最後の噓<中>第2回Reライフ文学賞・Reライフ読者賞受賞作品

作・永田俊也さん(東京都)

2023.06.01

 朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第2回受賞作から、Reライフ読者賞の「最後の噓(うそ)」(東京都・永田俊也さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。Reライフ読者会議のメンバーが選考委員となって選んだ作品です。今回は<中>です。

<目次>(数字をクリックすると各章に移動します)

最後の噓 第2回Reライフ文学賞・Reライフ読者賞受賞作品

5

 病院の正面玄関に、今年も門松が飾られた。不思議なもので松飾りの時期になると、とたんにインフルエンザの患者が増える。新たに室長となった亀岡は、事務室の全員にワクチン接種を受けるよう指示した。が、もちろんそれだけでは油断はできない。院内に持ち込まれるウイルスは、一種類ではないのだ。
 日曜の朝、珍しく家の電話が鳴った。味噌(みそ)汁の火を止め、亀岡は受話器を取った。 

 「……もしもし」

 聞こえてきたのは、理恵の声だった。携帯電話でかけているらしく、耳障りな雑音が混じっている。

 「何か用か」 

 亀岡は素っ気なく言った。娘が気を悪くしても構わないと思った。

 「これから、そっちに行くから」

 自分に負けず劣らず、ぶっきらぼうな返答だった。亀岡は、妻の写真が飾られた仏壇を見やった。 

 「用件はなんだ、と聞いている」
 「電話じゃ言えない。とにかく、私たちの話を聞いてほしいの」

 あの男も一緒なのか、と胸の中で独りごちた。事故の後、副島一哉は毎週のように自らの過ちを詫(わ)びる手紙を送ってきていた。が、理恵だけならともかく、良江を死に追いやった人間を家に上げる気はなかった。

 「大事な話か?」 
 「じゃなかったら、電話なんかしない」 

 愚問だったな、と亀岡は小鼻を搔(か)いた。少し考えてから駅前の洋食屋を指定した。味は並みだが、座席は広く取られている。狭い場所で二人と顔をつき合わせるのは避けたかった。
 休日の日課としている床の拭き掃除を済ませ、オーバーを羽織った。店に着いたのは、約束の十分前だった。理恵と副島一哉は、奥のテーブルに並んで座っていた。

 「早かったな」 

 亀岡は娘に言った。口を開いたのは男の方だった。

 「こっちからお願いして、来てもらったんです。時間は守ります」

 薄い肩を張って副島が言った。大学生が就職活動で着るような紺のスーツ姿。髪は短く切り整えられている。

 「甘ったれた言いぐさだな」

 男の顔を見ずに亀岡は言った。

 「誰に会うとか、どちらから言い出したとかは関係ない。まともな大人なら、何があろうと時間は守るものだ」

 「――そうですね、すいません」

 副島が頭を下げた。理恵は、さっきから押し黙ったまま恋人の横顔を見つめている。どうやら、会話の主導権は男に託しているらしい。
 近くに来た店員を呼び止め、コーヒーを頼んだ。そこで初めて、隣のテーブルにいる女の客に気づいた。妻が事故に遭った日、病院で自分を出迎えてくれた棚橋という編集者だった。

 「今日は、お父さんにお願いがあって来ました。理恵さんを俺にください」

 一語一語に力を込めて、青年が告げた。芝居がかった台詞(せりふ)だな、と亀岡は鼻白んだ。

 「何かと思ったら、わざわざそんなことを言いに来たのか」
 「ちょっと、どういう意味よ、そんなことって」

 理恵が初めて口を挟んだ。亀岡は、女好きのしそうな副島の生っ白い顔を見返した。

 「今の言葉には、二つ間違いがある。私は、君からお父さんと呼ばれる筋合いはない。二人の関係がどうであろうと、そのことはこれからも変わらない」
 「あの……お気持ちは、俺にもよく分かります」

 娘の恋人が言った。亀岡は、未知の生き物にでも出くわしたかのように目を見開いた。この男は今、こっちの気持ちが分かると言ったのか――。

 「こんなこと、お願いできる立場だとは思っていません。だって、俺のせいで、お母さんがあんなことになったんですから」
 「女房を、良江を気安く呼ぶな」

 頭に、かっと血が上った。隣のテーブルの棚橋由佳が、気づかわしげな目をしてこちらを見た。

 「私にとって、良江は掛け替えのない女だった。これ以上、あの事故の責任を追及する気はない。だが、それは君を許したということではない。いまさら何をしたところで、妻は戻ってはこない。ただそれだけの理由だ」
 「もう、いいでしょう。一哉は十分に苦しんだ。お願いだから、許してあげて」

 テーブルの下で、理恵が恋人の手を握った。あの大雨の日、車のハンドルにかかっていたであろう右の手を。

 「間違いがもうひとつある、と言った」

 女の店員がコーヒーを運んできた。亀岡はそれをひと口すすった。

 「君は私に、理恵をくださいと言って頭を下げた。彼女はもう二十二だ。婚姻に親権者の同意は必要ない」 
 「でも俺たち、お父……亀岡さんに認めてもらいたいんです。あなたに黙って籍を入れるなんて、どうしてもできなくて」
 「結婚を許せば、君自身の罪が消えるとでも思ったか」
 「やめて、もう」 

