朝日新聞Reライフプロジェクトと文芸社が創設した「Reライフ文学賞」の第2回受賞作から、Reライフ読者賞の「最後の噓(うそ)」(東京都・永田俊也さん)を、上・中・下の3回にわたってお届けします。Reライフ読者会議のメンバーが選考委員となって選んだ作品です。今回は<下>です。

9
三が日が明け、病院はいつも通り動き始めた。暖かな正月だったため流感の患者はそれほど多くない。新年の挨拶(あいさつ)もそこそこに、亀岡は積み残した書類の処理に追われていた。
人事部では、自分の後釜に据える中途採用者の面接が進んでいた。噂(うわさ)では、大手病院の部課長クラスが何人も応募しているという。
今中陽一は、相変わらず我が物顔で院内をかっ歩していた。しかし開診から一週間が過ぎても、高木久美子の姿を院内で見かけることはなかった。おそらくは、このまま関連病院へでも出向させるつもりなのだろう。被害者と目撃者さえ放逐してしまえば、専任講師の所業は永久に秘匿される。帝都大学病院の名誉は守られるのである。
一月半ばに入り、亀岡は人事部から呼び出しを受けた。病院長の腰巾着である部長は、三月一日付の異動を内示した。行き先は湯布院のリハビリセンター、役職は事務長である。赤字続きの出先部門を、あなたの力で建て直してほしい――男は笑みを浮かべてそう告げた。
部屋に戻った亀岡は、机の引き出しから退職願の用紙を取り出した。理不尽な左遷に対する抗議ではない。高木久美子のために何もしてやれなかった、己の腑甲斐(ふがい)なさが許せなかった。
専門学校への入学が決まった日に、父から贈られた万年筆を使って退職願に署名した。五十を過ぎての再就職は並大抵にはいかないだろうが、当座の蓄えはある。もうこれ以上、嘘で塗り固められた組織にしがみつくつもりはない。
捺印(なついん)した書類を引き出しに戻した。明日の朝一番で人事部に提出しようと決めた。そう考えただけで、肩の辺りがすっと軽くなったような気がした。
その晩、帰宅した亀岡は、妻の仏壇に退職の報告をした。遺影の中の良江は「しょうがないわね」とでも言いたげな顔をして自分を見ていた。
翌朝は、ふだんより早く目が覚めた。箪笥(たんす)の中から一番気にいっているスーツを選び、病院へ向かった。始業時間にはまだ間があるというのに、事務室にはほとんど全ての職員が顔を揃(そろ)えていた。
「これは驚いたな。みんな、今日はずいぶんと心がけがいいじゃないか」
亀岡は冗談めかして声をかけた。部下たちが一斉にこちらを見た。どの顔にも、不安げな表情が浮かんでいた。
「うん、どうした?」
「あの、室長はまだ、ご覧になっていないんですか」
口を開いたのは、鹿間さゆりだった。彼女は一冊の週刊誌を差し出した。大勢で回し読みをしたらしく、ページの端がめくれ返っている。亀岡は、見開きのスクープ記事に目を落とした。
――帝都大学病院医師がレイプ未遂――
えっ、という驚嘆が口をついて出た。白抜きの見出しとともに飛び込んできたのは、今中陽一の顔写真だった。名門大学病院の専任講師が、女性研修医に薬物を飲ませ強姦(ごうかん)しようとした事実が発覚。病院関係者によれば、この医師は以前から同様の行為を繰り返していたという。被害者であるA子さんは、近く警察に被害届を提出することになっている。
亀岡は、信じられない思いでページをめくった。告訴の意思を確認したためか、今中陽一の氏名や略歴がそのまま列挙されている。それに続くのは高木久美子の話だった。自分はその夜、指導医師である今中から居残りを命じられた。彼がいれてくれたコーヒーを飲んだところ、急に眠気が襲ってきた。意識を失う前に電話で助けを呼び、すんでのところで男の餌食になるのを免れた――。
内容は、あの日に聞いたこととそっくり同じだった。亀岡は、高木久美子の小さな顔を思い浮かべた。
研修医に男の告発を促したのは自分だ。けれど、彼女は頑(かたく)なにそれを拒んだ。帝都大学病院に盾突けば、医師としてのキャリアを棒に振ることになる。そんなことは絶対にできない……それが結論だったはずだ。なのに、いったいどうして?
