Reスタート 寄りそう日々<下>第1回Reライフ文学賞・Reライフ読者賞受賞作品

作・杉村眞知子さん(神奈川県)

2022.05.27

 朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第1回受賞作から、Reライフ読者賞の「Reスタート 寄りそう日々」(神奈川県・杉村眞知子さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。今回は〈下〉(最終回)です。

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<目次>

七 心身の復活

 そして津波がやってきた。
 津波は、大惨事であり人類未曽有の悲劇だ。波は町ごと、人々も何から何までさらっていってしまった。
 引いていく波と共に、過去の記憶も両親から奪い去っていった。

 献身的なグループホームのスタッフたち、暖かい場所と安心できる生活、心を吐露できる日々を送るうちに、父も母もメキメキと生来の明るさを取り戻し、若々しくなり、認知力もかなり戻った。それは驚くべき姿だった。人間の回復力は見事なものだ。老齢であるからこそ、その変化は著しい。だんだん昔の二人の雰囲気に戻っていった。
 イベントもたくさん行われた。父は詩吟を唸(うな)ったり、滑舌良く被災当時の話や、自分の教え子たちの自慢話をした。
 母は達筆で習字を披露したり、歌を楽しんだりして日々を過ごした。
「故郷から引き離すなど、自分はやはり間違ったことをしてしまったのではないだろうか? 」と思ったほどだった。しかし同時に、両親の若い頃を彷彿(ほうふつ)とさせる、嬉(うれ)しい変化でもあった。

 実家から持ってきた荷物の中に、両親宛ての年賀状がある。その中にずっと気になっているものがあった。
 グループホームから、車で十分ほどの住所の方が、母宛てに年賀状を書いている。毎年送ってきてくれている。
「今年はお互いに八十七歳ですね。元気でお過ごしください」
 文面はそれだけだ。
 母に聞くと、しばらく考えてから、
「あ、そうそう。女学校時代の同級生。仲よしだったのよ! とても」
「神奈川県に嫁いでね、何十年も会ったことないの。元気かしら」
「元気、元気、ここのすぐ近くがお家らしいよ。会いたいでしょう? 」
 その方の自筆らしい筆跡と、元気だから毎年年賀状を送ってくれているはずと確信して、私は聞いた。
 「会いたい! 」母は即答した。

 早速その方の住所に手紙を出して、経緯を伝え、もしご迷惑でなければお会いしたい旨を書いた。
 するとすぐに、グループホームに電話が入り、その方と連絡が取れた。
 その方も、目と鼻の先に女学校時代の親友が居ることを知り、私と同年輩のお嬢さんの車で、早速会いに来てくれた。
 七十年ぶりの再会。半世紀以上へだてて、母と親友は再会した。
 母と私、母の親友、そのお嬢さん。私たちはなにか目に見えないものに操られて、ここにいるような不思議な面持ちだった。
 二人は目に涙を浮かべ、しっかりと抱き合った。
「色々なことがあったねぇ」
「ほんとうに…まさかねぇ」
 母の部屋で、父も私も、もらい泣きをした。持参して下さった女学校時代の写真を見ながら、二人はしばらくの間楽しげに、昔の話をして過ごした。
 それから何度か施設に見舞ってくれた。

 その後も、もしやと思う方々に手紙を出した。車の方が便利で近ければこちらから出向いても良いと思っている旨を伝えた。
 母の実家のお嫁さん、優子さんも何度か来てくれた。優子さんは津波で夫も家も何から何まで失(な)くしてしまった。今は都内に住む子供の家に避難している。故郷に居れば、いつでも会える間柄だったせいか、実際はもう何年も会っていなかった。
 お互いの安否を確認した安堵(あんど)感と共に、失ったものの多さと重さに、ただただ滂沱(ぼうだ)、頭をたれるだけ。言葉にならない。
「でも優子さん、若返ってますますお美人に! 」
 母が機転を利かせて言う。
「泥パックのお陰? 」
 本来明るい優子さんのジョークでその場が和む。