 理恵が甲高い声を上げた。目尻から涙が伝い、頰に筋を作った。亀岡は続けた。

 「重荷を下ろさなければ一緒になれないくらいなら、結婚なんてやめた方がいい。誰に何を言われようと一人の女と添い遂げる。大切なのは、その思いじゃないのか」
 「一哉、行こう」 

 鼻をぐすぐすいわせたまま、理恵が立ち上がった。ひょろ長の青年は、まだ何か言いたげな顔でこちらを見ていた。

 「これでわかったでしょう。この人は、自分一人が悲しいつもりでいるの。いつだってそうだった。一緒に暮らしている私やお母さんの気持ちなんて、これっぽっちも考えてくれたことはなかった」

 理恵が伝票を摑(つか)もうとした。亀岡は、それを手元に引き寄せた。娘は財布の中から千円札を抜き取り、卓の隅に置いた。涙の浮かんだ目で隣のテーブルにいる編集者を見やったが、結局何も言わずに男と店を出ていった。 

 「一緒に行かなくて、いいんですか」 

 一部始終を傍観していた棚橋由佳に、亀岡は尋ねた。彼女は静かに首を振った。

 「私はお嬢さんから、ここにいてほしいと頼まれただけですから」
 「怒りに駆られた父親が、恋人を殴りつけるとでも?」

 由佳は、くすりと笑った。亀岡は自分の前の席を指さした。水のグラスだけを持って、彼女は移ってきた。 

 「大変ですね、編集者という仕事も。こんなことにまで、つき合わされるなんて」
 「普通は、ここまではしません。でも理恵さんは私にとって、特別な作家さんなので」
 「特別な作家、ですか」

 由佳は頷(うなず)いた。

 「五年前、何もかもがうまくいかなくて仕事を投げ出しそうになった時期がありました。そんな時に、彼女が私の前に現れたんです。もしも理恵さんと出会えなかったら、私はきっと子供の頃からの夢を手放していたと思います」
 「そうですか。あの子も、人の役に立ったんですね」

 亀岡は、冷めかけたコーヒーに砂糖を加えた。

 「お嬢さんの小説を、ご覧になっては?」
 「妻は熱心に読んでいたようですが、私は。運動部気質というんでしょうか、若い頃から文芸の世界には縁遠かったもので。それに――」
 「娘が書いた文章を読むのが、照れ臭かった」
 「まあ、そんなところです」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 「あなたには、お恥ずかしいところをお見せしました。ですが、他の方を巻き込んだ時点で、彼らの腹が据わっていないことは明らかでしょう。そもそも、本当にお互いのことを思い合っているのなら、周りの人間など気にする必要はないのですから」
 「そうですね。今日のことについては、私は亀岡さんのご意見に賛成です」

 ほう、と亀岡は編集者を見返した。

 「でも、理恵さんがどうしてそこまでお父さんにこだわるのかは、分かったような気がします」
 「と、言うと」

 由佳は微笑(ほほえ)んだだけで、その問いには答えなかった。

 「小説の方はパートナーとの二人三脚ですが、最近ではエッセーも連載しているんです。二十歳過ぎの女の子の、生の感情が伝わってくるって、とても評判がいいんですよ」

 そう言って、バッグから一冊の雑誌を取り出した。亀岡がこれまで手に取ったこともない、若い女性向けのファッション誌だった。

 「ぜひ一度、目を通してください。お父さんの前で、彼女がどれだけ多くの言葉をためこんでいるかが、きっとご理解いただけると思います」

 真新しい雑誌を差し出し、編集者は言った。

お店

6 

 控えめなノックの音がした。執務室に入って来たのは鹿間さゆりだった。両手に抱えているのは、書類のぎっしり詰まった茶箱である。年末の休診が一週間後に迫り、駆け込みの稟議や要検討文書が一挙に増えていた。

 「今日も大量だな」 
 「明日は、この倍になると思います。会議も続いていますし、急ぎでないものは来年回しにされても」 
 「心配は無用。今夜と三十一日が当直だから、そこで全部読むよ」
 「大丈夫ですか。ここのところ、毎日遅くまで残っていらっしゃいますけど」

 さゆりが気づかわしげに言った。亀岡の昇進後、次長のポストはずっと空いたままになっている。どうやら人事部は、浦川の退職を体の良い人員削減と考えているらしい。必然的に、業務のしわ寄せは新室長が一人で背負い込むことになった。

 「家に帰るよりは、ここに泊まる方がずっと楽なんだ。晩飯の支度をせずに済むし、いつだって人けがあるのがいい。まあ、そうは言っても事件や事故だけは願い下げだがね」

 最初、大晦日(おおみそか)の当直に当たっていたのは経理課長だった。亀岡は、自分から申し出て当番を交代してやった。一人きりで正月を迎えるのは、あまりにわびしいと思った。

