Reスタート 寄りそう日々<中>第1回Reライフ文学賞・Reライフ読者賞受賞作品

作・杉村眞知子さん(神奈川県)

2022.05.26

 朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第1回受賞作から、Reライフ読者賞の「Reスタート 寄りそう日々」(神奈川県・杉村眞知子さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。今回は<中>です。

Reライフ文学賞ロゴ

<目次>

四 認知症の母に救われる

 翌日朝は、当然ながら私の家である。場所が変わっただけで、いつものように三人で普通に食事をした。
 驚いたことに、母は、
「ここはあなたの家ね? 一度来たいと思っていた。良かったねぇ、お父さん! 」
 そう言ってくれたのだ。父はキョトンとしていた。しかし、
「やっと来られたね! 以前から来ようと言っていたじゃないの」
 母に畳み掛けられて父は更に絶句した。
「そ、そうだな……」
母の認知力を全く疑おうとしない、知性と記憶力に自信がある誇り高い彼は、改めて言い直した。

 日常生活さえこなせない母なのだ。
 母は、なんども何度も、
「このバカが! 役に立たない! 」
 そう言って自分の頭を殴りつけていた。
「役たたない! 迷惑をかける! 」
 それが口癖で、その振り絞るような声に、本人が一番辛いのだと知らされたことが何度あっただろう。
 その母が、全く知るはずのない私の計画を手助けし、全幅の信頼で協力してくれている。

 新しい生活が始まった。地域のケアマネジャーやヘルパーさんにも家で暮らすための協力をしてもらった。田舎の家と違って、どこでも手が届く狭いマンション暮らしも、便利なようでいて、階段や少しの段差も老人には危険だ。トイレのスリッパを履こうとして、母は転んでしまい身動きが取れなくなったり、父が身体を支えるために、壁に手をついてマンションの非常ベルが鳴ったり、大騒ぎの毎日だった。
 それでも、ご近所の方々が、
「せめてお話しさせて下さい」と、両親の話を聞いたり、町の紹介をしたり話し相手になってくれた。

 数カ月経つと、幸い近くの新しいグループホームから連絡が来て、そこに入れることになった。
 両親には、被災者支援だからと偽って、一時入居出来ると説明した。
 災害時に介護施設にお世話になった二人は、私の家も近く「毎日会えるから」と言うと、すんなりと了解してくれた。

 施設の生活にも次第に慣れて、体力が回復した父はその頃から、
「こんなところにずっといたらお金がかかるはずだ、そろそろ帰ろう」
と言い始めた。父は認知力が落ちているが、父が言う言葉は当然のことばかりだった。私はそのたびにビクビクとしていた。
 グループホームに入るには住民票が必要であり、事前にそれらの書類も整えてあった。そういった事前調査と確認、書類の用意などもぬかりなかったのに、私は故郷から引き剝がされた両親の想(おも)いを勝手に想像し、本当に良かったのだろうかと時々考え込んだ。何か自分が悪事を働いているような気さえした。認知症の人は機能が衰えても感覚はするどい。ビクビクする私は、父から見たら、いつもの頼りない娘に見えていたのだと思う。
 しかし、父がそんなことを言い出し、私が戸惑う度に、
「私、帰りたくない。帰るなら一人で帰って! 」
母がピシャリと言ってくれる。

 グループホームではプロのスタッフが、被災者である両親を大変いたわり、二人の話を傾聴してくれた。
 二人はそこで、『被災した辛さだけではない、人生の苦しみを吐露し、重荷を降ろす』ことが出来たと思う。
 長きにわたる人生の心の襞(ひだ)を、全部聞き取ること自体、不可能かもしれない。打ちひしがれ、粉砕され、傷だらけの人の心を、時間をかけて丁寧にゆっくり開いていく。プロであるスタッフにとってもそれは大変なエネルギーだろう。しかし、かれらは全力で、それをしてくれた。
 また、教員であった両親には豊かな表現力もあった。
「生きるのって大変! 」で始まる母のストーリー、「人生とは……」で始まる父のストーリー。経験豊かな複雑な人生を、適切な言葉で紡いでいく。

