朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第2回受賞作から、Reライフ読者賞の「最後の噓(うそ)」(東京都・永田俊也さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。Reライフ読者会議のメンバーが選考委員となって選んだ作品です。今回は<上>です。

1
「行きませんか、温泉でも」
肩越しに妻が言った。亀岡隆平は振り向かなかった。髭(ひげ)の剃(そ)り跡を確かめながら、洗面台の鏡に向かって口を開いた。
「なんだ、急に」
「だって、しばらく行ってないでしょう。前はいつでしたっけ」
自分の後ろで、良江は小首を傾(かし)げた。じきに四十六になるというのに、こういう仕草(しぐさ)は新婚の頃のままだ。
「覚えてない」
さきおととしの十月に、二人で箱根に行ったじゃないか――亀岡は腹の中で突っ込んだ。最初は家族旅行の予定だったが、理恵が拒んだため夫婦で出かけたのだ。思えば娘の父親拒否症は、あの頃から始まっていたのかもしれない。
紅葉には少し早かったものの、登山鉄道の窓に映る野山の景観は、どれも素晴らしかった。柄にもなく、はしゃいでいたのだろう。夕食ではいつになく酒が進んだ。二人でもう一度温泉に浸(つ)かり、土産物屋を冷やかしてから、久しぶりに床を共にした。
「この時期、近場は予約で一杯だろう。こっちには休日出勤もあるし」
「それは、そうですけど」
身じたくを整え、亀岡はさっさと玄関へ向かった。いつものように、良江がネクタイの結び目を直してくれた。後ろ髪に白髪が何本か混じっていた。
「ここのところ、少し疲れているように見えたものですから」
「馬鹿を言うな。俺はこんなに元気じゃないか」
妻のいたわしげな声が、なぜだか癇(かん)に障った。亀岡は、我知らず声を荒らげた。
「早朝会議に当直、来年の予算申請も迫っている。お気楽な主婦と違って、こっちは毎日職場で戦っているんだ。おかしなことを言うんじゃない」
ごめんなさい、と良江が言った。亀岡は靴べらを取った。
「今日は、理恵のところに行ってきます。何か大事な話があるらしくて。副島さんが迎えに来てくれるそうですから」
「あんな男と、まだ続いていたのか」
役者の卵だという副島一哉の、軽薄な笑い顔が頭をかすめた。亀岡は、ますます気分が悪くなるのを感じた。
「見かけほど、いい加減な人じゃないみたい。理恵のことを考えて、来月から親戚の会社に勤めるって話です」
「勝手にしろ。だが、絶対にこの家には上げるな」
交際に反対した自分に啖呵(たんか)を切って、家を出ていった娘である。どうなろうと知ったことではなかった。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「トイレの窓が汚れていた。無精せずに、ちゃんと掃除しておけ」
そう言い残し、亀岡隆平は家を出ていった。
亀岡が良江と結婚したのは二十三年前。帝都大学病院に就職して五年目の秋だった。二人を引き合わせたのは、放射線技術室の先輩技師である。当時、良江は女子大を出たばかりで、日本橋の信用金庫に勤めていた。
「器量は十人並みだけど、気立ての良さは保証する。お前のような体育会系の人間とは、きっと合うんじゃないか」
彼女のまたいとこに当たるという先輩は、そんなふうに冗談めかした。会ってみると、すっきりとした顔だちは自分の好みだった。大卒でありながら、何かと専門学校出のこちらを立ててくれるのも気にいった。この人となら、きっと幸福な家庭が築けるだろう、と確信した。
総武線の駅を下りると大粒の雨が落ちてきた。天気予報では、これから雨脚が強まると言っていた。亀岡は小さなため息をついた。病院にとって、大雨ほど厄介なものはない。見舞客はなかなか立ち去ろうとしないし、足の弱い患者がフロアで転ばないよう、常に気を配っていなければならない。
「次長、おはようございます」
職員通用口で、入院請求の鹿間さゆりが声をかけた。丸っこい顔をさらに丸くし微笑(ほほえ)みかける。異動先の部署で最初に笑いかけてくれたのが彼女だった。
「ああ、おはよう。昨日は急な残業で申し訳なかったね」
「いいえ、気にしないでください。何かありましたら、どうぞご遠慮なく」
ぺこりと頭を下げて、さゆりはロッカーの方へ歩いていった。二十二歳だというから、理恵と同い年だ。我が子ながら、どうしてああいう素直な娘に育たなかったのだろう、と亀岡はほぞを噛(か)む。
医療事務室への異動を言い渡されたのは、先月のことだった。昇進を伴ってはいたものの、ずっと技師畑で働いてきた男にとって、事務方への配転はまさに青天の霹靂(へきれき)と言えた。背景にあるのは技術系部門の人余りである。長引く不況で退職者が減ったため、このような垣根を越えた人事異動が行われるようになったのだ。
雨が染み始めた上着を脱ぎ、事務室の奥にある自分の机に置いた。腰掛ける間もなく、向こうの総合受付のカウンターで言い争う声が聞こえてきた。
「なんだってんだ貴様、患者に向かってその口の利き方は――」
「ここは病院だから大声を出さないでくれ、と言ったんです。患者は、あなた一人じゃない。少しは他の人の迷惑を考えてください」
いきり立つ初老の男に、田上康之が言い放った。男は六十代半ば、建築作業員が切るような肘(ひじ)当ての付いたジャンパーを羽織っている。
「こっちは、ただ耳鼻科の場所を聞いただけだろうが。人を小馬鹿にしやがって」
「だから、ちゃんと教えたでしょう。私たちは忙しいんです。いつまでも、あなたに拘(かかわ)っている暇はないんですよ」