 「あの室長、それは?」

 部下が、来客用の丸テーブルに放り出してあった雑誌を指さした。若い女のモデルが二人、表紙の中で微笑んでいる。亀岡は、ばつが悪そうに頭を搔いた。

 「ああ、『ラフィン』の来月号だ。発売はあさってだそうだが、早刷りをもらってね。よく知っている人間が、原稿を書いているもので」

 そう答えてから、別に嘘じゃないよな、と胸の中でつぶやいた。

 「そうですか。この雑誌、すごい人気なんですよ。事務室でも、いつも回し読みされているんです」
 「よかったら持っていかないか。私は昼休みに読んだから」
 「嬉(うれ)しい、ありがとうございます」

 ファッション誌を受け取り、さゆりは部屋を出ていった。娘が物書きをしていることは、職場の誰にも話していない。亀岡は、ほっと息をついた。
 理恵のコラムは、ちょうど真ん中のページに掲載されていた。タイトルは「和沙ミュウのゆらゆら日記」。文字数にすると、四百字詰め原稿用紙五枚といったところだろうか。ふだんの生活における何気ない発見や人との出会い、最近観(み)た映画の感想などが記されている。
 自分の想像に反して、娘の文章はしっかりとまとまっていた。出来事の描写は簡潔で、ほぼ五行間隔で改行がなされている。終盤の主張にやや甘ったるい部分があるが、それでも彼女なりの意見は伝わってくる。
 思えば小学校の作文以来、理恵の書いたものを目にしたことはなかった。もっともそれを言うのなら、娘と面と向かって話したのも、ずいぶん前のことになる。
 いつの頃からか、理恵は自分を避けるようになっていた。何か用がある場合は、母親を仲立ちにしてそれを伝えてきた。父と娘なんて、もともとそんなものなのだろう、と深く気にも留めなかった。

 ――私やお母さんの気持ちなんて、これっぽっちも考えてくれたことはなかった――

 洋食屋のテーブル越しに見た、娘の大人びた顔を亀岡は思い出した。ひょっとしたら、理恵はずっと父親と話をしたいと思っていたのかもしれない。彼女が無視したのではなく、こちらが聞こうとしなかっただけではなかったのか――。
 書類の山は思った以上に手強(てごわ)かった。気がつくと、時計の針は午後七時を差していた。亀岡は決算見込みの資料を持って当直室へ向かった。
 事務長当直は、課長級以上の職員に毎月一度の割合で回ってくる。夜間における不測の事態に備え、統括責任者として待機するのである。当直室は旧館一階にあり、寝具の他に小型のテレビやDVDプレーヤーが置かれている。ひとつ下のフロアが遺体の安置所になっているため、小心な管理職の中には夜通し明かりを消さない者もいるという。
 亀岡は、持ち込んだ書類を部屋の机の上に広げた。院内のコンビニで買ったサンドイッチをつまみながら、決算の貸借対照表に目を落とす。突出しているのは、やはり人件費である。医療事務室は三、四十代の中堅職員が多いため、他部門と比べても支給額がかさむのだ。考えられる対応策は、残業の抑制と時短労働者の活用。言葉にすれば簡単だが、実はこれが一番難しい。
 細かな数字とにらめっこをしているうちに、気がつけば十一時を回っていた。亀岡は、固まった肩を揉(も)みほぐした。外の冷たい空気に当たろうと、椅子から立ち上がった。と、その時、部屋の内線電話が鳴った。

 「当直室、亀岡です」 

 落ち着いた声で告げて、相手の返事を待った。深夜の病院で最も多いトラブルは、入院患者を狙った盗難である。警備室からの報告に備え、亀岡は耳を澄ませた。ところが、返ってきたのは今にも消え入りそうな若い女の声だった。

 「……脳神経外科の、高木です」

 ふわふわとした、まるで夢を見ているような口調だった。脳外にそんな名前の医師がいただろうか、と亀岡は考えた。

 「病棟で、何かありましたか」
 「いえ、そうじゃ」

 電話の主は、やっとのことでそう告げた。続いて聞こえたのは、あくびを嚙み殺したような吐息だった。酔っているのかもしれない、と思った。

 「先生、しっかりしてください。今、どちらにいらっしゃるんですか」
 「外科の……講師室。お願い、すぐに――」

 電話口から、かすかに男の低い声が聞こえた。次の刹那(せつな)、ガチャンと音を立て通話が切られた。亀岡は手の中の受話器を見つめた。

 ――どういうことだ、いったい? ――

 しばらく逡巡(しゅんじゅん)してから、それを元に戻した。もしも、今の電話が何らかのアクシデントを知らせるものであるのなら、すぐに警備室に連絡する必要がある。だが、それにしては彼女の声に切迫した様子は見られなかった。おそらくは、部屋で酒盛りをしていた医者の一人が、酔った勢いで悪戯(いたずら)をしたのだろう。そう考えれば辻褄(つじつま)は合う。
 自分自身を納得させるため、外科の講師室に電話を入れてみた。呼び出し音が鳴るだけで、誰も出る気配がない。亀岡は、ため息をついた。鍵束と緊急呼び出し用のスマホを持って、三階へと階段を上った。 
 外科の講師室は、細長い廊下のつき当たりにあった。広さは十二畳ほどで、四人の専任講師が共同で使用している。電気の消えた部屋のドアを、亀岡はノックした。