自問は、電話の呼び出し音で途切れた。船村病院長の秘書からだった。至急部屋に来るように、とだけ告げて相手は通話を切った。
院長室に上がる前に、亀岡は正面玄関に回ってみた。タクシー乗り場の脇に、数名の男たちがたむろしているのが見えた。彼らが報道関係者であることは、巻かれた腕章で分かった。
船村は、ドアの前で待ち構えていた。デスクの上に、例の週刊誌が広げられている。男の血走った目に、自分の顔が映っていた。
「これは、貴様の仕業か」
問いかけというより、むしろ断定的な口調で病院のトップは言った。亀岡は首を振った。
「高木さんに、今中医師を告発するよう促したのは事実です。しかし、彼女はそれを拒否しました。こういう形で事を明るみに出すとは、考えてもいませんでした」
「そんな話を、私が信じるとでも思っているのか」
船村が、人差し指を突きつけた。
「たかが田舎娘に、こんな芸当ができるはずがなかろう。貴様が裏で糸を引いていることぐらい、こっちは分かっている」
「どう想像されようと、それは勝手です」
静かな声で、亀岡は言った。
「ですが、これだけはお伝えしておきます。私は、あなたがたが作り上げた偽りのシナリオにつき合う気はありません。彼女が訴えを起こすなら、事件を目撃した者として、法廷で真実を語るつもりです」
「君は、私を脅迫するつもりか」
呼称が貴様から君に格上げされた。亀岡は船村の色の悪い顔を見返した。この男にとって、自分はある種の脅威になっているのだ、と知った。
「どうして、そんな話になるのです。私はただ、やるべきことをやると言っているだけです」
「まだ分からんのか。君は、我々が築いてきた帝都大の名声を踏み躙(にじ)ろうとしているのだ。この病院を預かる者として、証言など断じて許すわけにはいかない」
「許可は必要ありません。私は国民の一人として、社会の定める正義に従うまでです」
吊(つ)り上がった目を見開き、船村が自分を睨(にら)みつけた。やがて男は吐き捨てた。
「どうやら、話すだけ無駄だったようだな」
「それについては、同感です」
院長に向かって亀岡は頭を下げた。きびすを返し、ドアの把手(とって)に手をかけた。船村の猛(たけ)り声が背中を追いかけてきた。
「今のうちに、せいぜい吠(ほ)え立てるがいい。この病院に、君の味方は一人もいないのだから」
外科の専任講師が関わった事件は、あっと言う間に院内に広まった。今中陽一は、ちょうど当直明けで院内にいた。船村は彼に、病院の裏口から退去するよう指示した。むろん百戦錬磨の記者たちは、そちらにもしっかり網を張っていた。パーカーのフードを目深に被(かぶ)った医師は、通用口を出たとたんにカメラの標的になった。西病棟の入院患者が廊下に鈴なりになって、その騒ぎを見物していた。
病院長が会見に応じたのは、その日の夕方だった。船村は、用意した報告書を朗々と読み上げた。今般の報道は事実無根であり、今中医師は潔白である。念のため薬剤の残量調査も行ったが、不正使用の痕跡は一切認められなかった――それが病院としての公式回答だった。

週刊誌の報道から三日目、騒動は思わぬ方向へ飛び火した。定例の病院運営会議で、レイプ未遂事件が緊急議題として取り上げられたのである。「調査チームを設置し、徹底的に事実を解明すべきである」と主張したのは、院内の第二勢力である内科の野呂文雄教授だった。
――帝都大学病院は、生まれ変わる時期に来ているのです。今ここで膿(うみ)を出し切ってしまわなければ、再生の道は永遠に閉ざされることになります――
十分を超える野呂の熱弁に、基礎系の代表者たちが真っ先に呼応した。「本件の調査は既に終了している」そう繰り返す船村には、長老格の教授から容赦ない叱責(しっせき)が浴びせられた。執行部の専横をこれ以上許すな――会議室のあちこちから、そんな声が上がった。最後には、外科の傘下にある皮膚科や形成外科までが再調査に賛同した。
