春を待つ手紙<中>第1回Reライフ文学賞・Reライフ読者特別賞受賞作品

作・室土猩さん(東京都)

2022.05.31

 朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第1回受賞作から、Reライフ読者特別賞の「春を待つ手紙」(東京都・室土猩さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。今回は〈中〉です。

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「春を待つ手紙」<中>-目次

空の手紙

「――忘れて得たる新しき時」

 先週は母さんの食が細くて、心配しましたが、今週はいかがですか? こちらは家族がそろって外出したもので、留守番役の僕は、縁側で手紙を書いています。

 庭はまさしく春爛漫(らんまん)。梅の青葉もそろい、幹の巣箱から、ようやく子鳩(ばと)が姿をあらわしました。幼い頃、子鳩は親鳩より上の枝にとまらないと教えてくれたのは母さんでしたね。見ていたら、たしかにその通りで、枝の上下でクック・ホーホーと微笑(ほほえ)ましく啼(な)き交わしています。

 想(おも)えば、梅の香で春を覚え、夏は行水にはしゃぎ、そして線香花火を見ながらため息をつきました。秋にはお芋を入れて焚き火もしましたね。大きな口を開けながら初雪を追いかけ、雪の結晶がひんやりと喉(のど)の奥で溶けたのも懐かしい思い出です。

 どうやらセンチメンタルになっているようで、僕は古いアルバムを取り出しました。羅紗(らしゃ)の表紙を開くと、はじめにあらわれたのは梅の下の家族写真でした。これは小学校の入学式でしょうか。僕が真新しい洋服でハーモニカを吹き、普段着の海はほっぺたをふくらましています。母さんは着物姿で、いつものカーディガンを羽織った父さんは、どことなく強面(こわもて)です。

 現実の僕たちは歳を重ねても、庭は昔の写真のままに佇(たたず)んでいる……見慣れているはずの景色が妙に沁(し)み入ります。これは父さんと母さんがいないせいかもしれません。

 僕と海が家での治療を勧めたのに、二人は出ると言い張りましたね。会話のない夫婦の、まさかという連携プレーには舌を巻きました。僕たちは勢いに押されて承諾しましたが、この選択が良かったのかどうかは、今もって分かりません。最後まで二人は笑うばかりで、何も答えてくれませんでしたから……。

 後日、父さんからだけでも本音を聞きたくて、母さんに内緒で居酒屋に誘ったことがありました。

 杯を重ねても父さんの顔色は変わらず、「……大丈夫だ」と「……そうか」の繰り返しです。結局、何も聞き出せないまま僕は酔い潰れましたが、穏やかな酔いに身をまかせ――面映(おもは)ゆいような、照れ臭いような――まるでテレビドラマのワンシーンのようでした。

 ここまで書いてきて、腑(ふ)に落ちないことに気づきました。それは、もともと酒好きの二人が、その日まで酒を酌み交わすことがなかったということです。

 ……父さんは、小さい頃から僕を可愛がってくれました。例の事件を起こした時でさえ、十六の僕を誠実に見守ってくれました。この年齢(とし)になるまで、まさか二人の間に妙な隔たりがあるなんて思いもしませんでした。……でも同時に、もしかしてこれが、二人が家を出た理由かもしれないとも考えました。唐突な思いつきに、しばし茫然(ぼうぜん)としていると、頭の隅に古い記憶が浮かんでいました。

 そこで本日の手紙は、この記憶を頼りに、なぜ僕と父さんの間に溝のようなものが出来たのか、このことを探ってみようと思います。

 記憶といっても、それは断片で、ある情景が引き延ばされたり、重なったりするだけで脈絡はありません。ただ静的なものと動的なものには分けられそうなので、とりあえずその方向でペンを進めようと思います。

 はじめに静的な方から書きますが、こちらは潮の香りが漂っていて、頬を撫(な)でられたり、抱かれたりといった場面が繰り返します。また洋服の裏地でしょうか、視界に赤い布地が見えるので、女性に抱かれているのかもしれません。……まぁ幸せといってもいいのですが、この情感は微妙で、一般的な意味あいとかなり違います。