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廃校となった小学校

五 辺地三級の子らとの教員生活

 両親は教員だったが、私が一歳の時に、ガスも電気も水道もない辺地第三級に赴任した。
 辺地三級とは、交通条件及び自然的、経済的、文化的諸条件に恵まれず、他の地域に比較して住民の生活文化水準が著しく低い山間地、離島等のへんぴな地域(以下「辺地」という)。
 そこには昭和三十年代なのに明治時代と変わらぬ暮らしをしている集落の人々がいた。その雪深い山の中にある分校宿舎で私たちの暮らしは始まった。

 今でも手元に母の記録が残っている。
 それは「辺地の子らと」(岩手の山奥の中学教師夫妻の生活)というタイトルで、赴任した辺地三級地域で過ごす、若い教員家族の日々を、母がある雑誌に投稿して特選となったものだ。この賞のお陰で全国津々浦々から、たくさんの支援物資が届いたという。野球やバレーボールなどの道具一式、書籍、衣類、食料品、あらゆるものが送られてきたそうだ。

 昔の両親の話によると、この時、鎌倉からたくさん本を送ってくれた女子大生と文通が始まり、後にその姉妹を集落に招いたそうだ。その後、賞のご褒美で東京に遊びに行った折、鎌倉で再会したという。
 映画化される計画も持ち上がった。当時松竹映画の看板監督の一人、木下惠介監督が何度か打診してきて、映画化を持ちかけた。しかしそれは「村の恥をさらすのでは」という集落の人々の反対にあい実現しなかった。今では私の生まれた町より開発された地域になっている。
 しかし母の文章で、学校は全国に名をしられることとなった。これが後に村が電化していくきっかけになっていった。

 雑誌に掲載されたコピーが手元に残っている。短い文章なので引用しておこう。


 「辺地の子らと」   小西 八重子

 辺地第三級――これが今私達(たち)夫婦が奉職している学校に与えられた公式の地域別名称です。
 海はおろか、汽車すら見たことがないという子供たちが、小・中学校あわせて約百名。昭和四年創立のままの校舎に、二学級同居の授業をうけています。
 片方で二年生が「コクゴ」の本を読んでいる時、ルンペン・ストーブ一つへだてたすぐ隣側で四年生が「ソロバン」のおけいこ。

(〘名〙 (洋語Lumpen+stove) ストーブの一つ。 円筒型ストーブに石炭を積み入れ、煙筒に連結、上部より着火する。weblio辞書より)

 親子で私たちがこの「日本のチベット」「陸の孤島」といわれる土地へ赴任したのは一昨年の九月。二里も三里もはなれたところからたった一人で、元気に通ってくる炭焼きの子供たちや、粟(あわ)やヒエやいもで、おなかをふくらませている農家の子供たちと仲よしになったのは、それから間もなくでした。ただ名前を覚えるのには骨がおれました。
 というのは、子供たちはほとんど同じ苗字(みょうじ)だったからです。「上曽根の二衛門君」「冷水のはなえッコ」やっと彼らの名前をそらんじるようになったころ、私たちは文化果つる場所に来てしまった、という孤独感や悲壮感からは、すっかり解放されてしまっていました。
 校舎と並んだ一棟のなかに、私たち一家のほかに若いご夫婦の先生が住んでいます。赤ちゃんのめんどうをみる人がいないので、授業中は夫婦交代で「ねんねんころり……」
 冬、ここでは地上の一切のものが凍りついてしまいます。だから飲料水は井戸からではなく、雪におおわれた川の水を汲(く)み上げねばなりません。吹雪の中でも、私たちは日々数回これをくり返すことを怠ることはできないのです。
また、私たちは部落唯一の「公衆衛生係」でもあります。臨時の床屋で十円二十円得たささやかな収入は、まとめて子供たちの書籍購入費にあてます。子供たちはストーブのそばで本を読むのが大好きです。
 めったに素顔をみせない太陽が西の端に沈むと、ここはもうすぐ闇。
 雪まじりの風が外の戸板をガタガタ震わせる夜は、ほのぐらいランプもいたずらに眠気をさそうばかり。
 しかし私たちは、明日はぜひここに文化の灯をともしたいと思うのです。