孤立したトップにさらに追い討ちをかけたのが、くだんの週刊誌に掲載された第二報だった。船村と今中陽一が、実は遠戚関係にあったことを暴いたのである。身内をかばいたい一心から、病院長は今中の犯罪行為を隠蔽(いんぺい)し続けてきた。そう、彼こそが全ての元凶だったのだ、と記事は結んでいた。
野呂教授を長とする調査委員会は迅速に行動を開始した。事情聴取に呼ばれた亀岡は、講師室で目撃した出来事を洗いざらい話した。五名の委員は、それぞれがしかつめらしい顔をして医療事務室長の証言を聴いていた。退出の際には委員長自らがドアを開け、丁寧な礼の言葉を述べた。自分の机に戻った亀岡は、引き出しに仕舞(しま)ってあった退職願を破り捨てた。
事件の当事者である二人は、相変わらず病院に姿を見せなかった。最初の報道から二週間が過ぎたが、高木久美子は警察に被害届を出していなかった。亀岡は、昼休みに彼女のマンションを訪れてみた。騒ぎを避けて実家に帰っているのか、部屋はもぬけの殻のようだった。
今中陽一は、世田谷の自宅で軟禁状態にあった。学生や患者への影響を考慮し、教授会を通じて自宅待機が言い渡されたのである。一戸建ての玄関前には、彼の姿を収めようというカメラマンが常に張りついていた。一度だけ表に出てきた医師は、見る影もなくやつれ果てていた。冷笑をたたえていた眼窩(がんか)は深く落ちくぼみ、顔全体が不健康な灰色に染まっていた。
週が変わり、帝都大学病院の講堂で二度目の記者会見が開かれた。多くの教職員に混じって、亀岡は部屋の隅からその模様を見つめていた。会見場に現れたのは、船村病院長と野呂調査委員長の二人だった。
「最初に、私どもの不祥事で多くの皆様にご迷惑をおかけしたことを、心からお詫(わ)び申し上げます」
口火を切ったのは、病院長ではなく野呂だった。内科の教授は席から立つと、深々と頭を下げた。隣の船村がよろよろと腰を上げ、それに追従した。
「事件を再調査した結果、今中陽一専任講師に職務を逸脱した行為があったことが確認されました。この事実を踏まえ、病院は被害者である女性研修医に陳謝いたしました。幸いにも、彼女は我々の謝罪を受け入れてくれました」
「つまり、法的な訴えは起こさないということですね」
「あなたがたは、医師の犯罪行為を見過ごしにするつもりですか」
最前列にいた記者たちが質(ただ)した。応じたのは、やはり野呂だった。
「もちろん、これで幕引きにする気は毛頭ありません。今中講師は、本日をもって懲戒解雇処分といたします。それから」
野呂が目で病院長を促した。亀岡は、抜け殻のようになった最高責任者を見つめた。船村は、ワイヤレスマイクを握り締めた。
「――本当に、申し訳ありませんでした」
力のない声が広い講堂に流れた。かつて、この病院のトップとして君臨していた男は、唾(つば)を飲み込んだ。
「今般の騒動の責任を取り、私は病院長の職を辞すことにいたしました。今後は野呂教授を中心に、綱紀粛正に当たってもらうことになります」
謝罪会見は、それから一時間近く続いた。質問に答える野呂の横で、船村はただでくの坊のごとく惨めな姿をさらしていた。亀岡はいたたまれなくなって、途中で講堂を後にした。真実を明らかにするよう、病院長に迫ったのは自分だった。だが、彼の失脚まで望んでいたわけではなかった。
二度の臨時運営会議を経て、後任の病院長には野呂が就任した。同じ日、船村武弘から退職願が人事部に提出された。彼の受け皿となったのは、群馬県に居を置く小さな医療財団だった。
