新しい扉を開けたから出会えた私 俳優・市毛良枝さん

【Reライフフェスティバル2023春】「私らしく、歩く、生きる~午後5時24分からのReライフ~」(上)

2023.05.19

 アクティブ世代の自分らしい生き方を応援する大人の文化祭「朝日新聞Reライフフェスティバル2023春」が3月10日、東京都内のホテルで開かれました。4年ぶりのリアル開催で、会場は参加者の熱気に包まれました。出演者の一人、俳優の市毛良枝さんは「私らしく、歩く、生きる~午後5時24分からのReライフ~」と題し、自分自身を見つめ直すきっかけになった山登りとの出会いから、母の介護にのめり込んだ日々、自身のこれからについて、役者人生を振り返りながら語りました。お話の内容を2回にわたって紹介します。聞き手は朝日新聞Reライフプロジェクトの南宏美が務めました。

市毛良枝さん
俳優の市毛良枝さん

山との出会い おとなしかった私がおしゃべりに

――40歳で山登りを始めたきっかけは。

 20歳ぐらいでこの仕事を始めました。きらきらと輝く大先輩だらけで、自由な人生を生きていらっしゃるからこそ輝いているというのがわかるような方たちばかりでした。その中で私は妙に普通の子だったので、「この世界は私が紛れ込んじゃいけなかった世界なんじゃないかな」とずっと思っていました。10年やっても、20年やっても慣れなくて、「いつ辞めればいいのか、辞めたらどうやって生きていくんだろう」と常に悩んでいました。

 あるとき父親が救急車で病院に運ばれ、たまたま担当医になってくださった方が山好きでした。父は残念ながら、たった2カ月の闘病で他界してしまいました。落ち着いてから先生にごあいさつに伺ったとき、「今度、看護師さんたちと山に行かれるときに私を誘ってくださいませんか」と社交辞令半分で言ってみました。それが私の山生活の始まりでした。

 「ハイキング程度の山にしたから」と言われて行ってみたら、北アルプスの2700m級と2900m級の山でした。そこそこ大変な思いもしたんですが、「生まれて初めて私はこんなに楽しいことに出会った」と思いました。下山のとき、私が大きな岩のところをバランスをとりながら何げなく歩いていたら、(先生が)「意外とバランスがいいんだね」と言ってくださいました。

 自分のことを「できない、できない」と否定ばかりして生きてきた私にもできた。3000m近い山を2つ登って下りてきて、すごく元気だったし、楽しかった。「体力がない、運動能力がないというのも思い込みだったかもしれない」。一から自分自身を見つめ直すきっかけになりました。

――一歩踏み出してみて、新しい世界が開けたんですね。

 登山をやり始めて、「私はそんなに運動能力がないわけじゃないかもしれない」と思った瞬間に、「今までやりたいと思ったけどやってこなかったことを全部やってみよう」と思う気持ちに変わりました。あれこれ扉を開けてみると、開けた扉の先にもれなくお友達がついてきて、その友達がまた違う遊びやスポーツを教えてくれて、そこでまた違う友達が増えていきました。

 芸能界には魅力的な人はいっぱいいて、普通の子だった私には通じない言語社会があって、口数も少なくなってしまいました。文学座の研究所のころから「おとなしいね」とよく言われていました。俳優にとって「おとなしい」なんて何のほめ言葉でもない。自分で語れる言葉を持っていなかったので、同期たちが演劇論をたたかわせていても、全く口をはさめなかったんです。けど、山をやり始めて、自分が楽しいことを見つけたときに、いくらでもしゃべれるようになって、あっという間におしゃべりになりました。

つないだら離せなくなった母の手

――54歳ごろ、また一つ、人生の転機が訪れましたね。

 (ドラマ撮影などの仕事の合間に)自分の時間を作り出して、行きたい山にも行けるようになり、「私のやりたい山はこれだ。来年からはこれで行こう」と思った直後に、母が脳梗塞(こうそく)になりました。最初は命の危機もあり、このまま歩けなくなるかもしれないと診断されました。

 その母を再生させるためにリハビリに付き添い、頑張って介護してしまったんです。「つないでしまった手を離せなくなってしまった」という感じ。手を離したら倒れちゃうかもしれない人の手をつないでしまったらもう離せなくなってしまう。だから私がすごく母親孝行とか愛情深いとかいうことではなく、本当に困っているから手を差し伸べてつないでしまったら、振りほどけなくなってしまったんです。

 それから約13年間、母を介護しました。私は山には1週間、できれば1カ月ぐらい行きたいんですけど、母は週何回かリハビリに行かなきゃいけない。その付き添い、もちろん仕事もしなくてはいけない中で、どんどん自分自身が追いつめられました。けど、そのことに気づかないぐらい一生懸命やっていました。

 一度ゼロにリセットされてしまった人をもう1回立て直していくリハビリというのが、私が山で学んだ、自分の肉体をどうしたらどういう山に登れるということと、すごくシンクロして、本気で理学療法士になりたいと思ったぐらいでした。