相手の感情をわざと逆撫(さかな)でするかのように、冷徹な声で田上は言った。近くに他の管理職はいない。亀岡は、早くもこの日二度目のため息をついた。
「――あの、失礼をいたします」
いったん事務室を出て、外来患者の背中から声をかけた。とにかく今は、この二人を引き離すことが先決だ。
「なんだ、あんたは」
男がこちらを顧みた。激しい憤りで唇が震えている。亀岡は田上に下がるよう目で合図した。
「はい、こちらの部署で次長をしております亀岡と申します。部下の態度がお気に召さなかったようで、心からお詫(わ)びいたします」
男と八十センチの距離を置いて、亀岡は頭を垂れた。それがこちらの安全を保つための、ぎりぎりの間隔である。
「次長といったら、下のもんを教育する立場だろう。こんな半チクをのさばらせておいて、いったいどういうつもりだ」
外来患者が田上に目をやった。事務員はまだ同じ場所に立っていた。
「謝る必要なんてありませんよ。私は何も間違ってはいません。普通に話をしていたら、その人がいきなり怒り出したんですから」
「なんだと、この野郎!」
「やめないか、田上君」
男がカウンターに詰め寄ろうとした。亀岡は慌てて二人の間に身体を差し入れた。老人特有の饐(す)えたような口臭が、顔に降りかかった。
「本当に申し訳ございません。お話は別室でお聞きいたしますので、ここはどうかお気をお静めください――」
小柄な男の肩を抱えるようにして、どうにかその場から連れ出した。学生時代に部長を務めていた合気道の所作が、土壇場で役に立ってくれた。
一時間にわたる謝罪の後、亀岡はようやく事を収め事務室に戻った。開診時間はとっくに過ぎ、院内は外来患者でごった返していた。袖机の上の茶箱には、今日中に片づけなければならない書類が積まれている。新任の次長は、指の腹で両方の瞼(まぶた)を押した。
「田上君、ちょっと」
「はあ」
仕事の合間を見計らって、トラブルの主に声をかけた。四十五歳の事務員は、億劫(おっくう)そうにデスクにやって来た。
「今朝のことで確認しておきたいんだ。先方は耳鼻科への順路を訪ねた時の、君の態度が気にいらなかったとおっしゃっている。相手はご高齢なんだし、もう少し親切に説明してさしあげてもよかったんじゃないか」
「私は三度も説明しました。仕事の準備もありますし、いつまでもあの人に時間を割いている余裕はないんです」
「おいおい、いくらなんでも患者様にそれは言い過ぎだろう」
「患者様、ですか」
部下の細い眼に、蔑(さげす)んだような笑いが宿った。
「その言い方、いい加減にやめませんか。我々は先進医療を提供するスタッフであって、彼らの下僕じゃありません。患者に対して、上がいつまでもこびへつらうから、ああいう増長する輩が出てくるんです」
周りの人間に聞かせるように、田上は声を張った。苦々しい思いを隠して、亀岡は古参の職員を見返した。
「ともかく、院内での諍い事は困るんだ。君の気持ちもわからないわけじゃない。だが、どうか今後は穏便に頼む」
下げたくもない頭を、また下げた。田上康之は俗に言う問題社員の一人であった。患者や他部門の職員とのトラブルは多く、そのくせ仕事の能力は半人前。だから、この年齢までヒラでいるのだ。
亀岡にとって厄介なのは、田上が労働組合の書記長を勤めていることだった。帝都大学病院は、昔から組合の力が強いことで知られている。この医療事務室にも加入者は多い。下手に親玉の機嫌を損ねて業務が立ち行かなくなれば、それこそ一大事である。
「大変ですね、次長も」
こちらの立場を承知している田上は、しゃあしゃあと言った。
「技術屋さんが、お門違いの部署に来させられて。まあ、くれぐれもよその人間に見下されないよう、お願いしますよ」
見下しているのはお前だろうが――喉(のど)まで出かかった言葉を亀岡は呑(の)み込んだ。仕事がありますので、と言って田上は自分の席に戻っていった。
――まったく、最悪の一日だな――
窓を叩(たた)く雨を眺めながら、亀岡は思った。患者とトラブルがあった場合、管理者は文書で病院長に報告する決まりになっている。先週末に院長室に呼ばれ、医事業務の改善を迫られたばかりだった。
亀岡は自分のパソコンを開いた。顛末書(てんまつしょ)のフォーマットは、あらかじめハードディスクに入っている。それを開こうとした時、机の電話が鳴った。片手でマウスを動かしながら受話器を取った。交換手の柔らかな声が響き、すぐに外線に切り替わった。
午前十時四十五分――亀岡隆平にとって、まさしく今日が人生最悪の日であることを告げる通話が、つながった。

2
電話の主は女だった。指名の通話にも拘らず、名前を告げると一瞬、言葉を出しあぐねたように沈黙した。
「はじめまして、麦秋社文芸第二部の棚橋と申します。ミュウ……いえ理恵さんの担当をさせていただいております」
芯のある声を、あえて押し殺すようにして女は告げた。三十くらいだろうか、と亀岡は思った。
「出版社の方が、私になんのご用ですか」
不機嫌を隠さず言った。五年前、理恵は女子高校生作家として世に出た。実際は複数のブレーンと組み、共同で小説を書いているのだという。が、娘がどこで何をしていようと自分には関係のないことである。勝手に家を出ていって以来、かれこれ二年近く顔を見ていないのだから。
「理恵さんに代わってお電話いたしました。葛飾区民病院からかけています。彼女は私の横にいますが、取り乱していてお話しできる状態ではないものですから」
「娘に、何かあったんですか」