 子供の頃、祖母の法事で秋田の菩提(ぼだい)寺に行ったことがありましたね。その時のことですが、母さんが本堂の絵に手を合わせていると、まるで別人のように見えたことを憶(おぼ)えています。ごく最近になって、絵は来迎図であることを知りましたが、先程述べた情感は、あの絵に対峙(たいじ)した感慨に近いような気がします。

 どう説明したらいいのでしょう……たとえばそれは、足元から静けさに引き込まれてゆく、喪失感のようなものに似ていて――次第に体温や感覚や思考さえも奪われ、沈黙に押し潰されそうになりながらも、ふと気がつくと、周りの温かい充足感に抱かれているとでもいえば良いのでしょうか。……なんだか抽象的で歯がゆいのですが、次の動的な断片と関係があるかもしれないので、あえて、くどくどと説明をしています。ふたつは同時に浮かんだものですから、或(あ)る出来事の両面の可能性もあると思っています。

 つづけて動的な断片にうつります。

 こちらは髭面(ひげづら)の男が立ちはだかるところから始まります。額から汗が滴っていたり、強い体臭を感じたりと様々な場面がありますが、とにかく男は僕を睨(にら)んでいます。たとえるなら祖母の故郷に伝承される、なまはげといったところです。

 僕は不安のあまり――多分、女性だと思いますが――しがみつきました。彼女も僕を抱きしめているようです。やがて髭面は少しずつ距離を詰め、とうとう目前まで近づきました。さらに大きな腕が僕の方へ向かってきます。

 僕は意を決しました。渾身(こんしん)の力で男の顔面を蹴り上げたのです。

 男の腕は止まり、彼の体が小刻みに震えています。それから一呼吸の後、地響きのようなうなりが轟(とどろ)きました。

 気がつくと、僕は高く――信じられないほど高く吊(つ)るし上げられ、抵抗はおろか、もう呼吸も出来ません。僕は恐怖のあまり、意識が遠のいてゆくのです。

 こうして手紙を書いていても、手のひらが汗ばんでくるのが分かります。

 当然ですが、この記憶が事実かどうかは分かりません。仮に事実としても、はるか昔の出来事でしょう。ただ断片をつなぎ合わせていると、髭面の男と父さんが似ているという想いがよぎりました。そして、そのことを思いついた瞬間から、確固たるものとして僕の内に根をおろしつつあります。結論からいえば、無意識に父さんを避けていたのは、この恐怖からではないかと疑っているのです。

 まだ昼過ぎですが、気分を落ち着かせようと缶ビールを開けました。父さんも休みの日には、時々、飲(や)っていましたね。隣の母さんが小言をはさんだことも憶えています。

「鳩が羨(うらや)ましいわ。お父さんは座っているだけでもビールが要るのに、鳩は豆さえあれば空を飛べるもの」

 今、親鳩が梅の木のてっぺんに跳ね上がりました。子鳩の巣立ちを促しているようです。すぐに二羽は、親の下に移りました。けれども一羽の子鳩は巣を離れません。しばらく待っていた親鳩はあきらめたのでしょうか、さらに隣の屋根に飛び移り、そして二羽の兄弟も続きました。

 残された子鳩はキョロキョロと辺りを見回しています。しかし周りは日差しが舞うだけで、親の姿は見えません。彼は不安げな声を上げました。返事はありません。さらに二度、三度、こんどは悲痛な叫びが続きました。ようやく親鳩は振り返り、クックーと一声を掛けました。子鳩は武者震いのように体をよじると、胸を膨らませ、今、親の声の方向へと飛び立ち、……そして無事に皆の元に到着しました。祝福するかのように兄弟も集まり、やっと巣立ちの準備が整ったようです。

 昔見た鳩たちは、この鳩の何代前にあたるのでしょうか。最後まで、ぐずった子鳩はまるで十六歳の僕です。久しぶりに鳩の巣立ちに立ち会い、十六で起こした事件を思い出しました。けれども思い返したところで、今でも事件を正確に語ることはできません。

 あの日、川面を眺め心に浮かんでいたことは、……この川は何処(どこ)まで流れてゆくのか、海に還(かえ)って、水蒸気となり、また雲になって地上に戻るなどの、ほとんど意味のないものでした。

 漠然と死ということは念頭にあったかもしれません。ただ、あの年代では誰でも考えるような……たとえば死とはなんだろう、自分は生きているのか、ならば何故生きているといえるのか。その程度のことでした。