 若い頃両親が赴任していた集落に、雑誌の投稿を見て書籍を送ってくれた鎌倉のご婦人も見舞いに来てくれた。
「先生! 津波の後、何度も何度も電話をしたんです。でも全く連絡がつかず……本当に本当に不安で……ずっと」
 婦人はハンカチを取り出して、目頭にあてた。
「被災のエリアを何度も確認して、先生のご自宅がギリギリだったので大丈夫かと思ったり。電話の呼び出し音はするのに、何カ月も出ないので、もしやと思ったり」
 婦人は涙ながらに訴え、嗚咽(おえつ)をこらえていた。当時まだ女子大生だったご婦人を、父も涙にむせんで、教え子を愛(いと)おしむかのように肩に手を置き、やさしくぽんぽんと叩(たた)いた。父を支えていた杖がぐらつき、私は父の身体を支えた。父も母も、お茶を持ってきてくれたスタッフも、全員が泣いていた。両親と縁ある私の知らない方々が、どんな思いであの映像を見ていたかを知った。

 また、同じ時期に辺地に赴任していた女性の先生からも連絡があった。やはり両親の安否をずっと調べていてくれたようだ。
 大学卒業後、初めての赴任先がその辺地だった。婦人も、年老いて足を悪くして来られないので残念だ、と電話口で言った。父と母と代わる代わる電話で話し、お互いの無事と懐かしさを共有した。
「先生は大恩人! 私は大学卒業して初めての仕事で、辺地の暮らしが寂しくて寂しくて毎晩泣いていたの。先生たちが、家族の一員のようにしてくれた。毎日ご飯を一緒に食べてね。八重子先生が料理がとても上手でね。娘気分だったわ。先生たちが居なかったら本当に耐えられなかったと思うの。眞知子さんはいくつになられたの? 」
 年を伝えると、
「赤ちゃんだったのにね。そんなに大きくなって! 」
 電話口で私たちは大笑いした。
 彼女は、両親が亡くなるまでずっと、丁寧で美しい文字のはがきに、折々の季節のシール等をあしらい、気遣いある便りで励まし続けてくれた。

 九十三歳の母の姉も、息子さんの車に乗ってやってきた。
「乗り降りするときはおんぶするから、かぁちゃん、安心して。そう言っているのにおふくろは、頑として聞き入れず、車から降りて、玄関、階段も自分で登り、ここまでゆっくり自力できたんだよ」
 従兄(いとこ)が呆(あき)れたように、嬉しそうに笑いながら言った。
 母と伯母は肩を寄せ合って、キャッキャと子供のように無邪気に喜んだ。二人共椅子に腰掛けているが、母は喜びすぎて何度も転びそうになる。

「八重ちゃん、大変だったね……」
 伯母がねぎらった。伯母と母は子供の頃に三陸大津波を経験した。
「二度あることは三度あるというけど、同じ規模の津波が、まさかねぇ……」
 伯母は言った。そして昔の大津波の話をした。
「夜中の二時三十分だったね。真っ暗な中でゴーッ! と激しい地響きがして、家自体が激しく揺れ続けて。使用人のゲン爺(じい)が『津波が来っぞー! 』と大声で叫んでね。皆が跳び起きて」
 女学生だった伯母のほうが、その時のことをよく覚えている。
「星の出ている冬の夜は、津波は来ないという言い伝えがあってね、皆油断してたの。必死で山まで登ってね。姉さんは、教員だったから『子供たちの家を見に行く! 』と言って飛び出して、そして戻ってこなかった。母親と下の姉さんも、私たち家族を山に上げるのに必死で、山に登る人の波で溝にハマってしまって」
「真っ暗で寒かったね、三月三日だものね」
 母が言った。東北では三月はまだ冬だ。雪が降る日もある。
「ごーっ! と音がして大波が引いたあとは、異常に静まり返って。全てが漆黒だったね。墨の中にいるみたい」
 伯母が私の方を向いて、私に伝えるように言った。
「山の上から海が見渡せるの。満天の星が出ていて、なぜこんな時に、何もなかったように星が出ているの、って思った。しばらくすると、沖の方に光がチラチラするのよ。星じゃないの、海の上に。まるで沖にイカ釣り船がたくさん出ているみたい。そんなはずないのにね。すごくきれいだったね」
 伯母は母の方を見た。母は、ゆっくりこっくりと頷(うなず)いた。山に避難した人たちは、そのきらめく不思議な光を見ながら、泣きながら、全員で黙禱(もくとう)したという。