落ち着いた声で亀岡は聞き返した。近くの端末で伝票入力をしていた鹿間さゆりが、手を止めてこちらを見た。昔から、小さなことを大袈裟(おおげさ)に騒ぎ立てる子だった。おおかた、足でも挫(くじ)いて担当の編集者に助けを求めたのだろう、と思った。
「奥様が事故に遭われました」
受話器の向こうで女が告げた。春先の猫が立てるような、細く高い娘の泣き声が近くで聞こえた。「えっ」とつぶやいたきり、亀岡は絶句した。
「今、ICUで緊急手術を受けておられます。どうか、すぐにいらしてください――」
それからの何十分かは、全く記憶に残っていない。気がついた時には、タクシーに乗っていた。雨はますます勢いを増し、水流となってフロントガラスから流れ落ちていた。傘も持たずに飛び出したので、全身がびしょ濡(ぬ)れだった。運転手が嫌な顔を見せなかったのは、相手が長距離の客だったからだろう。
「亀岡さんですね」
棚橋由佳は救急部の入り口で待っていた。想像したより少し年かさの、利発そうな女性だった。初対面だったが、こちらの様子で察してくれたようだ。
「近くに待合室があります。理恵さんも、そちらにいらっしゃいますから」
「どうも、お世話をおかけします」
少しだけ平静を取り戻し、亀岡は頭を下げた。妻の身に何があったのか、容態はどうなのか、今すぐに聞きたかった。が、編集者は駆けるような早足で院内へと取って返した。
集中治療室は厚い鉄扉で閉ざされていた。壁際の長椅子に、理恵が崩れるように腰掛けていた。しばらくぶりに会う娘は以前より頰の丸みが取れ、身体もほっそりしたように見えた。
「ミュウちゃん、お父さんが」
父親との仲が上手くいっていないことは、娘から聞いているのだろう。由佳が小さな声で言った。理恵はようやく顔を上げた。自分とそっくりな楕円形の目が、赤く染まっていた。
「――ごめんなさい」
「いったい、何があった」
娘の肩が、再びがっくりと落ちた。むき出しの膝小僧に顔をうずめて、 理恵は泣き出した。
「泣いてちゃわからないだろうが。理恵、母さんはどうして――」
「一哉の車が……事故を起こして」
途切れ途切れになりながら、理恵が言った。
「家を出てすぐ、国道でスリップしたって。道路脇の電柱にぶつかって、ここに」
――理恵のところに行ってきます。何か大事な話があるらしくて――
二年前、赤茶に染めた長い髪を掻き上げ、自分の前に現れた副島一哉の姿が浮かんだ。高校中退、役者志望でアルバイト暮らし、女のような長い睫(まつげ)――男の経歴もそと見も全部が全部気にいらなかった。やっぱり、あんな奴とは完全に縁を切っておくべきだった。良江を行かせてはならなかったのだ。
理恵と恋人は、横浜のマンションで同居生活を送っている。自分が家を出てすぐ、妻は迎えに来た副島の車に乗った。それからわずか十五分後に事故は起きた。
「それで、怪我(けが)の具合はどうなんだ」
「こちらに運ばれてすぐ、手術が始まったそうです。詳しいことは、まだ何も」
嗚咽(おえつ)している娘に代わって棚橋由佳が答えた。と、その時、鉄の扉が内側から開いた。深緑色の手術着を着た医師が一人で出てきた。
「亀岡良江さんの、ご主人でいらっしゃいますか」
マスクを通して沈痛な声が聞こえた。それだけで亀岡は全てを理解した。
「奥様は頭を強く打っておられました。残念ですが、こちらに運ばれた時には、もう手の施しようがありませんでした」
聞きたくない、とでもいうように、理恵が両手で耳を塞いだ。不意に目の前が暗くなった。医師と編集者が慌てて自分に手を差し伸べた。
二人の腕に支えられ、亀岡は半分開いた集中治療室の扉を呆然(ぼうぜん)と見つめていた。だから背後から近づいてくる男の足音に気づかなかった。
「あのー」
気の抜けた声が、耳のすぐ近くで上がった。亀岡は振り返った。副島一哉の黒目がちの目が、自分を見下ろしていた。
「なんて言うか……すいません、俺のせいで、こんなことになって」
以前と少しも変わらない、聞き取りにくい声で男は言った。亀岡は、いかにも女好きのしそうな細面を見つめた。真っ直(す)ぐ整えられた眉、鋭角に尖(とが)った顎(あご)。髪の色は黒だが、左の耳には銀色のピアスをつけている。隣にいる背広姿の中年は、おそらく交通課の捜査官なのだろう。
「あんなことになるとは思ってなかったんです。対向車をよけようとしたら、急にタイヤ がスリップして。気がついた時は、もう」
副島一哉が、右手で前髪を掻(か)いた。青年の手の甲に、小さな絆創膏(ばんそうこう)が張られているのが見えた。この男の怪我はこれだけなのか、と亀岡は思った。俺の女房を死なせたのに、こいつは自分の足でぴんぴんと立っている。
五十年の人生で一度も感じたことのない、激しい怒りが込み上げた。言葉にならない唸(うな)り声を上げながら、亀岡は長身の若者につかみかかった。付き添いの男が、慌てて二人の間に割って入ろうとした。
「やめてよ!」
さっきまで泣き崩れていた理恵が、自分の背中にむしゃぶりついた。ワイシャツの襟に手をかけ、同棲相手から父親を引き剥そうとする。
「一哉が悪いんじゃない。事故は、誰のせいでもない。だから――」
長い爪が首の皮に食い込んだ。亀岡は、男の胸ぐらをつかんでいた手を解いた。呆然と立ち尽くす医師と編集者の姿が、視界の隅に入った。
「誰のせいでもない、だと?」
父は娘の顔を顧みた。男に感じたのと全く同じ憎悪が、そちらに向けられた。
「馬鹿を言うんじゃない。良江を殺したのは、お前とその男だろうが」
理恵が、はっと息を呑んだ。身体を小刻みに震わせながら、亀岡は続けた。