 「事務の亀岡です。どなたかいらっしゃいませんか」

 当然のごとく応答はなかった。扉もしっかりロックされている。引き返そうかと考えたが、思い直して鍵束を取り出した。施錠を解く間際、暗闇の中で人が動く気配がした。

 「誰だ、そこで何をしている」

 威嚇したつもりが声が震えた。最後に合気道の稽古をしたのは、もう二十年も前のことになる。あれから腹回りにはたっぷりと脂肪がつき、二の腕の筋肉もとうの昔に消え失せていた。だが、このフロアに他に人のいる様子はない。助けを呼びに行っている間に、闖入者(ちんにゅうしゃ)は逃げ去ってしまうことだろう。
 講師室のドアを、そっと開けた。ブラインドが降ろされているため、部屋の中は真っ暗だった。亀岡は、そろりと室内に滑り込んだ。暴漢の襲撃に備え、左腕を直角に折り曲げ顔と胸とをカバーした。そうして、右手で壁にある電灯のスイッチを捜した。

 「あっ、ちょっと待って」 

 明かりをつける寸前、男が声を上げた。さっきの電話で聞いた低い掠(かす)れ声だった。構わずに全てのスイッチを押し上げた。闇が消え、本棚やロッカーに囲まれた医師の研究室が浮かび上がった。

 「――今中先生?」

 最初に目に飛び込んだのは、壁際のソファの前で立ち尽くしている今中陽一の姿だった。上半身裸で、脱ぎかけのズボンのベルトがだらしなく垂れ下がっている。相手が夜盗でないとわかって、亀岡はようやく胸を撫(な)で下ろした。

 「こんな時間に、いったい何をしているんですか」

 三十四歳の専任講師は、子供っぽさを感じさせる奥二重の目をしばたたかせた。亀岡は後ろのソファに横たわっている人影に気づいた。自分が踏み込む直前に、慌てて隠そうとしたのだろう。頭からつま先まで白いシーツに覆われている。 

 「それは?」
 「いえ、なんでもないんです。僕はただ、仮眠を取ろうとしていただけで」

 亀岡は、傍らのテーブルに目をやった。研修医が着るライトブルーの白衣が、乱雑に丸め置かれている。横にあるのは、コーヒーが半分残った素焼きのカップだった。

 「中を、検(あらた)めさせてもらいます」 

 相手が何か言おうとした。取り合わずに大判のシーツをめくった。そこにいたのは、小柄な若い女だった。クリーム色のスリップに、地味な紺のスカート。脱がされたブラウスは背中の下に押し込められていた。化粧っけのない唇が半分開き、小さな寝息が聞こえている。

 「先生、起きてください」 

 そう声をかけて、剥(む)き出しになっている二の腕を揺すぶってみた。女は全く目覚める気配がなかった。 

 「あなたは、彼女に何をしたんですか」 

 亀岡は今中を睨みつけた。男の突き出た頰骨と細い顎(あご)は、狡猾(こうかつ)な狐(きつね)を連想させた。医師は作り笑いを浮かべ首を振った。

 「誤解しないでください。当直続きの研修医が眠り込んでしまっただけです。もう少ししたら、宿直室に運ぼうと――」
 「いい加減にしなさい」 

 亀岡は声を荒らげた。元々は気弱なたちなのだろう。ごくりと唾を飲み込んで、今中は黙った。

 「私が来た時、この部屋の明かりは消えていたし、ドアにも鍵がかけられていた。それに、あなたのその格好だ。ここで何が起きようとしたのか、誰にだって想像がつくことです」

 目の端で男を捉えながら、亀岡は一番近くの電話機に歩み寄った。

 「彼女を、このままにしてはおけません。警備員に来てもらいます」
 「冗談じゃない。そんなことをされたら、僕は――」

 悲鳴のような絶叫とともに、半裸の医師が飛びかかってきた。亀岡はさっと体をかわすと、空いている右手で男の右腕を捩(ねじ)り上げた。今中陽一の喉から、か細いうめき声が漏れた。亀岡は、外科の講師を怒鳴りつけた。

 「無抵抗の者を乱暴しようなんて、あんた、それでも医者なのか」
 「勘弁してください。ほんの出来心だったんです。もう二度と、こんなことはしません。だから、どうか」

 涙声になりながら今中が懇願した。亀岡は男から手を離した。少なくとも、これ以上歯向かってくる気配はなかった。

 「服を着なさい」

 貧弱な肩を震わせている今中に、亀岡は言った。受話器の向こうから、警備員の応答が返ってきた。

7

 高木久美子が目を覚ましたのは、午前三時過ぎだった。連絡を受け、亀岡は四階のナースステーションに上がった。この日の夜勤に当たっていた看護師長とは、昔からの顔見知りだった。わけを話して、空いていた個室のベッドを借りたのである。