 グループホームではイベントも多かった。
 春は、近所の神社に詣でた。しだれ桜が美しい三月だった。濃い小さなピンク色の花を咲かせるその樹の下で、二人の写真を撮った。ごく自然に母は、父の腕にしっかりとつかまり、父も嬉しそうに笑っている。大正生まれの彼らは、人前でそのようなことをしたことがない。
 素敵な写真だ。

 初夏にはバーベキュー大会。家族や近隣の方々を交えて、施設の庭にタープを張りスタッフは汗だくになって、炭火で野菜や魚介を焼いた。
「昔、海に行ってアワビやウニをとって、浜辺で焼いたよね」
 私は言った。
「おぅそうだったね。サッパ舟(*)にのってね」(*方言で簡素な小舟)
 屋外の炭火で、海産物を焼く匂いに誘われて思い出したのか、父も答えた。
 子供の頃、短い夏の間、小さい舟を少し遠くまでこぎ出し、父や従兄弟たちは素潜りをして少しばかりのアワビやウニを採った。
 ウニは舟の上で、軍手をして、ドライバーのようなもので開いて食べた。オレンジ色の小さい身に紫色の筋。その筋を手で除けながらツルリと食べる。磯の香りにつつまれた濃厚な味がした。私は浜ではウニを食べられたが、家の中では食べることができなかった。何故かは分からない。あまり好きではなかったのかもしれない。
 浜に戻って焚(た)き火をし、持ってきたじゃがいもを放りこんだ。煙にむせながら、サザエや小魚を焼いた。

 夏には屋上で、花火大会を観(み)た。車椅子に乗った高齢者と家族たちは、暮れなずむ空をみながら花火が上がるのを待った。屋上から見る風景は、見渡す限りの田畑、その向こうには紫色に山並みが連なっている。遮るものがない大きな空に、祝福するような、花火の炸裂(さくれつ)音が始まった。
 秋には、施設の車で、菊の花を観に行く。休耕田に、まあるく大きなザルのように小菊があしらわれて咲きほこっていた。肥沃(ひよく)な真っ黒な土と、黄色や赤や白の菊の色が対照的だ。帰りは、美しい川辺の公共施設で、水分補給とトイレ休憩をして、また施設に戻る。
 帰りの車窓、涼しい風に吹かれながら、母が言った。
「いっぱい旅をしたわねぇ……」
 女学校卒業後は、戦争で鶴見の軍需工場に動員された時以外、県外に出たことのない彼女が、私の顔を見て、静かに微笑(ほほえ)んだ。
「これからもいっぱい出来るよ」
 私は何故か不安を感じて、慌てて答えた。

 そんな中でも、父は私の顔を見ると「田舎に帰りたい。家が心配だ」そればかり繰り返す。そして母が阻止する。
 それは父の本心なのだろう。しかし、そのことを、すぐに忘れてしまうのも事実なのだった。
 多くの出会いと再会があった。たくさんのやさしいスタッフに恵まれた。彼らの力なしに、二人は穏やかな晩年を迎えることは、出来なかった。

