

 長いドライブが始まる。おそらく十時間以上かかるはずだ。運転手は従兄弟(いとこ)で幼なじみのカッちゃんだ。途中もしかしたら私も運転するかもしれない。

 半年前、はじめてこの計画を彼に話した時「いいよ! 」と、拍子抜けするくらいあっさり彼は即答してくれた。やっぱり、この人はいいヤツだ、こちらも単純に納得した。
 昔からドライブ好きの彼は、五十七歳の今も独身であることも手伝って、自分の兄姉家族や親戚たちの用事に、いつも気楽に車をだしている。そして、都合さえつけばいつでも私たち家族を、どこにでも連れて行ってくれる。父や母が最も信頼する私の幼なじみだ。いつも余計なことは言わず黙々と、ドライブに専念するのだ。

 ドライバーも決まり安心して本格的な準備を進めていく。
 とにかく大柄な大人二人が身体を完全に横たえて、しかも風邪をひかないように温かくしなくてはならない。決行するのは来年の二月、一番寒い時期だ。
 津波で流された車の代わりに、中古のバンが、早くも購入できたことをカッちゃんに伝えなきゃ。買い物に行く前に、また彼に連絡して、近くのファストフード店で会った。
「今百均に行って、毛布がずれないように車に敷く滑り止めを、たくさん買ってきたんだよ」
 商品を見せながら、もう一度ドライブの詳細を語る。するとカッちゃんは、
「本気なの? 冗談かと思ってた……」
 驚いた顔でいうではないか。
「冗談な訳ないでしょ。カッちゃん、私の両親の状態を一番知っているじゃない」
「いや~しかし……本気? だって大変だよ? 」
「大変に決まってるじゃない。だから半年かけて計画立てるわけで」
「しかも、これはカッちゃんにしか頼めないんだから。お願い! 本当にお願いします! 」
 私は真顔で両手を合わせた。
 彼はしばらく思案している。
「もっと、あったかくなってからでもいいんじゃないの? 二月だと、まだ雪も積もっているし」
 ごもっともだ、それを言われると辛い。しかし、来年の春か夏まで待てっていうのか。無理だ、私には無理。そして両親にも無理。
 確かに暖かい時期のほうがドライブは楽だ。しかし、それでは私の身がもたない。

 すでに三カ月間、実家で両親と一緒に過ごしている。
 三・一一の津波で被災した家の片付け、ついでにガラクタ掃除、要介護認定制度利用のための申請、ケアマネジャーと打ち合わせ、役所に行って被災申請書類を受け取り記入して戻す、両親の病院の送り迎え、流された後の車の調達、三度の食事の合間に買い物、何から何までしなければならない。しかし問題はそこではない。
 避難所で、一気に認知度が悪化した両親と過ごすのは、大変なストレスなのだ。
 家の一階が浸水したのでリフォームして過ごしてはいるが、塩害によってストーブ、洗濯機、風呂など電化製品が使えない。買い替えが必要であることや、購入・修理の順番待ちをしていること、申請書類を出すと様々な補助金が下りることなど、耳の遠い父にいちいち大声で、時に筆談で説明し、必要金額をお願いして工面してもらう。
 ただでさえ慎重な父は、私すら疑ってはばからない。お財布もがっちりと手放さない。説明せずに、勝手に片付けたり、物を購入したりするだけで、怪しんでギロリと睨(にら)む。私が肩代わりするには際限のない状況だ。
 周りの人々は簡単に「後見人手続きを」というが、肝心の医師の診断書すらない。当然ながら診断書は認知症の人本人が医者に行って、受診しなければ受け取ることも出来ない。
「避難所でストレスが多かったから、市民病院に行くついでに神経内科に寄ってカウンセリングしたらどう。よい薬ももらえるだろうし」
と、何度か水を向けた。
「なんであそこの精神科に行かなきゃならんのだ。私たちが変だっていうの? 安眠剤なら主治医にもらっている。避難所からやっと出て無事に家で過ごしているのに、お前は我々をどうする気だ! 」
 父も母も猛烈な剣幕である。
 加えて、何十年も夫婦二人で暮らしてきている。いくら娘とはいえ、もともとさほど仲が良くない私たち。四十年ぶりに共に暮らす親子は、ギクシャクしたものだ。
 父も母も、実の娘である私は、他人より安心して気楽に使えるものの、同時に私の普段の生活を拘束していると、少し申し訳なくも思っている。
 私自身は、津波被災後の尋常ではない生活と、恐怖のため被害妄想に陥って、認知力の落ちた両親との暮らしは、緊張に満ちていた。
 しかも現実的には寒さも迫っていた。二人の身体が弱っていることも、目に見えて明らかだった。
 更に彼らは、家に戻ったことに安心し、また二人で以前と同じように、暮らすつもりなのだった。
「もう少ししたら帰ってよいから」
 父も母も、日々私に言うようになった。
「とてもではない! この人たちを置き去りになど、出来るものではない」
 私は心のなかでつぶやいた。