(『婦人倶楽部』P68~74。昭和三十年ごろと思われる)


 

 至って簡潔な文章だ。写真も添えられている。

 黒板の前には赤ちゃんをおぶった若い女の先生、中央にはルンペンストーブ、そのまわりの席には、絣(かすり)柄のちゃんちゃんこを着た子供たちが座っている。後ろをぐいっと振り向いているイガ栗頭の男の子もいる。

 雪におおわれた山間の道を、兄弟とおぼしき子供二人が長靴のようなものをはいて歩いている。Hata(旗)と横文字で書かれた教科書を食い入るように見るおかっぱの少女。小学生なのに妹や弟をおんぶして、ねんねこ(赤ん坊の上から羽織る着物)をかぶり教室にいる子供たち。

 ささやかな飾りモールを天井から吊(つ)るした教室の右側で、若い父は中学生に英語を教えている。母はストーブをへだてて左側で、小学生に教鞭(きょうべん)をとっている。一心に真っすぐに黒板を見つめる子供たちの顔。道なき山中を、頰かむりをして長靴をはいて歩く男の子たち。まわりは一面の雪。でも子供たちの顔には笑顔があふれている。白黒写真なのに頰が真っ赤なのが分かる。若い男先生が赤ちゃんを抱っこしながら、子供たちの習字を見ている。墨をする少女も赤ちゃんをのぞきこんで楽しそうだ。シラミがたかった男の子の頭を、母がバリカンでカットしてDDTを振りまいている。
 氷が張った近くの川で、母がバケツに水を汲んでいる。
 そして最後の写真は、ランプの灯の下で、母が私を抱っこし、こたつを囲んで食事をしている。

 そうだ、私にもおぼろげな記憶がある。
 小さい私の手によるお手伝いは、ランプのホヤ磨きだった。クシャッとまるめた新聞をガラスのホヤにさしこんで、手を回すと、黒いススが新聞のシワに入り込み、キュッと音がするのだった。

 父もまた、この地の電化運動と校舎改築運動に尽力した。その時の、新聞記事が手元にある。


昭和三十八年四月二十七日(土)産経新聞岩手版五版 (原文ママ、以下同)