「無知で愚劣なお前らが、俺の女房の命を奪ったんだ。俺は……俺は、絶対にお前らを許さない」
亀岡は大きく腕を振り上げた。激情に任せて、娘の頬を打とうとした。理恵は引かなかった。父親譲りの目を見開き、じっと自分を睨(にら)みつけていた。
理恵を守ったのは棚橋由佳だった。亀岡が平手を振るう寸前に、彼女は理恵の体を自分の方へ抱き寄せた。娘の長い髪をかすめただけで、亀岡の掌は空を切った。
「畜生っ――」
喉(のど)から絶望の叫びが漏れた。もう力は残っていなかった。五十男は、その場にへたり込んだ。
集中治療室前のビニール張りの長椅子で、亀岡隆平は声を上げて泣き出した。
妻の葬儀は、親類と葬儀社の手でつつがなく執り行われた。警察の事情聴取があったのだろう。副島一哉は、二日間とも顔を見せなかった。
亀岡と理恵は遺族席に並んで座った。告別式が終わり焼き場で骨を拾うまで、父と娘は 一度も言葉を交わさなかった。
「私、別れないから」
帰りの車の中で、理恵が言った。亀岡は、膝(ひざ)の上の骨壺(つぼ)を見た。
「どんなことがあっても一哉と一緒にいる。私には、あの人が必要なの」
「もう、いい」
窓の外の街路樹を眺めながら、亀岡は言った。
「良江がどう思っていたかはわからない。だが、お前にはお前の生き方がある。そして、それは俺とは決して相容(あいい)れないものだ」
理恵は、反対側の窓の景色を見ていた。娘が声を立てないようにして泣いていることに亀岡は気づいた。それが父親に対する、せめてもの抵抗だったのかもしれない。
「お前も気づいているはずだ。俺たちは、普通の父親と娘にはなれない。血は繋(つな)がっていても、お互いの気持ちを繋ぐことができないからだ。だから、見せかけの親子ごっこは今日でおしまいにしよう」
きちんと大学まで進み、両親と同じ固い勤めにつく。結婚を考えるのは、人として十分成長してからでいい。それが、理恵が子供の頃に描いた自分の夢だった。習い事や塾を掛け持ちさせたのも、たった一人の娘の将来を思ってのことだった。
しかし、娘はそんな自分の希望にことごとく背を向けた。地道な努力を強いる父親に反発し、中学時代は出来の良くない仲間と夜の町を遊び歩いた。やっと入った高校は私立の三流どころ。それも作家の道が開けるや、さっさと退学届を出してしまった。そしてあんな男を好きになり、勝手に家を出ていったのである。
「お父さん、私――」
「四十九日の法要は、来なくていい」
ハイヤーの運転手に聞かれないよう、小さな声で亀岡は言った。
「お前たちが来ても、お母さんは喜ばないだろう。だから、もうあの家には足を向けないでほしい」
「……」
「残っている荷物は、明日横浜に送る。相続や法的な手続きは、知り合いの弁護士に頼むつもりだ。今後は、文書でのやり取りになると思う」
交差点の手前で車が止まった。お花茶屋の駅へと続くアーケードの商店街だった。空き店になった酒屋の隣で、古い暖簾(のれん)が揺れている。老夫婦がやっている寿司屋(すしや)である。ずっと昔に、よく三人で食べに来たことがあった。
――これから、どうして生きていこう――
理恵が洟(はな)をすすり上げた。耳障りな音から妻の魂を守るように、亀岡は骨壺を持つ指に力を入れた。
一人きりの家は、もうすぐそこだった。
3
突然訪れた妻との別れは、亀岡を極限まで打ちのめした。食欲は落ち、一睡もできない夜が続いた。明日からは職場に復帰しなければならない。無理にでも眠ろうと、市販の睡眠導入薬を服み寝床に入った。ようやくうつらうつらとしかけた頃、あの日の朝に妻と交わした言葉が蘇(よみがえ)ってきた。
――行きませんか、温泉でも――
そう切り出したのは良江だった。昔からの癖で亭主に何か提案する時、語順が前後することがある。思えば、あれもそうだった。
女房からの誘いに、亀岡は気持ちが浮き立つのを感じた。旅館でも民宿でもいい。どこか静かな宿で二人で一晩、 ゆっくり過ごしてみたいと思った。なのに――自分は首を縦に振らなかった。仕事の忙しさなど言い訳に過ぎない。こっちは五十を迎えた中年男。温泉旅行くらいで腰を浮かされるか、と依怙地(いこじ)になっていたのだ。
――トイレの窓が汚れていた。無精せずに、ちゃんと掃除しておけ――
何より悔しいのは、それが妻にかけた最後の言葉だったことだ。運命を変える術がないことは分かっている。けれど、もしもあの時、素直に頷(うなず)いていたなら、二人が交わした話は違うものになっていたのではないか。
暗い寝間で、亀岡は目を開いた。
「俺は、決めた」
天井板の木目を睨(にら)みながら、やもめとなった男はつぶやいた。
嘘(うそ)はつかない。
亀岡が心に刻みつけたのは、ごく単純な誓いだった。正しいか間違っているかは問題ではない。この先何があろうと、自分が真実だと判断したことだけを口にする。一人の純粋な人間として、残りの人生を生き直すのである。
だが――冷たい枕カバーに頰をつけて亀岡は考えた。言葉にすれば簡単なようだが、現実の社会にはありとあらゆる嘘が飛びかっている。病の床にある友人に「なんだ、思ったより顔の色がいいじゃないか」などと声をかけるのは、むしろ配慮と表現した方がいいだろう。
もちろん、いざとなれば黙ってしまえばよいのだけれど、それでも安心はできない。だから、誓いを定めるに当たって保険をかけることにした。自分の生涯で嘘をつくのはあと一度だけ、という付帯条項をつけ加えたのである。
最後の嘘を残しておくことで気持ちに余裕が生まれた。はぐらかしや取り繕いは、もうこりごりだ。これから何十年か、文字通り馬鹿正直に暮らしていこうと思った。やがて、何日かぶりの深い眠りが体を包み込んだ。