 その数年後、二人とも介護度が落ち、特別養護老人ホームに入ることになった。奇(く)しくも私の家から徒歩一分の場所に、それは出来たのだった。
 そこでも、多くの良きスタッフに出会い、大切に守られた。「お仕事だから」と思う人もいるのだろうが、私にはそう思われなかった。介護のスタッフは、様々な事情と経歴の方が多かった。しかしその仕事に縁が続く方は、一様に皆優しい人たちだった。
 穏やかな心をとりもどしていく中で、父や母はもともとの礼儀正しさがあり、更に周りの人々に対して、感謝の念を表現することを決して忘れなかった。ささやかなことでも、何かをしてもらうと必ず、「ありがとう」と深くお辞儀をした。そして合掌した。周りの目もあり、夫婦でいたことも強い心の支えになっていた。
 大家族で育った母は、生来、人間好きで明るい人だった。最晩年は、何度も何度も脳梗塞(こうそく)を起こし体力も落ちていった。車椅子に座っていても身体が傾く、最後は、言葉もうまく出なかった。
 それでもお辞儀したり握手でお礼の気持ちを伝えたりしようとする。そうするだけでグラッと身体が倒れる。それでも決して暗い顔をせず、「ありがとう」懸命に喉(のど)からふりしぼるように言った。なんども言った。言えないときは握手を求めた。ねぎらうように相手の手をさすったりした。スタッフが甘いおやつを食べさせてくれる時は、入れ歯も無くなった顎(あご)で、むしゃむしゃと大げさに、いかにも美味(おい)しいと言わんばかりにニコニコと、動く手を大げさにまあるく振り上げたりして、喜びを表現した。頭がぐらつくので口の周りは汚れ、洋服にもぼたぼた落とし、見知らぬ人がみたらひどい姿なのだろう。
 しかし、その気持ちは、間違いなくいつも相手に伝わっていた。スタッフが離れていくときは、いつもオチャメに投げキッスをした。
 だれもがそのしぐさに、一種の感動を感じていた。
 父は礼儀正しく、規則的に暮らしていた。母と共に居ることで、いつもきちんとした夫であろうとしていた。そしていつも、私のしっかりした親であろう、威厳を保とうとしていた。毎回会う度に、開口一番、「家は大丈夫だね? 」と念をおす。私はいつものように、「大丈夫! 」と自信をもって答えた。そして父は安心するのだった。
 実際には、すでに後見人制度が利用できるようになり、故郷の家は売りに出され、父の教え子が購入してくれた。
 私には、知性に自信があり、決して安易に人を信用しなかった父が、過去の全てを忘れて、私を信頼しているカタチが嬉しかった。
 ずっと父親らしくいられることは幸せだと思った。

 身体も認知度も衰えていくのだが、彼ら本来の気質がよみがえるのを見るのは喜びだった。
 もちろん、施設の介護のサービスがあってこそ、それは叶(かな)うことだ。
そうだとしても、最終的に現れる、その人らしさは千差万別だと思う。
私は、残された機能で精いっぱい、人に感謝の意を、想(おも)いを伝えようとする両親の人間性に感動していた。
「あぁ……この人たちは本当に根が善良なのだ」何度もそう思った。
 そして彼らのためにもっともっと色々なことをしてあげたいと、奔走するのだった。ほとんどの大変なことはスタッフがやってくれている。私ができることなど大したことではない。
 季節の衣類や寝具を用意する。父が枕が使いにくいといえば、首に合いそうなものを探す。身体が不自由になった母が、楽に着替えられる柔らかで開放しやすい衣類を探して購入する。歯のない母でも食べられるような、大好きな甘い和菓子を探しにいく。運動不足でむくんでしまう父の足を、アロマオイルを塗ってマッサージをする、そのようなことしか出来ないのだ。それでも、何をしたら喜んでくれるかを考えるのは、その頃の私の楽しみにさえなっていった。
 施設から呼び出しがあればすぐに馳(は)せ参じた。
 当初は、二人を連れてきた責任を果たすため、ただ必死だった。
 しかしすでに、どちらが親でどちらが子供か分からないようになっていた。お互いに、新しいカタチに慣れて行き、落ち着き、親が子供を大切にするがごとく、それが喜びに変わっていくのと同じだった。
それは、私と両親の新たな遭遇だった。 
 疎遠だった私たちの「新たな家族の再構築」の日々だった。
 被災地から連れてきて、八年経っていた。

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サクラを見る老夫婦

八 おだやかな死

 