 一般的に、この時期を思春期と名付け、内的世界と外的世界のせめぎ合いなどと、何か片づいたもののようにいいますが、そのような言葉で括(くく)ったところで、分かったような錯覚に陥るだけで、何の意味もありません。

 あえてあの時期にさかのぼれば、心の一角を占めていたのは、幼少から信じていたほど、自分が価値のある人間ではないと意識しだしたことだと思います。僕だけではなく、当然、父さんや母さんも男と女という名の動物に過ぎないということです。また、かつて取っ組み合いをした幼なじみがときめくような女性となってあらわれたり、高い偏差値を獲得した友人を敵のように感じたりするということもありました。

 しかし断言できるのは、このようなことも決して重大な問題ではなかった。……いや、ひょっとすると、そのように変貌(へんぼう)してゆく原因が対象自体ではなく、全て、自分の心のありようで起こっているということに行き当たった。そして、そのことに囚(とら)われたことが問題なのかもしれません。自分の心が創った世界、……いわゆる観念とか妄想とでもいうのでしょうか。……そうかもしれません。果たして外的社会とは自分の妄想なのか。それとも自分とは外的社会の創った妄想の一部なのか。その境界を見極めたいという願望は確かにありました。一言付け加えるなら、目の前に境(はざかい)があって、その先端に爪先立(つまさきだ)ち、妄想と現実の両方の世界を俯瞰(ふかん)しようということだろうと思います。まるでかつてのローマの王、カリギュラが試みた愚行です。

 目を覚ましたら、カーテンがゆれていたことを憶えています。母さんはベッドの周りをゆっくりと歩き、海は窓辺で泣いていました。

 僕は、此処(ここ)が病院であることに気がつきました。

 父さんだけが、真っ白な壁を夕焼けのように瞶(み)つめ、少し離れたところに立っていました。何を見ているのだろうと、僕は視線を向けました。その時、父さんも振り返ったのです。僕は父さんの怒りや哀(かな)しみに身構えました。

「……何か見えたか?」

 ゴツゴツとつぶやきが通り過ぎてゆきました。相変わらず夕日を見るような眼差(まなざ)しです。しかしその瞬間、父さんの心が僕の裡(うち)に飛び込んできました。

「……何も、何も」

 僕は、そう答えるのにも言葉が詰まりました。

「……そうか」と父さんは言い、また壁に視線を戻しました。

 目の前にいるのは、今まで知っていた父ではありません。そこで見守っていたのは、不安や絶望の泥沼に共に沈んでいこうとする、透明な祈りとでもいうのでしょうか……僕にはそう感じられました。誇張を加えれば、宗教的な何かが僕を貫いた瞬間だったのかもしれません。

 ……思い出を辿(たど)りながら父さんとの軋轢(あつれき)を探っていたら、あらぬ方向にペンは進んでしまい、ごらんのように甲斐(かい)もないことが並びました。

 僕は残りのビールを飲み干しました。

 酔いが、くすぐるように染みわたり、昼酒の意味が、いくぶん、分かったような気もします。

 もう父さんと母さんの部屋に西日が差しはじめました。子供の頃、僕が土足で上がった書き物机が、薄暮からゆっくりと浮かび上がり、海が化粧のまねごとをした鏡台は、木立の影にゆれています。抹香のなめらかなひとすじが絹のような光沢を帯び、部屋全体が淡い飴色(あめいろ)に染まりました。

 ……ため息が出るほどの懐かしさ。

 鏡台を開くと、男があらわれました。外見は鄙(ひな)びた大人を気取っていても、内面は子供の頃と寸分の違(たが)いもありません。かつて投身自殺を図った男が座っています。

 僕は感情の高まりが喉につかえていることに気づきました。周りには誰もいません。こいつを吐き出そうか、閉じ込めようか迷っていると、背後に何かを感じ、慣れ親しんだように僕に溶け入り、割れんばかりの笑い声となって飛び出してゆきました。