 リセットされてしまった人でも毎日毎日、努力すると歩けるように戻る。私も(母を)励まし応援することにすごくのめり込んでしまいました。つないだ手はどんどん離せなくなって、24時間つないでいなければならないみたいになって。落語の「二人羽織」の感じです。母という人生を成立させるためにどんどん自分の生活も人生も置き去りになってしまいました。母にはご飯食べさせても自分はご飯も食べないまま出かけるみたいなことが日常になって、毎日ひもじい思いをしていました。

市毛良枝さん
俳優の市毛良枝さん

 そんなとき、(母の病院の)ソーシャルワーカーの方に面談を申し込まれました。私はその3時間、泣きっぱなしで、そのときに「私もしかして介護うつかもしれない」と思いました。「私たちはお母様よりあなたを心配しています」と言われ、涙が止まらなくなりました。

 私は人を助けているつもりだったけど、人から心配される人間になってしまっていた。これから生きていく人の人生をまず考えないとだめだな、と。母が幸せに人生を終えてくれるためにと思ってやってしまったけれど、どこかで少しずつ手を抜いて、「母の人生は母の人生、自分の人生は自分の人生」と考えないと、母がいなくなったときに私の立っていられる場所がなくなるということに気づき、色々な方の手を借りるように変わりました。

 介護保険制度はもちろん使わせていただきましたし、助けていただきました。けど、私たちみたいにいつ仕事になるかもわからない、仕事になったら朝早かったり夜遅かったりという仕事は、どうしても制度からこぼれてしまうので、制度だけではどうにもなりませんでした。

 (母と暮らしていたのは)長く住んでいる町で、知り合いもいっぱいいました。「私のいないときに家でご飯作ってくれるような人がいないかな」と色々な人に話していたら、助けてくださる方が何人か見つかりました。そういう人に出会ったというか、無理やり手繰り寄せた感じでした。

 何年か一緒に家族のように母の介護を手伝っていただいたおかげで、その人たちがいま親戚のように残って、私の精神的な支えになっています。あのとき自分だけで頑張っていたらそういう人たちとの出会いもなかった。

 介護施設もデイサービスやショートステイでずいぶんお世話になった方たちとも本当に真剣に母という人のこれからみたいなことを語り合えた。ふつう介護されていた人が他界してしまうとそこで関係って終わってしまうんですけど、今でも仲良くさせていただいています。コロナで行けなくなってしまっていますが、施設でボランティアでお手伝いをしたりしました。そういうつながりもできたので良かったかなと思っています。

大好きな山に行けない生活が導いた新しい世界

――介護生活の支えになったという社交ダンスは、還暦前に始められたそうですね。

 母の介護が始まってから、山にはなかなか行けなくなりました。山で体を動かすことがすごく楽しいとわかったにもかかわらず、自分のメンテナンスは二の次三の次で介護に入れ込んでしまいました。だんだんと「息がちゃんと吸えてないな」と体の不調を感じるようになりました。「息が吸えてない」というのは肺が小さくなったわけじゃなくて、体を動かしていないから、体の正しい位置に骨も筋肉もない、歩いていても自分の体が足の上にのってない。足より上半身が一歩後からついていっているみたいな不思議な状態になってしまいました

 母がデイサービスに行っている間の短い時間でできることを探していて、筋トレでもしようかなと思っていたときに友人が社交ダンスに誘ってくれたんです。体験レッスンに行くと、25分のレッスンでも息が上がっちゃうぐらい大変でした。

 いま思うとそんなに大変なことはしていないんですが、何年も体を動かさずにいましたから。「これはもっとちゃんと運動しなきゃいけないな」と続けることにしました。音楽を聴きながら音に合わせて体を動かす楽しさは、バーベル上げてみたいなものよりは私に向いていたのかもしれません。体の変化も感じました。

 先生とワルツを踊りながら、介護の愚痴や母の悪口を平気で言っていました。「(母が)こんなこと言うんですよ」みたいに。先生も母のことを知らないので、適当に相づちを打ってくださるだけなので、深刻にならずにすんで非常に助かりました。そこでもやっぱりお友達ができました。新しいことを始めると違うタイプの人とまた出会えて、すごく救われた気がするんですね。

(下)に続く

(文・松崎祐子、写真・伊藤菜々子)

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  • 市毛良枝
  • 市毛 良枝(いちげ・よしえ)

    俳優

    1950年、静岡県出身。文学座付属演劇研究所などを経て、71年にドラマ「冬の華」でデビュー。77年のドラマ「小さくとも命の花は」で人気を集める。40歳で登山を始め、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロにも登頂した。NPO法人日本トレッキング協会の理事を務め、環境保全の取り組みを助言する環境省の環境カウンセラーにも登録。著書に「山なんて嫌いだった」など。

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