 「あの……私」

 まだ頭がぼうっとしているのか、焦点の定まらない目で研修医は言った。体を起こそうとするのを、亀岡は片手で制した。

 「大丈夫、ここは病棟です。警備の者に手を借りて、あなたを運びました」

 整った眉が、わずかに曇った。白い天井を見つめ、久美子は尋ねた。

 「――今中先生は?」
 「今は別の部屋にいます。朝になったら、しかるべく事情聴取が行われることになるでしょう」
 「そうですか」

 亀岡は、ベッドの青白い顔を見下ろした。高木久美子――鹿児島の青南大医学部をこの春に卒業し、研修医として帝都大学病院に入った。脳神経外科に配属されたのは先月のこと。その指導医師が今中だった。

 「当直の事務長として、私はあの部屋で何があったのか把握しなければなりません。話していただけますか」

 亀岡は言った。久美子は、ふっと自嘲的な笑いを浮かべた。

 「私の注意が足りなかったんです。あの先生には気をつけるよう、看護師さんに言われていたのに」

 今中から夜の居残りを言い渡されたのは、昨日の夕方だった。急変する可能性の高い患者がおり、その対処法を見せたいから、という説明だった。脳外の研修医は他に五人いたけれど、指名されたのは自分だけだった。本音を言えば、ここのところ当直勤務続きで疲れがたまっていた。が、もちろん断ることはできなかった。
 今中陽一が、女の研修医にセクハラまがいの行為をしているという噂(うわさ)は、親しくなった看護師から聞いていた。そう言われてみると、病棟や研究室で自分を見る目が、どことなく粘ついているように感じられた。だから、この夜も十分注意していたつもりだった。

 「昨日は、今中先生の指示で症例についてのレポートを書いていました。午後十一時過ぎだったと思います。先生が、部屋のサイフォンからコーヒーをいれてくれました。自分は一時間ほど病棟を回ってくるから、それまでに仕上げておくように、と言い残して部屋を出ていきました」

 久美子は、指導係が注いでくれたコーヒーを飲んだ。ところが、五分もしないうちに激しい眠気に襲われた。急に身体が重くなり、目を開いていられなくなった。薄れていく意識の中で、廊下を戻ってくる足音を聞いた。コーヒーの中に何かが入っていたんだ、と気づいた。
 自分が使っていた机には、内線の電話機が置かれていた。天板につっ伏しながらも、どうにか受話器を取り短縮ダイヤルのどれかを押した。後のことは全く覚えていない。

 「酷(ひど)い話だ」

 亀岡は娘とさほど年の変わらない研修医を見つめた。ようやく感覚が戻ってきたのか、毛布の下で身体が小刻みに震えているのが分かった。

 「あなたから電話を受けて、私は三階に上がりました。時間にすれば、せいぜい六、七分というところだったと思います。部屋に入った時には、二人ともまだ服を着ていた。だから、その……心配はいりません」

 こちらの言わんとするところを察して、医者の卵が頷(うなず)いた。

 「ありがとうございます」 

 細い声で告げると、高木久美子は毛布をかぶった。ベッドの上で、彼女は嗚咽(おえつ)した。

 「朝になったら、別の人間に今の話を聞かれると思います」

 亀岡は言った。

 「フロアの看護師に、ときどき様子を見に来てもらうよう頼んでおきました。それまでは、ゆっくり休んでください」

 当直室に戻っても、亀岡の憤りは収まらなかった。警備室に確かめると、今中は自分の携帯でどこかに連絡を取った以外は、部屋の隅でおとなしく座っているという。
 医療従事者が事件を起こした場合、最高責任者である院長に報告した上で警察に通報することになっている。亀岡は部屋の掛け時計を見上げた。船村院長が登院するのは八時過ぎだが、その前に自宅に電話を入れるつもりだった。他人の命を預かる立場の医師が、こともあろうに院内で研修医を襲い、自らの性欲を満たそうとしたのである。
 亀岡は、狐のような今中陽一の顔を頭に浮かべた。思いを遂げた後、男は何事もなかったような顔をして患者と接するつもりだったのだろうか。

 ――先生が、部屋のサイフォンからコーヒーをいれてくれました――

 ふと、高木久美子の言葉が蘇(よみがえ)った。それが事実であれば、コーヒー沸かしやカップの残りから薬剤が検出されるはずである。おそらく、使われたのはこの病院の睡眠導入剤だろう。そしてそれは、今中の卑劣な企(たくら)みを明らかにする、重要な証拠となるに違いない。
 亀岡は鍵の束を取った。階段を使い、再び三階の外科講師室に上がった。警備員に今中の身柄を引き渡した後、自分で施錠して部屋を出たのである。
 室内に入り、明かりをつけた。机の書類もソファの上のシーツも、数時間前と少しも変わっていない。だが、テーブルの上にあったコーヒーカップが消えている。
 亀岡はロッカーの裏に回ってみた。食器棚は見つかったが、あの素焼きのカップは納められていない。今中が使ったというサイフォンも、どこにも見当たらなかった。