 ……今、やっとのことで呼吸はもどり、咳(せ)き込みも収まりました。一体、さっきの気配は何だったのでしょう。まだ何処かに笑いが隠れているような気がします。

 さて乱雑に文字が走り、大事なことを忘れそうなので、心して書き留めます。

 順調にゆけば、下のチビが秋に結婚することになりそうです。現在、二人で向こうの家に挨拶(あいさつ)に行っていて、夕方、こちらに彼女を連れてくる予定です。よって我が家は、総出で晩餉(ばんげ)の買い物です。おかしなことに上のタカと海の親子がはしゃいで、女房は楽しみながら振り回されているようです。

 皆が揃(そろ)ったら、久しぶりに梅の木の下で写真を撮ろうかと思います。もちろん未来の花嫁を入れた、あの時のような写真です。出来上がったら、次回、持って行くつもりです。楽しみにしていて下さい。

 まだこれから寒の戻りもあるかもしれません。風邪などをひきませんよう、くれぐれもご自愛下さい。

 それでは今日は、この辺でペンをおきます。

縁側の空より 

大切な母へ

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梅の花(春を待つ手紙)

母の便箋

「木蓮の落下ひろひて――」

 お便りをありがとう、拝読いたしました。海の手紙にほっとしましたが、でもどこか心もとなくて、すぐに返事を書こうと思いながらも、外出が重なり、机に向かうことができませんでした。

 入院中に出掛けるなんて、意外と思うでしょう? しかし、さにあらず、
「寝ているとボケるわよ」

 なんて脅かされ、私は、しょっちゅう引っ張り回されています。

 実は、本日も外出から帰ったばかりですが、ご指摘通り、何処に行ったかはボンヤリで、憶えているのは、たくさんお花が咲いていたことと、顔は知ってるのに名前の出てこない方々とお会いしたことぐらいかしら……。

 けれども、なぜか腹の立つことだけは憶えていて、笑ってしまうんですよ。ほら季節が季節ですから、春らしい洋服を着たかったのに、上から下まで黒を着せられて、どう考えてもセンスを疑ってしまうでしょう。

 まぁこんなところが近況といえば、少し淋(さみ)しい気もしますが、病院の生活ですから仕方がありません。しいて贅沢(ぜいたく)を言わなければ、それ相応に過ごしております。どうぞご安心下さい。

 ところで、あのおはぎは海のお手製だったんですね。秋田の味がそのままで、おばあちゃんの人柄までが懐かしく思い出されました。そこで、母さんは或ることを決心しました。私がおばあちゃんから学んだことを、さらに海へ伝えようということです。ちょっぴり大袈裟(おおげさ)にいえば、女から女への生き方の伝承とでもいうのでしょうか。……なんだかワクワクしてきました。

 さて何からはじめようかしら……そうね、私が秋田で暮らすようになって、初めて飯炊きを任された時のことから書いてみましょうか。と、いっても当たり前ですが、その頃は電気炊飯器などはなく、カマド炊きであることをお断りしておきます。

 もちろん東京でも薪で御飯(ごはん)を炊いていましたが、田舎の大家族のように、一升なんてお米を炊くことはまずありません。ですから任されたものの、水と火加減を間違えて、全てを炭にしてしまうという大事件を起こしてしまったのです。そんな時でも手を叩(たた)いて笑っている。おばあちゃんとは、そのような女性(ひと)でした。

 こう書いても何が大事件なのか、だからどうしたのか、海にはピンと来ないと思いますから簡単に説明しておきますね。

 あの頃は、お米そのもので現金と同様に買い物が出来た時代でした。これだけでも驚くでしょう? ところが終戦間際の食糧難で、いくらお金があっても、逆にお米を買うことはできませんでした。たぶん闇のお米の値段は、いわゆる公定の相場の数十倍になっていたと思います。いうなれば私のしたことは、札束に火をつけて燃やしたようなものでした。貧しい時代のことですから、これがどんな大事件であるかが分かるでしょう? 当然、私は、ただただあやまるほかはありません。すると、おばあちゃんが驚いたような顔をされて、
「終わったことはしょうがないよ、だって精いっぱいだったんだから」と、また大笑いです。

 このように書くと、なんだか優しい方のような気がしますね。ところが、それは大きな間違いです。爪の先ほどの小さいことに、ものすごい剣幕で叱られたことは数え切れません。ただし後で考えると、たいてい私が手を抜いた時でしたけれど……。