 介護の生活を送る中、新しい家族が出来たような気持ちと共に、自分の気持ちを両親に語ることが出来なかったことは、寂しいような気がしていた。もっと自分を知って欲しかった。昔のままの両親に、気持ちを伝えて理解してもらい、私たちの溝を埋めたかった。
 しかし、両親の記憶に残るのは「私が大切な我が子、かわいい娘」という、ただそれだけなのだ。その事実の前には、私の体験や記憶の方が、いとも他愛(たわい)もないことに思えた。そしてそれだけが確かに、一番大切なことだった。
 母は私が施設に会いにいくたびに、私の頭をなでて、
「かわいいねぇ かわいいねぇ」
と目を細めて言った。
若い頃、キリッと美しかった顔立ちは、何度も脳梗塞を起こし、すっかり歪(ゆが)んで原型をとどめなかった。それでも最後まで私や皆に「ありがとう」「ありがとう」と感謝を伝えた。
それも出来なくなったら、使えるだけの顔の筋肉を使って微笑んだ。

 そして十月の爽やかな青空の日、安らかに息を引き取った。スタッフたちは静かに嗚咽した。
 「おかあさん! おかあさん! 」
 母は、使い切ったボロ雑巾のようにヨレヨレだった。
この雑巾はどれほど多くの人の心を磨いてきただろうか。
そんな九十一歳の母にすがりついて、私はいつまでも泣いた。
 秋の朝の空は雲ひとつなかった。

 その一年前。
父は、相変わらず私の顔を見ると条件反射のように「家の話」をする。
安心して暮らしている彼に、何げなく言ってみた。
「お母さんも、車椅子生活でここに居るから暮らせるのだし、家はもう手放してもよいのでは? 」
父は、驚くほど激しく反応した。
「駄目だ! 帰る! 」
恐ろしい剣幕だった。
父の激しい執着を改めて知った。
「そうだよね、ごめん……」
静かに父の肩に触れると、父はすぐに落ち着いた。
そしてすぐに、その話を忘れるのだった。
 そんなことがあったある日、介護施設から呼び出しがあった。
 「夜中にお父様が、びっくりするほど大きな声でワーッ! と叫んだので、急いでお部屋に向かいました。目覚めて、ご自分でも驚いたようです。でも、その後、また静かに休まれました」
彼は不思議そうに、でも大丈夫だから安心して、というように報告した。
 もしかしたら心の奥底で、家がなくなる恐怖を覚えて、悪夢をみたのだろうか。
 後日、知った話では、あの津波が来た三月十一日の晩も、父は「ここで死ぬ! 」と言って、消防士やご近所の方の言葉も聞き入れず、闇の中でひとり夜を過ごしたという。もちろん、実際には帰ったとて、どうすることも出来ない家であった。

 その後、父はだんだん話をしなくなっていった。話そうと懸命になるのだが、
「あ、あ、あ、お、お……」等の音しかでない。単語が出てこないようだ。耳が遠い老人には時々そういった方がおられます、とスタッフはやさしく言った。
「そうなのかな? 」私は漠然と不思議に思った。
 それからは筆談で用をたすようになった。九十三歳の父は、一見普通の老人に見えたが、明らかに弱っていた。

 母が亡くなった葬儀の日、父は棺の中の母の顔をじっと見つめていた。そして突然、
「ワーッ! 」
と大声を出して泣いた。延々と、泣いて泣いて子供のようにオーイ! オーイ! と泣いた。
声がかれるまで泣き続けた。
 そして、また、何も言わなくなった。
 母が亡くなってからの日々も、父はいつも通り規則正しく起きて、リビングの自分の席に座り、窓から美しい山並みを見たりテレビを見たり、静かに過ごしていた。そして、極力人の手を煩わせないように努力をした。
 最後まで、おむつのお世話になることもなく、苦しむこともなく、母の死から一年三カ月後、安らかに息を引き取った。平成から令和になる三カ月前だった。
 
 不思議なことに、亡くなった父の顔を覗(のぞ)き込んだ時、急に、父の眼(め)頭から一筋の涙が流れ出た。死後五分ほどしかたっていなかったので、私はそういったこともあるのかもしれない、言葉が出なかったから、私に何か言いたかったのかもしれない、私のこぼした涙が父の顔におちたのかもしれない、さまざまなことを思って父の涙を拭った。