 「いったい、誰が――」

 最初にここに来た時、講師室の外に人のいる気配はなかった。患者の急変に備え、当直の医師は新棟の詰め所で待機するのが通常である。だとしたら、こんな真夜中に誰が部屋に入ったというのか。
 奴(やつ)が手を回したんだ、と亀岡は確信した。自らの所業を隠蔽するため、今中は警備室から電話をかけた。腹心の人間を使い、薬剤盗用の証拠となるサイフォンとコーヒーカップを処分させたのだ。外科の勤務者なら、合鍵のありかは知っているはずだ。
 男の奸知(かんち)に亀岡は舌を巻いた。と同時に、自分の思慮の浅さを悔やんだ。当人だけでなく、この部屋にも見張りをつけておくべきだった。まったく、なんという役立たずだろう。そんな肝心なことに、頭が回らないなんて――。
 もっとも、今中が何をしたところで、罪から逃れるのは不可能だった。被害者である高木久美子の証言があるし、院内薬の持ち出しは残量調査をすれば分かることである。この期に及んでの悪あがきは、かえって自分の首を絞めるだけだ。
 亀岡は、まんじりともせずに夜が明けるのを待った。当直室の電話が鳴ったのは、五時を少し回ったところだった。 

 「船村だが」 

 こちらが名乗る前に病院長の嗄(しわが)れた声が聞こえた。なんでこんな時間に、と思いながら亀岡は居ずまいを正した。

 「当直の亀岡です。今、ご自宅ですか」
 「いや、院長室だ。君に話がある。すぐに来てもらいたい」

 聞き返す間もなく通話は切れた。亀岡は、院長室に向かった。

 「失礼します、亀岡です」
 「ああ、入りなさい」

 船村武弘は、スーツ姿で来客用の革張りのソファに腰掛けていた。苦虫を噛(か)み潰したような顔で、前の椅子を指さした。

 「前置きは抜きだ。昨夜の出来事について、我々の意見をまとめておきたい」
 「院長はそれを、どこでお知りになったのですか」
 「私は、この病院の責任者だ。情報は絶えず入ってくる」

 そう言って、気位の高さを感じさせる鷲鼻(わしばな)を撫(な)でた。船村は心臓血管外科の教授でもある。今中が連絡を取った相手は病院長だったのだ、と亀岡は悟った。同じ外科の後進に泣きつかれ、こんな明け方に病院に駆けつけたのだろう。

 「ついさっき、今中先生本人をここに呼んで事情を聴いた。君が主張している研修医への性的接触について、彼はきっぱりと否定した。全ては、夜間事務長の早とちりだと言っている」
 「姑息(こそく)な言い逃れです。あの男は指導者としての立場を利用して、高木久美子を陥れようとしました。何より許せないのは、医師である彼が薬を使って彼女の自由を奪ったことです」
 「それを証明する根拠があるのかね」

 言葉を刻みつけるように、船村が言った。亀岡は育ちすぎた瓜のような顔を見返した。コーヒーカップとサイフォンを始末するよう何者かに指示したのは、今中ではなくこの男だったのか――。

 「連日の研修で疲弊した若い医師が、レポート作成の途中でうたた寝をしてしまった。十分、考えられることだろう」
 「私が講師室に入ったのは、昨夜十一時過ぎでした。彼女は、半裸の状態でソファに寝かされていました。それから今朝の三時まで、一度も目覚めなかった。それがうたた寝だったなどと、本気でおっしゃっているのですか」 
 「私は、君のように先入観にとらわれずに、昨日の出来事を検証しているだけだ」 
 「警備室に電話をしようとした私に、今中はこう言いました。『勘弁してください。ほんの出来心だったんです』と。このことが、彼の犯罪行為を裏づける何よりの証拠です」
 「君は、私の部下に暴力を振るったそうだね」

 眼鏡の奥の目が鋭く光った。船村は、ゆったりと座り直した。

 「いきなり腕を捩(ねじ)り上げられ、今中君は逃れたい一心で、ありもしないことを口走った。誤解されるような状況を作ったのは彼自身の責任だが、かといって君の行為は許されるものではない」
 「――院長は、あくまで今回の件を闇に葬るお考えなのですね」
 「何を言う。たかが事務屋が、言葉を慎みたまえ」

 野太い声で船村が恫喝(どうかつ)した。二人の男は、黙って視線を戦わせた。

 「私は、部下の潔白を確信している。無実の青年を誹謗(ひぼう)することなど、断じて認めない」
 「分かりました。あなたが事件を隠蔽(いんぺい)する気なら、私にも考えがあります。この病院に勤める一人として、今中医師を告発します」
 「君は、聖人君子にでもなったつもりなのか?」

 船村が吐き捨てた。 

 「医師による強姦(ごうかん)未遂の噂(うわさ)が広まれば、帝都大学病院の信用は地に落ちる。一人の人間の軽率な行動が、何千という医療従事者の首を絞めることになるのだ」
 「それだけのことを、彼はしてしまったのです」