 また私が手がけた作物に、全然、実がつかないことがありました。私は自分を責めたり、天候に悪態をついたり、悔しくてなりません。それはそうでしょう、いくらおばあちゃんのまねごとでも、種選びから肥料、水、温度と手間をかけ、どこにも問題がなかったんですから。しかし、おばあちゃんは口では色々と仰(おっしゃ)いますが、豊作でも不作でも、その実、何も変わりません。ご自身が精魂傾けた作物でも、全く同様です。

 人は、懸命にやればやるほど良い結果が欲しいし、失敗すれば悔しいはずでしょう。ですから結果に無頓着な彼女が、最初はひどく奇妙に映ったものでした。ところが幾月か過ごすうち、その姿勢が生活のあらゆる面に行き渡っていることに気がついたのです。

「……あぁ」というやわらかい感情が、しだいに私の裡(うち)に充(み)ちてくるのが分かりました。

 ……この感情をどう説明したらいいのでしょう、自分の中にずっとありながら、長い間忘れていたもの、しかも豊かなものに目覚めさせられたとでもいうような驚きでした。

 此処まで、一気にペンを進めてみました。果たして、私の言いたいことが海に届いたでしょうか?

 念のために書き添えますが、私はおばあちゃんの心が広いとか我慢強いとか、そんなことをいっているのではありません。誤解をされると困りますから、ちょっぴり理屈を並べてみましょうか。その方が間違いなく伝わると思います。

 たとえば普段私たちは、昨日があって、今日があり、置物のように明日が続くと思っているでしょう?

 何を当たり前のことをなんて言わないで、もう少しだけお付き合い下さいね。

 ところがおばあちゃんの世界は、今は今だけ。もし種を植えたらその瞬間、収穫したらその瞬間、それがすべてで、もう完成しているというか、それ以外になかったと思うんです。

 ……まだ分かりにくいかしら? もっと細かくいえば、呼吸したり、鼓動を刻んだりの一瞬だって、彼女にとってはすべてだったんじゃないでしょうか。つまり喜びや後悔、怒りなどのグチュグチュした感情は、後から付け足す感想のようなもので、おばあちゃんの生きている一瞬には、とても入り込めなかったと思うんです。

 私に充ちてきた感情とは、理屈を並べると、このようなことでした。一見、意外でも、良く考えると、今以外に生きることができないというのは、実に当たり前のことでしょう? だって昨日や明日にもぐり込むことは、絶対に出来ないんですから。もちろん彼女が、このような理屈を言ったわけではありません。そもそも、あまりに当たり前すぎて、思いつくはずもありません。

 ここまで偉そうに書いたら、海の性格からして、必ず訊(き)きたくなるでしょうね、それを見ていた母さんはどうなのかしらって。

 それではお答えします。母さんはおばあちゃんのように生きようとしつつも、今なお彼女の爪の垢(あか)を煎じている最中です。このような答えでいかがですか?

 さて此処までの分を読み返してみたら、随分くどくて、冴(さ)えているのか、寝ぼけているのか、もう自分でも分かりません。ただ、いつも以上にがんばったので、頭はボーッとしています。それでは眠くなる前にもうひと言だけ……。

 どうか余計なことは考えず、あなたの今に飛び込んで下さい、難しいことは何もないでしょう? 昔がどうの、明日がどうのと悩みを育て、自分で拵(こしら)えたツクリゴトに振り回されているなんて、笑止千万じゃないかしら。

 もしこの手紙を読んで、意味が分からなければ、それはそれで一向に構いません。でもある期間をおいてから、もう一度読んでくれたら嬉(うれ)しいなと思っています。

 ……あら、困りました。このあと、或る方に手紙をしたためようと思った途端、ドキドキしてきて指の震えがとまりません。我ながら情けないやら、恥ずかしいやら……でも最高に幸福(しあわせ)です。

 結びに、女にとって、男というものは、喜びであり、やはり最大の弱点かもしれませんね。どうかあなたも、殿方を大切にしながら、ほどほどにお楽しみ下さい。

 それでは、海に幸あらんことをお祈りしております。がんばってね。

恋に無力の母より 

恋に恋する海へ

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海の手紙

「――みほとけの指とおもひぬ十二の智円」

 先日は母さんの誕生日だったのに、おはぎだけで失礼いたしました。しかし今週も、のっぴきならないことが起こりまして、申し訳ありませんが、手紙だけということになってしまいました。近々、一族揃(そろ)い踏みの予定ですから、どうかお許し下さい。