翌朝は、いつもより一時間早く出社した。袖机の書類箱は、先週の倍の高さになっていた。急ぎの稟議(りんぎ)書をより分けていると、室長の浦川耕三が近づいてきた。月に一度回ってくる管理職の当直に当たっていたらしい。亀岡は立ち上がって頭を下げた。
「このたびは、いろいろとご迷惑をおかけしました。事務室からも手伝いを出していただき、申し訳ありませんでした」
浦川は、神妙な様子で首を振った。
「奥さんは本当にお気の毒だったね。これから大変だと思うが、どうかくれぐれも気を落とさないように」
「それは無理です。あんな事故で妻を亡くしたんですから」
落ち着いた声で亀岡は告げた。二年後に定年を迎える室長は、きょとんとした目でこちらを見返した。
「ですが、仕事のことでしたらご心配には及びません。滞っている業務は、今日のうちに全て処理します。先般、命じられた医事業務の改革案は、木曜の午後までに提出しますので」
「まあ、そんなに気張ることはないだろう」
いかにも慈悲深げな顔をして、浦川が言葉を挟んだ。
「君の気持ちは私も理解しているつもりだ。仕事に没頭していれば、いくらかは気も紛れるだろうし。だが、無理というのはいつまでも続くものじゃない。こういう時こそ、周りの者に頼っても――」
「いいえ、室長は少しも分かっていらっしゃいません」
亀岡は上司に言った。
「私が仕事をする理由はたったひとつ、この病院から給料をいただいているからです。別に、妻が死んだ事実を忘れるために忙しいふりをしているのではありません。だいたい、何をしたところで、あの事故が心から消えるはずがないのですから」
「それは、そうだろうが……」
「室長のお気づかいには感謝します。ですが、もしよろしければ、そろそろ業務に戻らせていただきたいと思います。私の仕事の遅れで、下の者に残業を強いることは避けたいんです」
部門の長は、それ以上何も言わず席を離れていった。出勤してきた部下たちは、ちらちらとこちらの様子を窺(うかが)うだけで誰も言葉をかけてこなかった。おかげで思いのほか、書類仕事がはかどった。
残る大物は、医療事務室の業務改革案の作成だった。先週末の締め切りで、全ての専任職員にアンケート用紙を渡してある。現場の生の声を集約し、仕事上の問題点を浮き彫りにするのである。亀岡は、係単位で集められた用紙の束を机に置いた。
「――うん?」
念のため枚数を確かめると、五人分足りない。名簿と照らし合わせて、未提出者全員が組合の役員であることに気づいた。当然のごとく、その中には田上康之の名前が含まれていた。
亀岡は事務室を見回した。ちょうど昼の休憩時間に入ったところで、五人の姿は見当たらなかった。と、その時、向こうの薬剤部の前にいる田上が目に入った。紺の着物を着た老婦人と、何やら話をしている。亀岡は、そちらに近づいていった。
「だからさあ、お婆(ばあ)ちゃん、リウマチ外来は東館の二階だって」
苛(いら)立った男の声が、自分の耳に届いた。
「すいません、その建物にはどうやって行ったら――」
「それは、さっき説明したじゃない。GICUの角を右に曲がって、しばらく行くと連絡通路があるから。それで分からなかったら、また近くにいる人に聞いてもらえば――」
「なんだ田上、その言い方は」
騒がしい院内に怒声が響いた。田上と老婦人それに近くにいた薬待ちの患者が、驚いてこちらを見た。
「部下が大変失礼をいたしました。東館までご案内いたしますので」
老女に告げると、亀岡は視線を田上に戻した。
「後で話がある。私の席に来るように」
田上康之は、憤りの籠(こ)もった目で見返した。公衆の面前で叱責(しっせき)されたことより、名前を呼び捨てにされたことの方が腹に据えかねているようだった。
来訪者を東館まで送り届け、亀岡は戻ってきた。田上は、さっきと全く同じ場所に立っていた。
「いったい、どういうつもりですか」
医療事務室のトラブルメーカーは、上司が足を止める前に言葉を投げつけた。
「それは、こちらの質問だ。大切な患者様に対して、どうしてあんな態度を取った」
「やれやれ、また患者様ですか」
田上は、これ見よがしに肩をすくめた。
「ご覧の通り、ごく普通に対応したまでです。あなたに、いちゃもんをつけられる覚えはありません」
「君はさっき患者様のことを”お婆ちゃん”と呼んでいたな。あちらは血縁者なのか?」
「何を言い出すかと思ったら。あんな年寄り、どこの誰かも知りませんよ」
「だとしたら、あの横柄な言葉づかいは到底許されるものではない。ここは大学病院であり、彼女は我々にとって大切なお客様だ。君のように、最低限のマナーすらわきまえない人間を私は認めない」
「マナー違反とは、お笑いぐさですね。ねえ亀岡さん、お互い本音でいきましょうよ。あなたが私を嫌っていることくらい、最初からお見通しなんですから」
茶色の瞳に薄笑いを浮かべ、田上が言った。
「縦割りの技師の世界と違って、医事は現場の職員一人ひとりがプライドを持って仕事をしている。放射線科で、下の者からかしずかれていたあなたにしてみれば、自分になびかない部下が疎ましくて仕方なかった。さっきのことだって、そんなあなたの本心が表れただけでしょう」
「五十点、ってところだな」
亀岡は、相手の顔を見据えて言った。
「確かに、私は君を嫌っている。だが、それは君が自分に服従しないからではない。客観的に見て、君には病院職員としての能力が著しく欠けているからだ」
「何を――」
「君を捜していたのには理由がある。君と小河原、椎名、佐山、秦の五名は業務改革アンケートを提出していない。そもそも、この程度の決まり事すら守れない部下を、どう評価しろと言うのかね」