 亀岡は立ち上がった。 病院のトップに一礼をし、ドアに向かった。

 「待て、話はまだ――」
 「私は信じています。我々の病院を守るのは、嘘ではなく真実であるということを」

パソコンを置いたつくえ

 院長命令により、今中陽一は警備室から解放された。一方、事件の被害者である高木久美子は、外科の教室員に抱えられるようにして病院を後にした。身体の衰弱を考慮し一週間の休養を認める、というのが表向きの理由だった。
 亀岡は、無人の医療事務室でパソコンに向かっていた。記憶が鮮明なうちに、事件の一部始終を記録しておく必要があった。
 始業時間の前に、打ち出したばかりの事情報告書を持って形成外科に行った。島谷香織は、ちょうど外来に向かうところだった。

 「先生にお話したいことがあります」

 人けのない廊下で、彼女に昨日の事件のあらましを伝えた。帝都大医学部でただ一人の女性助教授は、院内に設置されたハラスメント委員会の代表者でもあった。

 「そうですか、外科の今中先生が」

 男の評判は知っていたのだろう。香織は、わずかに口元を歪(ゆが)めただけだった。

 「詳細は、ここに記してあります。高木君が出てきたら、私が付き添って警察に被害届を提出させます。その前に、委員会での懲罰審議をお願いします」

 「もちろんです。指導教官が研修医を襲うなんて、医師としても同じ女性としても絶対に許せません。この件は、一両日中に委員と対応を検討します」

 助教授は、きっぱりと言った。ハラスメント委員会は十二名の教職員で構成されている。看護部長や事務系の女性課長も名を連ねており、必ずや高木久美子の力になってくれるはずである。
 事務室に戻ると、既におおかたの職員が持ち場についていた。亀岡は固まった肩を揉(も)みほぐした。気は張っているものの、さすがにこの年になると徹夜はこたえる。机の上は、処理待ちの書類で溢(あふ)れ返っていた。
 冷たい水で何度も顔を洗い、濃いコーヒーをがぶ飲みして、どうにか一日を終えた。夕方、事務室の前を通りかかった今中陽一と目が合った。男は悪びれたふうもなく、薄笑いを浮かべて歩き去っていった。
 島谷香織から電話が入ったのは、翌日の午後だった。彼女の言葉を聞いて、亀岡は自分の耳を疑った。

 「今中講師に関する調査を中止します」
 「待ってください、いったいどうして……」
 「昨晩、高木久美子さんと連絡を取りました。何をおいても当人から事情を聴く必要があると判断したものですから」
 「ええ、それは当然です」
 「指導医師のセクハラ行為について、高木さんは否定しました。『自分は、夜間の研修中に講師室のソファで眠り込んでしまった。今中先生には、性的嫌がらせなど一切されていない』ということです」
 「馬鹿な、私はこの目で見たんです。明かりの消えた部屋に、上半身裸でいたあの男を」
 「それについては内科の進藤先生を通じて、今中先生ご本人に確認しました」

 香織は、ハラスメント委員会のメンバーである男性医師の名を挙げた。

 「講師室に戻ると研修医が眠っていた。自分は、汗をかいた着衣を替えようと思った。彼女を起こすのも可哀想なので、明かりを消してから服を脱いだ、と」
 「くだらない言い逃れです。あの後、目を覚ました彼女は私に言いました。コーヒーを飲んだら急に眠くなった、中に何かが入れられていたようだ、って」
 「あの時は、気持ちが動転していたのだと思う――それが高木さんの回答でした。大事な研修の最中に居眠りしてしまったことを隠したくて、あなたに作り話をした。だから、今回の騒動の原因は全て自分にある。彼女は、そう言っていました」
 「島谷先生は、彼女の言葉を信じているのですか」

 亀岡は、助教授に質(ただ)した。 

 「あなただって、本当は気づいているのではありませんか? 病院の体面を守りたい人間が、弱い立場の研修医に圧力をかけて口を封じさせたのだと」
 「……ともかく、当事者である高木久美子が被害を訴えていない以上、委員会はどうすることもできないんです。どうかご理解ください」

 沈鬱(ちんうつ)な声で島谷香織は告げた。形成外科は、院内で最大の医師数を抱える外科の傘下にある。「力」が加わったのは研修医一人ではなかったのだ、と亀岡は悟った。

 「分かりました、もう結構です。あなたがたが手を打てないのなら、私がやるまでです」

 亀岡は言った。受話器の向こうで、女性医師が息を吐いた。

 「これ以上、状況を荒だてたりしたら、病院当局を敵に回すことになります。亀岡さんご自身が、この病院にいられなくなるかもしれないんですよ」
 「そんなことは承知しています。真実から目を背けてまで、自分の地位を守りたいとは思いません」