 ところで、おはぎを食べて気づいたと思いますが、あれはそんじょそこらのものではありません。秋田のおばあちゃんが教えてくれたというあの秘伝のおはぎです。

 アンをあまり潰さず、甘さが控えめで、かといって塩が効きすぎているわけでもなく、やや柔らかめのおはぎは、伝承者である母さんの得意料理のひとつでもありました。上手(うま)く出来た時は、台所から島倉千代子の唄が聞こえてきたことを憶えています。

 今回は、なんと私と娘の初めての挑戦ですから、悪戦苦闘が続きまして、やっと出来上がった時には、二人で抱き合っておりました。本人が言うのもなんですが、かなりの出来栄えと自負しております。そんなわけで、私と娘の関係も、わずかずつですが修復に向かっているようです。

 さて話が脱線したようなので元に戻します。はじめにのっぴきならないこととお伝えしましたが、驚かないで下さい、兄ちゃん家(ち)のチビが、お嫁さんを連れて来てしまったんです。

 なぜ突然となったかといえば、それは分かりきったことでしょう。それなのにあえて彼女がサラサラと、あまりに何げなく語るものですから、私たちは民話のように聞き入ってしまいました。

 もうこれで、どのようなお嬢さんかは想像できたと思いますが、オマケを加えると、性格はこのように勝ち気でも、外見はしとやかそうに見えなくもありません。一方料理は苦手だと明言しておりました。また怒ってると思ったら、あっという間にいじけているようで悔しがっているように見えても、すぐに笑っている。表裏相乱れるなか、チビの奴(やつ)だけが右往左往、忙しく動き回っておりました。

 どうやら皆の印象では、お母さんの生き写しということで一致したようです。念のために書いておきますが、私は何も言っておりません。ただ彼女が来てからというもの、娘は元気がありません。なぜなのかはうすうす感づいておりますが……。

 娘が中学生の頃でしょうか、娘とチビの会話を小耳にはさんだところ、彼氏からのファーストキスを、どうしたら誘えるかという相談事でした。それに対して、大学生のチビがしどろもどろで……笑っちゃいますね。たぶん娘はチビのことを好きで、気を引いていたのだと思います。一生懸命というか、屈折しているというか、こういう性格は私似(わたしに)でしょうか、それとも旦那に似たのでしょうか。

 そういえば、先日、その旦那から久しぶりに電話がありました。娘が会いに行ったそうで――もちろん実の親ですから自由にさせているんですが、それで娘は私の新しい恋人について、あれこれ相談していたようです。あいつは兄ちゃんの親友ですから、すでに破局については聞いていたらしく、こんな風に言われました。

「相も変わらず、あっちへ行ったり、こっちについたり。自分で何をやっているのか、見当がつかんのだろう。兄貴への想(おも)いは、しょうがないとして、お前がそこにいるのは当たり前のことだから、ジタバタするな」

 ひどい言い方でしょう?

「あなたには関係ないわ」

 もちろん私は言い返しました。

「俺にしたように、恋人を空の身代わりにするなら、それもいいだろう。またそのことに負い目を感じるなら、やむを得ない。ただ間違っても、己の心に素直になどと、くだらんことはほざくな。お前が気づかないだけで、とっくに周りの人間には見えている――とりわけ女同士である娘にはな」

「たとえ娘からであれ、あなたからであれ、何を言われても平気よ。だって母や妻である前に、私は自立した女ですから」

「いい加減、目を開いたらどうだ。金のことだけでなく、自立という言葉通りに自分の足で立ってみたらどうだ。本気で独り立ちをしようと思うなら、まず娘や周りの人たちを――空もそうだが、ありのままに受け入れることだ。寄り添うように努力することだ。他人(ひと)を心に住まわせない限り、独り立ちなどありえない。それさえできれば、必ず己の痛みや恥ずかしさ、もしくは醜さにぶつかるだろう。なぜなら複数の視点を住まわせることで、己が描いていた自分など何処にも居ないことが分かるからだ。だからといって悲観することはない。お前が気がつかないだけで、はじめから周りは、全てを受け入れてくれている――ここがありがたいところだ。お前そのもの――つまりお前の命というものは、お前だけのものではなく、かかわった全ての人間のものになっているということだ――分かったか。だからこそ、お前は自分を慈しまなければならない。たとえ自分を愛せなくても、せめて蔑(さげす)まないように生きなければならない。それが自立ということだ。もしお前がこのままなら、何人恋人を作ろうが、百人子供を産もうが、ガキの一人遊びと何ら変わらない。それは口癖の自立などとはほど遠い、人間からの単なる孤立ということだ。いつまで居るはずのない自分や、はてさて何だかんだを追いかけているんだ、この馬鹿者! 」