 「お願い! お願いします! 両親が信頼するのはカッちゃんだけなんだから。ずっと一緒にいても、誰も疑わないし。十時間以上の安全運転ができるのもカッちゃんだけなんだから」「むこうに着いたら、ちゃんと近くのホテルを予約して泊まってもらうし、帰りの旅費も、もちろんお支払いします。極力負担をかけないように、いや、かけるかもしれないけれど、極力配慮するから」
 私は本気であることを、必死に訴えた。
 彼はしばらく思案していたが、
「うん! いいよ」
 今度もはっきり言った。しかし今度は真顔だった。そうか、確か前回即答したときは微笑(ほほえ)んでいた。だから本気じゃなかったんだ。
 私は今後、彼に会う都度、具体的な順序立てを伝え、毎回本気度を伝えなくては、と思った。

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三陸海岸の被災地

二 津波後の生活

 実家は、津波のために一階は浸水したものの、家屋全体は無事であった。津波が来た三月十一日の夜、両親は避難所に指定されている学校に行かず、無傷だったご近所の家にお世話になったようだ。

 その後は学校の避難所で過ごした。
 このときすでに認知症だった母は、この集団生活で一気に認知が悪化してしまった。津波によるショックに加えて、八十代で集団生活を強いられ、次々に起こる変化に耐えかねて、繊細だった母の精神は崩壊してしまったのだ。
 幸い、海から遠い内陸の町に住む、父の教え子たちが心配して迎えに来てくれた。六十代になる教え子の、四十代の息子さんが、内陸のその町で、介護施設を開設したということだった。彼らはその施設の一番良い部屋に両親を迎え入れ、被災者ということで特別待遇をしてくれたのだった。
 正気だった父は、その間ずっと家の心配に明け暮れた。父にとっては命に代えてもおしくない我が家だ。

 教え子たちは父を説得していた。
「津波に襲われた町に戻っても、町は汚泥と瓦礫(がれき)だらけ、インフラも復旧しておらず、片付けはおろか日々の生活の目処(めど)もたたない。今は戻らないほうが良いです」
「家が残って、リフォームすれば住まえることが分かっただけで十分ですよ」
 教え子の町に移動する時、我が家の存在をしっかと見届け、中を確認したはずの父なのだが、一階が破壊されていたこともあり、いても立ってもいられなかったのだろう。その施設には二十一日間お世話になり、津波から一カ月半に及ぶ避難生活が終わった。
 まだ寒い四月の下旬、両親はやっと自分たちの家に戻ってきた。東北に向かう交通網もようやく復旧し、私も付き添うことが出来た。

 日々ともに過ごす中で、初めて母の認知力が、かなり落ちているということに気づかされた。
 津波以前にも、実家の隣家の方から、何度か心配の電話をもらっていた。その都度電話を入れて、母と話をしていた。
「元気で過ごしてるの? 不便はないの? 大丈夫? 」と聞くことしか出来ない。
「大丈夫よ」その都度、母は明るい声で即答した。
 しかし、実態は明らかに、被災したことが原因ではない状況。実家のキッチンの尋常ではないすすだらけの壁、物置に隠すように積み上げられた真っ黒に焦げた鍋、きれい好きな母の乱雑な寝室、新品の炊飯器や洗濯機が使えない、お金が無くなった等の訴え。
 夫婦ふたりで生活していくのは、無理であることが、はっきりと分かった。母は父にいつも言い訳をしていて、父はなぜかそれを鵜呑(うの)みにするのだった。不思議なことに、父は母の認知力をほとんど疑わないのだ。夫唱婦随も板につきすぎて、相手がそれこそ負傷しても二人三脚をやめないのかしら、父にとってそれを認めることは、敗北なのかしら、そんな風に、漠然と思ったりした。
 未曽有の天災は人間を恐怖の虜(とりこ)にする。身内が行方不明の人たちの、限りなく深い恐怖の中で、命の危機が去った者たちも、深く震えおののき、身を寄せ合ってもなお拭えぬ不安は、人の心を疑心暗鬼にさせていく。集団で居る安心感とともに、見知らぬ人同士が片寄せ合うこと自体が徐々に不安になり、その恐怖にのみ込まれていく。母は集団生活の中で、被害妄想に陥ったようだ。母のそばで付き添っていた方が私に電話をよこした。
「迷惑だ、子供ならさっさと迎えに来い! 」
電話口で、私は理不尽に罵倒された。
 後になって、この方は母の認知症を知っていて、母をうまく操っていたことを知った。老いて弱ると、たとえ夫婦二人で住まおうが、一気に餌食にされる、この世は弱肉強食の世界である事を、何度も思い知らされた。
 一方、無条件に両親をかばい、心配してくれるご近所の方々もたくさんいた。
 このようなことはあの被災当時、枚挙に暇がない話であろう。