『やっと電気がつく 岩泉町三田貝部落 恩人招いて点灯式』

 「先生のおかげで部落に電灯がつき、やっとランプ生活から開放されました」――部落あげての七年間の電気導入の努力が実を結び、このほどよろこびの「点灯式」を行った岩手のチベット地域、下閉伊郡岩泉町三田貝(みたがい)部落民は、かつて辺地教育の振興に情熱をかたむけるかたわら、部落の電化につくしおしまれて転任した「おらが分校の先生」を点灯祝賀会に招待、よろこびをわかちあった。(三田貝部落電化促進運動委員会川村源一郎会長)は、このほど部落七十七戸に電灯がついた点灯式を、小川中、同小学校三田貝分校校舎で行ったが、この晴れの点灯式にかつて同分校の主任で、部落の電化に功労のあった下閉伊郡新里中学校蟇目分室主任、小西達男教諭(39)を、招待、長いランプ生活から開放されたよろこびをともにした。
 三田貝部落は国鉄小平線の終着駅浅内から葛巻町寄りに三十㌔山に入った辺地。この辺地三田貝分校で、小西先生は昭和三十年四月から三十五年三月まで教鞭をとった。当時は勿論(もちろん)、同部落は代表的な岩手の無灯火地帯で、分校に「水車式」の自家発電設備があるだけ。
 ランプ生活では児童の学力が低下するばかりで、部落民の生活向上も期待出来ない―と考えた小西先生は、部落民に電気の導入運動を呼びかけ、三十二年秋、部落の有力者川村源一郎さんを会長に、電化促進委員会を発足した。そして小西先生を中心とする部落民あげての電化促進運動と同時に分校改築運動もはじまり、分校の改築は(一部読解不明)三十四年に完成、電気促進運動がやっと軌道にのり、東北電力の無灯火解消年次計画のメドがつき始めた三十五年四月、小西先生は同郡新里村和井内中学校に転任してしまった。
 部落民は小西先生の転任を惜しんだが、先生の努力を無駄にしないようにしようと、さらに強力な電化運動を続け、農漁村電化促進法による補助と部落負担金など合わせ、竣工(しゅんこう)費七百二十万円で四月初め電気導入工事を完成、この程(ほど)運動開始以来七年ぶりで、部落七十七戸「文化の灯をともす」電灯がついた。
 三田貝分校の児童、生徒約百人は、これで家に帰っても安心して勉強ができると大喜び。分校主任の菊池米夫先生(40)=小学校=内村利裕先生(32)=中学校=も、こどもたちの学力向上はもちろん、今後はラジオ、テレビなどの視聴覚教育で児童生徒らの生活の視野が広くなり、学習に大きなプラスになると喜んでいる。
 長いランプ生活の不便から開放された部落民は、かつての電化促進の指導者小西先生とともに点灯をよろこび、これからは生活を楽しむことができると、こんごの生活設計を話し合っている。
 小西先生の話「部落の人達の熱意で点灯されたもので、三田貝分校のPTA教育の熱心さには頭がさがるおもいです」


 

 両親はこの地でフロンティアだった。

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六 両親の傷、私の傷

 若い両親にとっては、大変な、しかし生きがいのある暮らしだった。
 しかし現実的には苦悩も抱えていた。

 事故が起きたのは、入村して半年たった真冬のことであった。
 ある晩のこと、山間をつんざくような大きな激しい地震が来た。その時の激しい揺れで、煮えたぎるヤカンが落下し、一歳の私が大やけどを負ったのだ。下半身のやけどの傷が深く、医者もいない集落だ。父は真冬の豪雪の中、雪をかき分けながら、私を抱きかかえ、徒歩で医者のいる村まで必死で歩いた。途中何度も、雪で患部を冷やしながら、二時間以上かけて、やっと医者の門を叩(たた)いた時には、すでにぐったりと泣きもしない。
 父は「もう駄目だ! 」と感じた。
 しかし幸い医師の手厚い処置のお陰で、私はなんとか息を吹き替えした。

 この事故の詳細は、中学生になってから、ほぼこのままの内容を一度父から聞いたにすぎない。傷は深かったが、その後は無事に回復していったようだ。
「もともとおとなしくあまり泣かない赤ちゃんだったの。ほとんどおしゃべりすることもなく、とても良い子だった」
 母は淋(さみ)しげに話した。父と母の、苦痛に満ちた、悲しみにあふれた眼(め)をみて、私はそれ以上何も聞くことは出来なかった。
 もちろん、赤ちゃんだった私には全く記憶がない。

 本来は三年間で元の町に戻る予定だった。
 子供たちの教育に情熱を注ぎ、村人と協力して電化促進をし、信頼も絆も強まり、私たち家族は、結局この集落に五年間滞在したのだった。

 私がちょうど六歳になり、小学生に入るのを機に、元の町に戻った。しかし、実際には、私は七歳で小学校に入学している。
 当時、教員である両親は、私を啞者だと思っていたようだ。
 特別学級がなかった頃、普通の学校に入れるには忍びなかったと、父が言っていた。
 ぼーっとしていたようだ。
 七歳入学、その時代にはそういったことがゆるされたのだろうか。とにかく私の同級生は皆一学年下なのだった。

 当時の私の感覚だと、まわりで起きていることも理解していたと思う。家族に囲まれながらも、「この人たちは、どうしていつもケンカして泣いたり笑ったり、怒ったかと思えばまた笑い、何をしているのだろう? 」という感覚が強かった。たぶんそういった感覚は、八歳ころまで続いていたと思う。
 両親の不安は、如何(いか)ばかりであっただろう。