 そして一方的に電話は切られました。なぜ、あいつに馬鹿呼ばわりされなければならないのか。その夜は腹が立って、寝つけません。うとうとしかけたのは明け方近くでしょうか。

「母さん、どうしたの?」

 隣の部屋から娘の声が聞こえました。目を覚ますと、枕元が濡(ぬ)れています。

「……何でもないわ、きっと変な夢を見たのね。まだ早いから、もう少し眠りましょう」

 そう答えて、私は布団をたぐり寄せました。けれども心が揺さぶられているせいか、涙は止まってはくれません。その夢は、旦那との喧嘩(けんか)の続きではありません。……夢は、私が父さんのオッパイに吸いついている三、四歳頃の情景でした。

 納戸の隙間から朝陽(あさひ)が差し込み、隣には母さんに抱かれた空が見えました。兄ちゃんがこちらを向きました。でも私を見ているわけではありません。彼の視線は私を通り越して、漏れてくる光の帯に注がれ、幾筋かの光を浴びたまま色とりどりの涙がこぼれていました。

「兄ちゃんが遠くへ行きたくて泣いている」

 とっさに私は、そう思いました。そう、これが涙の正体です。

「……いつも空は母さんに抱かれているのに、構われない私は我慢しているのに、その上、私を残して一人で行くなんて、絶対にゆるせない」

 幼くて上手くは話せないものの、言葉にすれば、このような淋しさというか、憎しみに近い感情だったと思います。

 私は、娘に気づかれなように寝床を抜け出しました。そして廊下を渡り、まだほの青い外に出ました。石畳を踏むと、鈍く小石の粒が弾かれました。

 兄ちゃんはあの日ばかりではなく、いつも震えていたこと。それから二人きりでも、私ではなく、私のうしろの手の届かないところを見ていたことも思い出しました。でも喧嘩の時は別で――そのままずっと私を見ていて欲しくて、また喧嘩をして……そんなことを繰り返すたび、私の中の空は、憎しみの対象であると共に、愛されることへの象徴のようなものに変化していきました。渾然(こんぜん)と一体化した彼への希求と憎悪に振り回され、ある時はののしり、ある時は泣きじゃくり、時を経るにつれ、さらに二人の溝は拡(ひろ)がりました。そして私が中学生になった時、兄ちゃんは、本当に遠くへ行こうとしてしまいました。

 病院で、どのくらい空を見ていたでしょうか……。レースのカーテンがふくらみ、また春の空に引き戻されると、彼の頬に一枚の桜の花びらが残りました。

 静かに目蓋(まぶた)は開かれ、私たちの視線は結ばれました。兄ちゃんの瞳には、暗い底知れぬものが湛(たた)えられ、拡がり続けています。しかし私を認めると、しだいに闇の底が干からびて、その隙間から、わずかな微笑(えみ)がのぞきました。私は、秘めていたものが解き放たれるのを感じました。吹き上げるように涙があふれ、私は流れるままに、立ち尽くすだけでした。

 家の門柱を過ぎると、視界は開け、遠くの山肌が、紫の薄絹から橙色(だいだい)へと衣替えのように変わってゆきました。私は門から下る長い坂道を見下ろしました。この細い道を、生まれてから何度下って、何度上ってきたことでしょう。

 松林沿いの線路の彼方(かなた)から、ひとすじの列車が春風を載せて向かってきました。私は、かすかな冷気を胸にはらませ、両手と両足が交互に出るのを確認するかのように、ゆるい傾斜を下ってゆきました。