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三 いつわりのドライブ、冷や汗

 冒険ドライブ決行の朝。
 いつものようにのんびり起きた両親と朝食をとりながら、私は二人を、何げなくドライブに誘った。
「今日も寒いけど、よく晴れているし、久々にドライブに行ってお墓参りでもしない? たまには二人共外に出たほうが良いわよ。引きこもってばかりいると身体にカビが生えちゃうよ。車の中は温かいし、運転は、名ドライバーのカッちゃんに頼んだし。私の運転よりよほど安心でしょう? 」
 津波で町ごとなくなってしまった母の実家の町に行って、お墓参りをする。町外れの仮設住宅に住む親戚を訪ねる。そして道の駅でゆっくりランチをして、そのまま一気に高速道路に乗る算段だ。もちろんこのことは両親には言っていない。

 楽しげに、お墓参りからランチまでの話だけをして、二人を誘った。
 当然ながら「ドライブ? 」と父は面倒そうな顔をした。父は足が悪いので、杖が必要だ。家からほとんど出ることはない。二階の書斎と寝室で暮らしていて、日中、一階の台所に食事に下りてくるだけで、彼には十分運動らしい。
 幸い、長い厳しい冬の暮らしに飽きていて、母がお墓参りに賛同してくれた。母さえ協力してくれれば、彼女の「一緒に行きましょう! 」の一言で、父は簡単なものだった。
 いま思い返しても、この認知力の落ちた母の協力なしには、すべて、何もなし得ることはなかった。
 こうして私と両親を乗せたバンは、二月の寒空の中、冒険ドライブをスタートさせた。

 母の実家の町は、何一つなかった。町だった場所には見知らぬ道が作られて、たくさんのブルドーザーやダンプカーが行き交っていた。
 大正十四年生まれの母は、八歳のときにも「三陸大津波」に襲われている。そして、実の母親と姉二人を亡くしていた。
 母は、小さい声で ♪おおつなみ~ と、歌を歌った。当時、そういった歌ができたらしい。
 今回の津波で、メディアは復興は五年、いや三年以内になされなければと、必死で報じている。母はいとも簡単につぶやいた。
「おおつなみ……復興は十年以上かかるんだよね……」
 子供時代は大津波、青春時代は戦争、そして八十代で再び大津波に襲われた女性の人生を、私は想(おも)った。
 幸いお寺は、小高い山上にあり、お墓は残っていた。母が八歳の津波の時に避難した場所だ。皆で墓前に手を合わせた。
 母の代わりに私は、「さようなら。この人たちを助けたいのです。この旅をお守りください」
心のなかで祈った。

 その後、仮設住宅に住んでいる親戚に会いに行き、久々の再会をはたした。帰りぎわに、私は叔母に、
「もう神奈川に連れていくの。たぶんもう会えないかもしれない」
こっそりと伝えた。
「それがいい……」
叔母も、物静かに何度も深く、頷(うなず)いていた。
 帰り道、穏やかな美しい海岸線を眺めながら、久々のドライブに両親はうっとりとしていた。
 お昼のサイレンが鳴った頃、予定していた道の駅へ向かった。
 昼食をすませ、食後の血圧の薬、その他に胃薬と偽って安眠剤を飲ませた。理科の教員だった父は、薬にもチェックが厳しい。
 薬は医師が処方してくれたもので、長く深く眠れる。 