 しかし、ある日私はふと気づいた。私を覗(のぞ)き込む四つの眼。恐怖と不安に怯(おび)えた四つの眼、しかし私を大切に思う温かさも、強く感じる眼だった。私は、生まれてはじめて父と母が私を見る眼差(まなざ)しに気づいた。
「自分はこのままではいけないのだ」、強烈に思ったことを記憶している。それは「この人達を悲しませている」という感覚だった。

 それからは実に良く努力をし続けた。周りのこどもたちを参考にして、一生懸命話す努力をした。学校生活も頑張り、常に良い成績だった。
「皆よりお姉さんなのだから」心のどこかで、そう思っていた。
 私はなんとか普通らしい子供に戻っていき、両親の不安材料も減っていった。

 町に戻ってから、両親の生活も大きな変化があった。
 教育に情熱を傾け、地域を良くしようと奮闘していた時代から、母は姑(しゅうとめ)・小姑(こじゅうと)たちがいる中で暮らすことになり、慣れない祖父の工場を手伝う生活に苦労していた。両親は、集落の中卒の子たちを引き取り、町の職場に就職を世話し、母は家に引き取った娘たちに、仕事を覚えさせ、花嫁修業をさせるのに夢中になっていた。

 父も、教育現場で新しい事業に関わっていた。昭和三十年代、文部省の取り組みで、小中学校に『特別支援教育・特殊学級の設置』が導入され始めた。学籍や待遇、学校側の受け入れ方や学級保護者の意向等について、入りくんだ問題があった。
 その価値を理解してもらうために、父は毎日、かなり広い地域をオートバイでかけめぐり、父兄たちに啓蒙(けいもう)と協力を求めて奔走していた。
「何がその子にとって、一番幸せなのか父兄がなかなか理解してくれない。明らかに他者の手助けが必要な子供は別だが、ほとんどの親たちは『うちの子が変だっていうのか? バカだってい言うのか! 』とすぐに怒鳴りつけてくる。塩まで撒(ま)かれた」
「真の平等ってなんだろうね」
「平等教育……」
 関西なまりの祖父と祖母が言う。祖父は、高等師範学校出身の秀才、祖母は高等師範女学校出身の才媛(さいえん)で、関西人だった。
「う~ん。それなんだよね。親は子供が学校に行ってくれれば安心かもしれなが、一般学級にいても自然に取り残されたり、無理な苦労を強いられたり、本人が一番気の毒なのだ。ただ線引きが難しい……」
 父が苦い顔をして答えている。
 夕食の時は、そんな会話がよくなされていた。
 いつも大人たちは、こどもの教育について真剣に話をしていた。
 祖父母たちも、関西から北上し、薬の販売をしながら北海道を目指し、最終的に岩手県沿岸部のこの町に落ち着いたフロンティアだった。

 そんなある日、小学校三年生の私の身に事件が起こった。
 学校の帰りに大人の男三人組に取り囲まれて、グイグイと身体を押されながら、家から程遠い山の中に連れ込まれた。
 冬の枯れ笹(ささ)が鬱蒼(うっそう)として、ガサゴソ音をたてる恐怖の音がした。
 その時幸い、一人の男が山の傾斜で足を滑らせた。私は「ワーッ! 」と叫んで、一気呵成(かせい)に逃げおおせた。
 小学校と家の距離を考えると、およそ一時間ほどの話であろうか。
 悲惨な状況で家にトボトボ帰り着いた。
 しかし、私はこのことを母に話せなかった。長い間、心配をかけてきた母が、あまりにも不憫(ふびん)だと思ったのだ。学校の友だちが理解してくれるとも思えず、誰かに言おうと思えば思うほど、ますます言えなくなった。
 そして、結局、誰にも言うことが出来なかった。