 かつてこの坂を、着慣れない背広のあいつが上ってきました。父さん、母さん、空と私は、少しだけよそ行きの気持ちで出迎えました。

 数年後、千歳飴を持った娘と手を繋(つな)ぎ、私とあいつはこの坂を上りました。

 娘の自転車の補助輪が外れ、ランドセルを背負うようになった頃、私とあいつの間から笑顔が消えました。

 暮れも押し迫った頃、あいつは一人で坂を下りてゆきました。その後を自転車に乗った娘が追いかけ、細い道が曲がった辺りで、傾いたまま、舞い上がりました。

 背後から母さんの悲鳴が聞こえました。娘は、雲ひとつない朱の空と、闇に染まった山の狭間(はざま)に静止したかのように見えました。まもなく点滅した赤いランプが視界に入りました。私は膝を抱えたまま動けず、白い服の人たちが動く光景を、ただ見送っていました。

「母さん、大丈夫? 」

 我に返ると、朝日に輝く坂を、事故で片足の利かなくなった娘が下りてきました。門柱の脇には兄ちゃんが立っています。私は二人の眩しさに背を向け、何度もうなずくだけでした。

 今日も便箋は、取り止めのないことで埋まってしまいました。こんな手紙でも読んでくれる人がいるということは、本当に幸福(しあわせ)なことだと思います。

 最後に書き添えることがあり箪笥(たんす)を整理していたら、油紙で包まれたおばあちゃんの手紙が出てきました。懐かしくて、読ませていただいたところ、赤ちゃんについて書かれていた箇所――たぶん空のことだろうと思います――が具体的なことが書かれていないので、どうしても腑に落ちません。手紙を持ったまま、ぼんやりしていると、いつしか子供の頃、母さんと交わした会話が浮かんでいました。

「女の子というのはね、ふたつの心を持って生まれてくるのよ。それは感じても動けない心と、感じなくても動いてしまう心なの」

「ふたつの心があるっていうことは、お互いに遊んだり、お話したりできるんでしょう? 」

「心の中のことだから、それは出来ないのよ。でも感じても動けない心は、何かに苛々(いらいら)して動きはじめていたし、感じなくても動いてしまう心も、何かが羨ましいと感じはじめていたから、なんとなく気配で、お互いがお互いに気づいてしまったのかしら……」

「……ふぅん」

「そしてその想いはだんだんふくらんできて、或る日、誰かさんとお花畑に座っていたら、気づいてしまったの」

「……何を? 」

「ふたつの心がひとつになって、感じて動ける心になっていることをよ。だってそうでなければ、誰かさんにお花を摘んであげたいと思ったり、夕日を見て涙がこぼれたりするはずがないもの」

「私もいつかお花を摘んであげたいって思うのかしら」

「ええ。いつか、とても好きな人とお花畑に座っていたら、思うかもしれないわね」

「分かった、母さんと一緒に座っていた人は父さんでしょう? 」

 母さんは驚いたように私を見つめ、それから目を伏せました。

「……えぇ、そうね」

「……違うの? 父さんじゃないのね? 」

「女の子はね、感じて動ける心が出来上がると、自分で自分が手に負えなくなることだってあるのよ。でもこのことはお父さんに言っちゃダメ。母さんと海だけの秘密にしておいてね」

 母さんの「自分で自分が手に負えない」という言葉を思い出したら、手紙の意味がスーッと胸に収まりました。これは女性が授(さず)かっている命の本来の働きで、たとえ結果がどうであれ、常識の入り込む余地のない、女なら誰でも経験することだったんですね。でもあの時代、自分の命のままにおもむいた母さんを想うと、……良いも悪いもなく羨ましくて、憧れてしまいます。

 もちろん当時、五、六歳の兄ちゃんは、知るよしもありません。ただ繊細な空のことですから、何かを感じていたかもしれません。もしそうだとすれば、小さい頃の空がなぜ震えていたのか、どうして遠くへ行こうとしていたのかも、すべて繋がってくるような気がします。

 手紙のことは、空には話しておりません。勝手に処分しようかとも思いましたが、やはり母さんが大切に仕舞っていた手紙なので、本人に決めて貰うために同封しました。次回、こっそりとお返事を聞かせて下さい。

 追伸
 近々、あいつと逢(あ)うつもりです。もしかしたら、そのまま一緒にお見舞いに行くかもしれません。母さんが驚いたら困りますので、あらかじめお知らせしておきます。

いじめっ子の海より 

恋多き母へ

<下>へ続く

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