 半年前のある日、いつものように二人を主治医の所につれて行った。
 長年、二人を診てくれている先生は両親の診察後に、私を一人呼び出した。
「ご両親は、あなたにはもう神奈川に帰ってもらい、今まで通り二人で過ごすと言っています。しかしずっとお二人の様子を診てきましたが、すでに二人で暮らすことは無理だと思います。危険だと思います。何かあってからでは遅い、私も協力しますからよく考えて、できれば暖かい神奈川に連れていって上げたほうが良いと思います」
 主治医は真剣な目をして言った。

 そこから、現実的な計画をたて始めたのだった。
 『この家で最期まで暮らし、人の手は借りないのだ』と、父は自分たちを信じて疑わない。父の信念は『(健康な)母ありき』なのだが、その母はすでに心身ともにボロボロなのだ。父にはそれが見えていないようだった。
 列車に乗せて行くのが一番早いのだか、一歩もどこへも行く意志もない。日常が一変してしまい、実は、彼らはもうヘトヘトなのだ。もし列車に乗っても、母は大声で子供のように騒いで、じっと座っているとは、とうてい思えない。

 かくして私は計画を実行に移した。
 八十五歳の父と八十三歳の母を白いバンに乗せて、東日本大震災に見舞われた東北沿岸の町から、神奈川県にある私の家までのドライブが始まった。両親にとっては、二度と戻ることのないであろう、故郷との別れのドライブだ。そして、二人は何も知らない。

  薬は意外に早く効果が出た。
 二人は、レストランの椅子から立ち上がれないほどの、眠気に襲われてしまった。外は寒い。コートは着なければならないマフラーもしなきゃ、手袋はもちろん帽子も。両親は無意識に杖を探す。手分けをして私が父を、カッちゃんが母を支えて、ほとんど担ぎ出すような格好でレストランから外に出た。四人とも足はもつれ身体全体が揺らめき、傍(はた)から見たらさぞや不思議な光景だったに違いない。大柄な人たちなので大変に重い。
 やっと車に戻れた。
「久々に外に出たから、一気に疲れが出たね、すぐに横になれるようにするね」
 私は言いながら、後ろのシートを全部倒し、用意しておいたシーツや布団などを、手際よく掛けて、真っすぐに寝かせつけることができた。
 真冬なのに、私は汗びっしょりだった。そしてカッちゃんを見て「行くよ! 」と眼(め)で合図をした。

 午後二時になろうとしていた。ここから一気に東北自動車道に向けて出発、雪が随所に残る危険な道を、カッちゃんは慎重にしかし迅速に黙々と運転する。やっと高速道路に入ってホッとしたのもつかの間、不意に両親が目覚めた。
「ここはどこ? 」
 二人は怪訝(けげん)そうに不安そうにたずねる。
「ごめん、津波の後の工事のために道がわからなくなっちゃって……でも大丈夫だから」
 苦し紛れにそんな返答する。復旧工事が多くて、道が変わってしまった場所は随所にあった。実家の町で、それを見ていた二人は、安心してまた眠りに落ちた。
 北国の真冬の夕暮れは早い。闇の中に時々町の灯がちらほら見える。車は一気呵成(かせい)に岩手県、宮城県、福島県を抜け、栃木県へと入って行った。 
 途中何度か二人が目覚め「ここはどこか」と聞く。私はその都度冷や汗で身のすくむ思いをした。栃木県付近のインターチェンジでトイレ休憩をとった。よく薬が効いているのか、いつの間にか夜になり、真っ暗になったその状況にさえ、彼らは何も言わなかった。その後は順調に神奈川県まで入ることができた。

 夜中の十二時少し前、やっと私の家にたどり着き、十三時間のドライブが終わった。
 カッちゃんには近くのビジネスホテルに泊まってもらい、新幹線でゆっくりと帰ってもらうことになっていた。
 彼がいなければ全く成し遂げることのできないドライブだった。
 なにも言わず黙々と、ただ安全運転を心がけて移動してくれた。
 今でも、時々彼と電話で話す。
「おそろしいドライブだったね! 」
 私が言うと、
「はいー! 」と朗らかにそれだけ。

<中>に続く

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 「Reスタート 寄りそう日々」<中><下>は5月26、27日にそれぞれ配信予定です。Reライフ読者特別賞の「春を待つ手紙」も5月30日からReライフ.netで公開します。最優秀賞の「ハルジオンの花」は、文芸社から年内に書籍として出版される予定です。

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