「あんなものは病院当局による越権行為だ。労働環境そのものを無視した調査に、我々が答える義務はない」
「ほう、我々か。やはり君らは、最初から示し合わせていたようだな」
田上が奥歯を嚙(か)み締めた。ぎりり、という耳障りな音が耳に飛び込んできた。
「さっき、君はプライドという言葉を口にした。自分を尊ぶことが許されるのは、他人を思いやることのできる者だけだ。周囲の期待に応えようともせず、手前勝手にふるまうだけの人間に、プライドを語る資格はない」
背後で軽い咳(せき)払いが聞こえた。騒ぎを聞きつけた浦川室長が、心配そうに立っていた。
「これだけは言っておく。今の職場で仕事を続けたいのなら、患者様に対して二度と失礼な態度を取ることは認めない。よく肝に銘じておけ」
「人事権の乱用だ。私は、あなたにそんなことを言われる筋合いはない」
「いざとなれば仲間が守ってくれる、というわけか」
激しい怒りで唇を紫に染めた部下を、亀岡は見下ろした。
「だとしたら答えはひとつ。君の後ろ盾である労働組合も、君と同じただの糞ったれだということだ」
浦川が息を呑(の)み込んだ。亀岡は、くるりときびすを返した。
「アンケートは今日中に提出してもらう。ほかの四人にも、そう伝えておくように」
「ちょっと待て」
田上が声を張り上げた。亀岡は、もう振り返らなかった。
「あんたは今、我々の組合を侮辱した。俺たちは、絶対に許さないぞ」
「誰が、許してもらいたいなんて言った?」
五十歳の次長は、背中越しに答えた。
4

その晩、亀岡は浦川に飲みに誘われた。店は病院から四駅離れた飯田橋の小料理屋だった。座敷に上がり込むなり、室長が口を開いた。
「まずいよ、亀岡君」
亀岡は、ゆったりとした動作でおしぼりを使った。浦川は薄くなりかけた頭を振った。
「田上が問題のある職員だということは、私だって百も承知だ。しかし、一方で彼は組合の書記長でもある。医療事務室は組合員を目の敵にしている、とでも言いふらされたら、今後の業務に支障が生ずることになる」
「私は、組合そのものを糾弾したわけではありません」
亀岡は、ビールのグラスを取った。外で酒を飲むのは何日ぶりだろうか、と考えた。
「きちんと仕事をしている職員が、自分の権利や労働環境の改善を主張するのは当然だと思います。しかし、田上康之はそういうレベルの労働者ではない。職場になんの貢献もしていない人間が、組合の中枢であるという理由だけで庇護(ひご)されるのは、公平とはいえないでしょう」
「なあ亀岡君、きれいごとを語るのは、いい加減やめにしないか」
焦(じ)れたように、浦川が遮った。
「船村病院長が就任して以来、当局は労働組合と融和政策を取っている。田上を責め立てるのは、病院のトップに盾突くのと同じだ。処遇が公平かどうかなんて、今は問題ではないんだよ」
「問題ではない、ですって?」
亀岡は、室長の顔をまじまじと見た。
「そんなことはありません。我々は皆、社会が定めたルールの下で生きているんです。世の中から秩序や公平さが失われたら、いったいどうやって暮らしていけばいいんですか」
亀岡は、妻を死に追いやった副島一哉の顔を思い浮かべた。手の甲にかすり傷を負っただけの若者は、自動車運転過失致死傷罪に問われるらしい。収監もされず、今はまた横浜のマンションで娘と暮らしている。
「夕方、田上がこれを持ってきた」
浦川は、鞄(かばん)から一通の申入書を取り出した。提出者名は帝都大学病院労働組合となっている。
「人目のある場所で叱責(しっせき)されたことが、よっぽど腹に据えかねたのだろう。君の行為は、職員への個人的感情に根ざした暴挙である、とうたっている。休憩時間に長々と足止めを食わせたことも就労規則に反している、と」
「場所や時間を選んでいる余裕はありませんでした。それに、食ってかかってきたのは彼の方ですし」
「そこのところを巧く差配するのが、次長の役目じゃないのかね」
室長の声に、わずかに憤懣(ふんまん)が混じった。自分と違って、浦川はこれまで医療事務室一筋に勤め上げてきた。田上に対しても、出来の悪い子供を見るような思いがあるのかもしれない。
「部下が問題を起こしたなら、それを指摘し改善させるのが私の職務と心得ています」
次に浮かんだのは、いつでも不機嫌な娘の顔だった。亀岡は続けた。
「小さな過ちを見過ごしにすると、人はどんどん間違った方向に進んでいくものです。実際、田上がああなってしまったのも、これまでの上司の責任が大きいと思います」
「それは、私への批判かね?」
テーブルの向こうで、浦川の目が光った。反射的に首を振ろうとして、自分が定めた誓いを思い出した。亀岡は、小さく息を吐いた。
「はい、そうです」
言葉の意味が理解できない、とでもいうように、浦川がぽかんと口を開けた。気まずい空気が二人の間に流れ出す。亀岡は仕方なく、つき出しのもずく酢を搔(か)き込んだ。
「――亀岡君」
浦川は、苦い顔をしてビールをあおった。
「正直な考えを聞かせてくれないか。君を受け入れたのは、双方にとって間違いだったのだろうか」
事務室の長がつぶやいた。いい加減、疑問形はやめてくれ、と亀岡は願った。
「私は、今度の人事異動が不幸だったとは思っていません。ですが室長がこれまで通り、なあなあの運営を望まれるのなら、それに見合った人選を行うべきだったと考えます」
「わかった、もういい」
浦川が吐き捨てた。怒りと酒で、顔がどす黒く染まっている。
「君の目には、ただの事無かれ主義としか映ってないのだろう。だが、私は事務室の秩序を守っていかねばならない立場にある。理想論だけでは、組織は成り立たんのだ」