 二日後、身内だけの家族葬が執り行われた。
 私は父の遺体を拝んだ。すると再び、父の眼から一筋の涙が流れ出たのだった。
「あ、また涙が」
私は思わず言った。
 一月の寒い日だったので、父の遺体は冷暗室に入れられることもなく、葬儀会館の一室に安置されていた。
 私は家族、親戚とともに一晩そこで過ごし、何度か父に手を合わせていた。そのときは何もなかった。

 ふと、もしかしたら父は言葉を失うことで、子供の頃の私の症状を呈して、言葉が出なかった私の経験を追体験してくれたのではないだろうか、と思った。
「おまえの気持ちが分かった」そう言ってくれているのではないか。
 そう思うと、何か全てが腑(ふ)に落ちた。昔から故郷に帰る度に、時々父に不可解な表情をされることがあった。赤ちゃんの頃の事故も、頭をよぎったであろう。若い頃の私の激しいわだかまりにも、気づいていただろう。今のように精神医学も発達していない。
 年をとっても、親は子供のことはよく分かるものだ。父は教育のプロでもある。その父でも、自分の娘は、ずっとどこか不可解だったのだ。
 自分たちの晩年のために奔走している娘のことを、父の方が逆に、どれほど心配し、理解しようとしてくれていたのか。
理解しようとし、同じ症状を呈したのだ。
 本当に愛してくれていたのだ、私はそう感じた。
 どこまでも子供想いの人であり、長生きしてくれたお陰で私に多くの気づきを与えてくれた、最後まで教育者の父だった。

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九 徳、感謝

 三月十一日の地震の後、病を押して避難所に両親を探しに行ってくれた私の同級生。封鎖されているのに、自衛隊に懇願して町に車を入れてもらい、真っ先に両親を避難所から助けてくれた教え子たち。何度も「家に来て! 」と、本気で言ってくださったご近所の方々。
 十三時間のドライブを、文句一つ言わず引き受けてくれたカッちゃん。
 私の町でも、たくさんの良き人々と出会った。
 近くに、グループホームが出来、特別養護老人ホームが目の前に出来、まるで用意されたようなタイミング、そのめぐり合わせ。本気で両親を大切にしてくれたスタッフ達。穏やかな晩年と穏やかな死。

 辺地で、教育と地域文化振興に情熱をかけ、その地の子供たちをたくさん引き取って世話をし、立派な社会人として世に送り出した両親。学校と家庭の理解をとりつけて、複式学級の創設に尽力した父。家族を立て直そうと紛糾した両親。退職後も民生委員や地域のボランティアに奔走していた。
 日本の片田舎の小さい町の、ささやかな人間たちだ。
そんなささやかな人達が、人々に注いだ情熱とエネルギーが、何十年もたって新たな地に戻ってきたかのようだ。

 それは両親の『徳』だと思う。振り返ると、彼らが周りの人々に与えて来たものが、晩年に戻ってきただけなのだ。
 引いていく波は人間の悲しみもさらっていき、来る波は別の場所で別のカタチになって戻る。
 晩年、彼らが見知らぬ町で得た安らぎは、過去に彼らが人々に贈ったギフトなのだ。両親のところに戻ってきたギフトとともに、私は少しだけお手伝いをしたに過ぎないことを知らされた。

 認知症は、恐ろしい病気のように思われている。しかし、そればかりではない。温かな手さえあれば、かなりの回復が可能だ。そして「忘却」は福音にもなりうる。人間の深い想いは、人の「記憶」など超えている。
 肉体の存在を超えている確かなものがある。
 母が私の冒険を手伝ってくれたように、人の魂は、たとえ脳の機能が失われても決して間違うことはない。

 私の魂は覚悟しているだろうか?
 母のように、無残になっても、潔く勇気をもって、人々との出会いに感謝することが出来るだろうか。
 父のように、「理解は深い愛」であると、人々をどこまでも理解しようと、生きているだろうか?
 自分に問うていこう。

<了>

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