 通話を切り、教職員のデータベースで高木久美子の住所を調べた。彼女は病院の近くに部屋を借りていた。電話の登録はなかった。四時に入っていた設備課との打ち合わせを明日に延期してもらい、亀岡は席を立った。
 春川マンションは、むしろアパートと呼ぶのが相応(ふさわ)しいようなモルタル造りの建物だった。亀岡は、ところどころ赤錆(さび)の浮いた外階段を上がった。研修医の住まいは、二階のとっつきだった。

 「高木さん、亀岡です」

 薄いドアの前で、そう声をかけた。ややあって扉が細く開いた。高木久美子が、病人のように青白い顔をのぞかせた。

 「突然で申し訳ない。あなたに話があって来ました。少しでいいから時間をもらえませんか」
 「室長さんには、ご迷惑をおかけしました。ですが、もうお話しすることはありませんので」

 細い声で告げて、医者の卵は頭(こうべ)を垂れた。ドアを閉ざされる前に、亀岡は言った。

 「何を言っているんです。迷惑をかけられたのは、あなたの方でしょう。あれほど酷(ひど)い目に遭わされた人が、どうして謝らなくてはならないんですか」
 「私は、何も被害を受けていません。病棟で言ったことは、全て自分の勘違いだったんです」
 「そう答えるようにと、病院長から命じられたんですね」 

 高木久美子が、びくっと肩を震わせた。おずおずと辺りを見回してから、研修医は亀岡を部屋の中に入れた。六畳の和室に水場がついただけの簡素な間取り。目に入るのは、最小限の家具とクローゼットのみだった。ふと、理恵の部屋もこんなに閑散としているのだろうか、と考えた。

 「今、お茶をいれますから」
 「結構です。そこに座ってください」

 窓際の机には、分厚い医学書が積み上げられていた。彼女を椅子に座らせ、亀岡は畳にあぐらをかいた。

 「一緒に、警察に行きましょう」

 亀岡は言った。

 「あの男は自分の立場を利用して、あなたを辱めようとした。これは、れっきとした犯罪です。そんな卑劣な人間を野放しにして、いいはずがありません」
 「亀岡さんのおっしゃることは正論だと分かっています。でも、それで私はどうなるんですか」

 高木久美子が顔を上げた。亀岡は、彼女の丸みを帯びた頰(ほお)を見た。

 「一研修医が指導医師を告発したとなれば、大変な騒動が起こります。もちろん、私は病院にいられなくなる。それで、自分になんの得があるというんです」
 「確かに、あなたにとっては辛(つら)い選択になるかもしれません。でも、どうか考えてください。今ここで見逃したなら、今中陽一はいつかまた同じことを繰り返す。それを食い止められるのは、あなただけなんです」
 「私は、自分が可愛いんです」

 久美子がぽつりと言った。

 「地方の大学を出た医学生にとって、帝都大学病院は憧れの研修先なんです。私はここで最先端の医療技術を学んで、二年後にはアメリカに留学をするつもりです。あんなことぐらいで、将来の計画を棒に振るつもりはありません」
 「他の誰かが自分と同じ目に遭ってもかまわない、と言うのですか」
 「医事の室長ならご存じでしょう。医者は、みんな計算高いんです」

 真っ直(す)ぐこちらの顔を見て、高木久美子が言った。亀岡の目には、精いっぱい虚勢を張っているようにしか映らなかった。 

 「私の気持ちはお伝えしました。どうぞ、お引き取りください」
 「分かりました。今日のところは、失礼します」

 亀岡は立ち上がった。

 「しかし、私はあきらめません。あなたならきっと、嘘や圧力に立ち向かってくれると信じています」
 「それが、亀岡さんにとっての正義なんですね」

 高木久美子が言った。

 「でも、あなたの正しさが、全ての人に通用するわけではないんです」

 コートの背中を丸めて亀岡は事務室に戻った。師走の寒風よりも、胸に宿った虚(むな)しさが体を縮めさせた。すぐに仕事に取りかかる気にもなれず、パソコンで病院のホームページを開いた。最新情報の欄に人事部が出した募集広告があった。医療事務の経験者を一名、管理職待遇で迎えるというものである。

 ――もう処払いに着手したか――

 船村病院長の手回しの早さに、亀岡は舌を巻いた。この中途採用は、空いている次長のポストを埋めるためのものではない。事件の目撃者である室長を追放し、新たなイエスマンをそこに据えようというのだ。
 もっとも、自分にはどうすることもできなかった。被害者である高木久美子が訴えを起こさない限り、今中陽一の暴行未遂が立件されることはない。そう、あの男はもはや安全な高みに逃げ込んでしまったのだ。
 亀岡はパソコンを閉じた。瞼(まぶた)の裏に浮かんだのは、船村武弘ののっぺりとした顔だった。強大な権力の前では真実などなんの意味も持たない――そう思うと、途方もない無力感に襲われた。
 夕方五時を知らせる<夕焼け小焼け>が聞こえてきた。間延びした童謡のメロディーは 五十男の胸をさらに締めつけた。亀岡は、似合わないため息をついた。
 机の上には、処理待ちの書類箱が三段重ねに積み上げられていた。 

<下>に続く

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