上司は腰を上げた。膝(ひざ)小僧がテーブルに当たり、グラスのビールがこぼれそうになった。
「これ以上、組合と揉(も)め事を起こすようなら、人事部に君の転属を打診する。どうやら我々は、相容(い)れることができないようだからな」
「こちらに異存はありません」
心にある言葉をそのまま伝えた。最後に一瞥(いちべつ)をくれてから、浦川は座敷を出ていった。
翌日、くだんの職員たちから相次いで欠勤の連絡が入った。事由は揃(そろ)って体調不良。田上はともかく、四人の突然の休暇申請は業務に少なからぬ影響を与えた。てんてこまいの事務室に入ってきた浦川は、それ見たことか、とでも言いたげな顔をして新任の次長を睨(にら)みつけた。
組合の専従者である蔵元太郎から面談の申し込みがあったのは、その日の夕方だった。「ケンカ太郎」の異名の通り、団体交渉の席では蛮声を張り上げて当局に詰め寄る猛者である。いよいよこれで異動も待ったなしか、と思いながら、亀岡は指定された小会議室に入った。
「お忙しいところ、どうも。今日はそちらもいろいろと大変でしょう」
特徴ある三白の目をぎょろりと剥(む)いて、蔵元は言った。
「ええ、大変です。なにしろ、藪(やぶ)から棒に五人の室員に休まれたのですから」
「それは、こちらに対する当て擦(こす)りですか」
タベ室長にされたのと、ほぼ同じ問いかけが返ってきた。が、幸いなことに蔵元はすぐに言葉を継いだ。
「用件を言います。昨日、医療事務室宛てに提出した申入書を、撤回します」
相変わらず挑みかかるような目をして、蔵元は告げた。自分に対する宣戦布告とばかり想像していた亀岡は、狐(きつね)につままれたような思いで相手を見返した。
「それはまた、どうして」
「あの文書は、組合として正規の手続きを経たものではなかったのです」
男は淡々とした口調で、今回の経緯を説明した。組合名で正式文書を出す際には、必ず執行部会での承認を得なければならない。ところが、田上康之は自らの独断で申入書を作成し、それを浦川に手渡した。一致団結を基本とする組合には、あるまじきルール違反だという。
「話は分かりました。しかし、私にはどうにも腑(ふ)に落ちない」
亀岡は言った。
「いったん表に出した抗議文を取り下げたりしたら、組合のメンツは丸潰れになる。ならばどうしてあなたがたは、撤回ではなく追認という手段を取らなかったのか。それくらい内々で処理すれば済む話でしょう」
「亀岡さんは我々のことを、理屈を無視したごろつきの集団とでもお思いですか」
蔵元が訊(き)いた。亀岡は少しだけ考えた。
「全員がそうだとは思っていません。しかし、その手の輩が数多く見受けられるのは事実だと考えます」
男は、真っ直(す)ぐこちらを睨みつけた。数秒の沈黙の後、蔵元はいかつい顔を崩した。
「あなたは変わった人ですね。組合の専従者を前にして、こんなに馬鹿正直に物を言う管理職を初めて見ました」
「それが、私の生きる指針ですから」
亀岡は言った。言葉の真意が相手に伝わったかは、分からなかった。
「午前中に聞き取り調査をしました。昨日の一件は、複数の薬剤師と看護師が見ていました。全員が組合加入者です。彼らの話を聞いた上で、例の揉め事の原因は田上君にあったと判断しました」
「なるほど、あなたがたに対する私の見方は、いささか主観的だったようですね」
「我々には自浄能力があります。たとえ幹部であっても、アンフェアなやり方は許しません。なぜなら、それが自分たちを守る最良の方法だと理解しているからです」
蔵元は席を立った。
「浦川室長に伝えてください。混乱はすぐに終結するでしょう、と」
蔵元の言葉は当たっていた。次の日、田上以外の四人が職場に復帰した。彼らは一様にしおらしい顔をして、業務改革アンケートを亀岡に提出した。
田上康之からは、なんの連絡も入らなかった。無断欠勤二日目、亀岡は田上の自宅に電話をしてみた。受話器を取ったのは母親で「風邪をこじらせたようで、何日か休むと聞いている」という返答だった。
ところがその時間、田上は病院の敷地内にある組合事務所にいた。居合わせた職員は、彼が他の幹部連中と激しくやり合った後、がっくりと肩を落として立ち去るのを見た。組合が病院長宛てに書記長の交代を通告してきたのは、同じ日の午後だった。
田上の欠勤は続いた。亀岡は何度も連絡を取ろうとしたが、当人が電話口に出ることはなかった。そのうちに、田上から浦川の許へ一通の診断書が送られてきた。地元のクリニックが発行したもので、病名欄には「周期性鬱(うつ)病の疑い」と記載されていた。
「しっぺ返しが、相当こたえたらしい」
亀岡の机に封筒を置いて、浦川は言った。
「自分の能力では、職場での昇進は難しい。組合の書記長というポストは、彼にとって唯一の心の支えだったのだろう。我々は、そのたったひとつの拠(よ)り所を奪ってしまった」
君は、をわざわざ我々に直し、室長がつぶやいた。
「お言葉ですが、更迭の判断を下したのは労働組合です。原因が彼自身の行動にあったことは、誰もが知っている事実でしょう」
「君は、いつでも正しいんだな」
冷ややかな声で、浦川が言った。
「さっき人事部長と話をしてきた。復職したら、田上は天城の分院に転属させるそうだ。おそらく、二度とここには戻ってこられんだろう」
「……そうですか」
さらなる返答を待つかのように、浦川が唇を結んだ。けれど、言葉は何も思い浮かばなかった。室長は、さっさとその場を離れていった。