 その後も、学校生活に適応して成績も良かったのだが、家ではまた無口な子供に戻っていった。
 四年生の時には、ボーッとして大きなガラスの水槽に激突し、額を大怪我(けが)をした。その時の、驚いた父の顔が、目に焼き付いている。慌てふためいた父は、担ぐように私を近くの医者の所に連れて行き応急処置をした。そのためかどうか分からないが、いまだに眉間(みけん)に傷が残っている。六年生の時には、いとこの家に行った母を自転車で追いかけていき、何故か停(と)まっている無人の大型バイクに激突し、交通事故にもあった。私の身体はあちらこちら傷だらけだったが、心はもっと傷が深かった。何かこどもながらに、自殺行為をしていた気がする。
 私は既に、一人で我慢したり、親の手助けなしに努力したりするという、重荷を負うことで、子供ながらに疲れていた。
 原因は分からなくとも、子供を見慣れている両親は、「やはりこの子は少し変わっている」と思っていたようだ。
 話をするようになっても、自分の気持ちを伝えたり言い訳などしたりせず、何でも我慢する、そして無類のお人よしで何でも人に譲ってしまう。そんな私に、父は時々こう言っていた。
「おまえ、それじゃダメなんだよ。損をするんだよ」
 私は何を言われているのか全く分からなかった。キョトンとしていたようだ。この言葉は随分大人になってからも、時々思い出していたが、それでも分かっていなかった。

 そんな私に、かまけていられないように、祖父の事業が傾き、家自体が荒れていった。よそ者の祖父は事業で騙(だま)されたり、スキャンダルを起こしたりして、教員である父の面目を潰して行った。祖父は酒乱になり刃物を持ち出しては、あばれるようになった。私も母も、騙した女性と勘違いされて、刃物をもった祖父に追いかけられたりした。そして父と大げんかをしては、何度も警察沙汰になった。
 夕食後、いそいそと楽しげに、二人で囲碁を打つのが日課だった祖父と父。あんなに仲の良かった二人は、険悪な親子関係になって行った。
 母と私はただ怯えるばかりだった。
 いつの間にか、いさかいがエスカレートしていき、親戚まで巻き込んで、激しい相続争いになっていた。その人達がケンカに加担することで、手がつけられない騒動になっていった。罵詈(ばり)雑言とののしり怒鳴り合う大声、それはいまだに私の心を怯えさせる。

 田舎のことだ、それはすぐに風評となった。
 親戚同士のケンカは、祖父が体力がなくなり、弱まるまで続いたようだ。私は、中学校から高校を卒業するまでの間だけしか、その状況を見ていない。しかしますます、自分のことも、家族のことも誰にも言えない人間になっていた。

 大学進学で逃げるように故郷を後にした。両親も私を引きとめることは出来なかったであろう。私は随分心が疲弊し傷ついていた。その傷を修復するために、また努力して傷を深めていた。そんな私だったが、二十八歳で結婚し優しい夫と二人の子供に恵まれた。
 東日本大震災の十日前に義父が亡くなり、夫は自分の家を、私は実家の面倒をみて、「理想的ね」とよく言われた。
 しかし、子供の頃、両親の不安に満ちた四つの眼を意識したときから、私は休むことを知らなかったのだ。
 なぜだろう。私は四十代までずっと、自分の人生に起きた全てのことは、自分が悪かったと思い込んでいた。一体誰が悪かったのだろう。思い返しても、誰も悪くないのだった。誰も悪くない、いやむしろ家族は皆良い人間に思える。それなのに私は、自分だけが悪いと、そう信じ込んでいた。
 心が子供のままなのだ。そして自分の心の闇を粉砕するため、そのためにだけ生きていった。

 私は両親と、どんどん疎遠になっていた。故郷はなつかしい場所でもなく、帰りたい場所でもなかった。時々故郷に帰ることはあっても、従兄弟(いとこ)のカッちゃんや二、三人の幼なじみに会ったりするだけで、長居することもなく、二人の無事を見届けて、帰るだけだった。
 離散してしまった家族のような、少なくとも私にとっての生家はそうだった。

<下>に続く

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