田上康之が職場に現れたのは、それから三週間後のことだった。かつての労組の旗振り役は、見る影もなくやつれ果てていた。頰のあちこちから白髪交じりの髭(ひげ)が伸び、それが不健康な顔色をいっそう際立てている。垢(あか)で薄汚れた首回りには、皺(しわ)の寄ったネクタイが不格好に縛りつけられていた。
何より変わってしまったのは、その目だった。精気を失った瞳は膜が張ったように曇り、院内を行き交う患者をただぼんやりと眺め続けた。昨日まで空いていた椅子に、日がな幽霊がぽつんと座っているようなものである。当然、仕事をこなせる状態ではなく、田上に割り当てられていたわずかな業務は他の課員に分配されることになった。一度は行動を共にしたあの四人組でさえ、週が終わる頃には田上の存在自体を無視するようになっていた。
おそらくは人事部なりの配慮だったのだろう。田上の転属は、休診日である第三土曜の午後に言い渡されることになった。出勤日ではなかったが、亀岡はいつもの時間に事務室に入った。急な外来に備えて、休みの日でも数名の室員が職場に待機している。経費節減のため照明の絞られた院内は、空気までが重苦しく感じられた。
来ないのではないかと心配したものの、田上は十時過ぎに通用口から入ってきた。こちらには目もくれず、ふらふらとした足取りで人事部のある二階へと上がった。三十分後、再びフロアに姿を見せた部下に、亀岡は歩み寄った。
「田上君――」
正面から声をかけられ、田上は初めて自分を認識したようだった。驚いたように足を止め、乾いた目やにのこびりついた目で何度もまばたきをした。
「もう一度、きちんと話をしたかった。お互い、わだかまりは捨てないか。君自身のためにも、これからはしっかり前を向いて――」
「私が悪かったんです。だからもう、勘弁してください」
掠(かす)れた声が、部下の喉(のど)から漏れた。恐ろしいものにでも出くわしたように、唇が小刻みに震えている。亀岡は言葉を呑み込んだ。この男にとって、俺という人間は人生そのものを変えるほどの災厄だったのだ――そう気づいた。
週が明け、田上は天城の分院へと異動していった。四半世紀の間、男が座り続けた席には、短大を出たばかりの女性の派遣社員が座ることとなった。残業なし、週労二十八時間の時短契約だったが、田上の後任としてはそれで十分だった。明るい性格の彼女は、すぐに職場に解(と)け込んでいった。五十三名の室員は、あっという間に田上康之の存在を忘れ去った。
人事異動に名を借りた問題職員の追放は、医療事務室のパワーバランスに微妙な影響を与えた。素人に何が分かる、と亀岡のことをはすに見ていた連中が、自分の方からすり寄ってきたのである。今度の次長は強敵だ。牢名主の田上を屈服させ、その上、ケンカ太郎とさえ互角にやり合ったらしい。今までのように、なめてかかったら大変なことになる――そんな話が、彼らの間で語られていた。
亀岡の机には、若手や中堅の職員が頻繁に訪れるようになった。業務の相談がほとんどだったが、中には自分自身の将来について意見を求める者もあった。亀岡は、彼らの一人ひとりに言葉を飾らず相対した。どこまでも率直な五十男の意見は、父親との関わりの希薄な世代には新鮮に受け止められたらしい。近頃では、終業後に飲み会に誘われることも珍しくなくなった。
その一方で、部門のトップである浦川の陰は、日増しに薄くなっていった。事務職員はもとより、今や医師や看護師までが室長の前を素通りして、亀岡に相談事を持ちかける。気がついた時には、職場の指揮権は新任の次長に完全に移行していた。
「あんな技師上がりなんかに、俺の事務室を乗っ取られるなんて――」
ある晩、同期入社である図書館長と居酒屋で飲んでいた浦川は、ぽつりとつぶやいた。館長と別れ家に戻る途中、彼は後ろから来た軽自動車と接触した。前のめりに倒れた拍子に、右の鎖骨を折った。ひと月の入院の後、浦川は職場へ復帰したが、自分の居場所はもうどこにもなかった。
亀岡はといえば、相変わらず日々の仕事に忙殺されていた。次年度の予算折衝に、大小十一の診療科との打ち合わせ。空いた時間には勤務表をめくり、室員の残業時間と遅刻早退の状況をチェックしなければならない。次長職の聞こえはいいが、早い話が管理職に名を借りた「なんでも屋」である。
亀岡は、雑多な業務を確実に処理していった。技術畑の出だけあって、いったんコツを覚えてしまえば、あとはいくらでも応用が利く。それに早く帰ったところで、もう待っている人間はいないのだ。そう思うと余計に仕事に没頭できた。精力的に働く次長の姿は、一方で室長の存在をますます消し去ることとなった。
浦川が退職願を出したのは、それから間もなくのことだった。定年までは、まだ二年近くを残していた。退職の日、各部署への挨拶(あいさつ)回りを終えた浦川は、最後に亀岡の席にやって来た。
「室長、いろいろとお世話になりました」
深く頭を下げる亀岡を、浦川は無表情に見つめた。
「おめでとう。とうとう君の思い通りになったな」
乾いた声で浦川が言った。亀岡は驚いて顔を上げた。初老の男の顔に、一瞬、激しい憎しみが宿るのが見えた。
「そんな、私は――」
「好きにするといい。この職場は、もう君のものだ」
それが最後の言葉だった。
自由の利かなくなった右肩をさすりながら、浦川耕三は事務室から出ていった。
<中>に続く
◇
「最後の噓」<中>は6月1日、<下>は6月2日に配信します。最優秀賞の「八色ヨハネ先生の思い出」は、文芸社から年内に書籍として出版される予定です。

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