いまだ騒々しさの残る院内で、亀岡は通常業務に一層力を入れた。人事部は、既に新た室長を決定したという。すみやかに業務を引き渡し、湯布院に赴任するつもりだった。
一月も終わりが近づいた頃、亀岡は野呂の訪問を受けた。自分と同い年の院長は、事務長室をぐるりと見回した。
「ずいぶんと手狭な部屋ですね」
少しの遠慮もなく、野呂は言った。亀岡は思わず苦笑した。
「仕事をこなすには、これで十分です。机とロッカーさえもらえるなら、囲い自体をとっ払ってもいいと思っています」
「あなたには、もっと大きな場所で職務についてもらいたいんです」
野呂は、精悍(せいかん)な瞳に笑みを浮かべた。
「私は、心から亀岡さんに感謝しています。あなたがいなかったら、今回の事件が明るみに出ることはありませんでした。たかが研修医への暴行未遂など、外科によって揉(も)み消されていたでしょうから」
「それは違います。今中医師の罪を暴いたのは、私ではなく被害者の高木久美子さんです」
亀岡は言った。
「事を表沙汰にしたら、この病院にいられなくなる。高木さんは、そのことを恐れていました。それでも、最後の最後に彼女は声を上げてくれた。一人の女性の勇気が、病院を動かしたのです」
「声を上げたのではない、上げさせたのです」
野呂は、糊(のり)の利いた白衣の胸ポケットから一枚の紙を取り出した。
「それは――」
「そう、あなたがハラスメント委員会に提出した事件の報告書です」
――内科の進藤先生を通じて、今中先生ご本人に確認しました――
島谷香織の言葉が耳の奥に蘇(よみがえ)った。亀岡は、新たに院長の座についた男の顔をまじまじと見た。
「週刊誌にリークしたのは、あなただったのですか」
「それが高木久美子と我々にとって、最善の策でしたから」
医師特有の沈着な声で、野呂は言った。
「ご存じのように、今中が暴行を企てた証拠は全て処分されてしまった。官憲に訴えたところで、おそらくは起訴にさえ持ち込めなかったでしょう。となれば、残された道はただひとつ。世論を武器に彼らを追いつめることだけでした」
不意に全ての筋書きが見えた。部下を通じ、野呂は外科の講師が起こした不祥事を知った。しかも科と病院の名誉を守るため、船村院長自らが隠蔽工作を行っている。第二勢力である内科にしてみれば、外科を追い落とす絶好の機会が訪れたのだ。
ここ十年、院長職は外科の教授が独占していた。帝都大のOBでない野呂には、トップの座は遠いものだった。だからこそ、今回のチャンスだけは絶対に逃せなかった。彼にとっては今中陽一の処罰などどうでもいいことだった。野呂が本当に欲しかったのは、船村武弘の首だけだった――。
「彼女は、高木さんはどうなるのですか」
亀岡は野呂に尋ねた。今や病院改革の旗手となった男は、鷹揚(おうよう)に微笑(ほほえ)んだ。
「そのことなら、ご心配なく。来月から明成医大病院に移って研修を続けます」
明成医大は野呂の出身校だった。自身が後ろ盾になると確約し、彼女を翻意させたのだろう。つまるところ、自分も高木久美子も医者の政権争いに利用されただけではないか。
「どうやら釈然としていないご様子ですね。でも考えてみてください。この結果こそが、あなたが望んでいたことではありませんか」
こちらの顔色を目聡(めざと)く読んで、野呂が言った。
「ああいう連中を野放しにしておけば、いつかまた同じ被害者が出る。道をそれた人間、正しい判断を下せない権威者は放逐しなければならないのです。やり方はどうであれ、それが社会正義というものでしょう」
「目的さえ正しければ手段はどうでもいい、と言われるのなら、私は反対です」
亀岡は言った。院長は、腕時計に目をやった。
「あなたとは、一度じっくり腹を割って話をしたいと思っています。今は無理ですが、近いうちに必ず時間を作ります」
くるりと背を向け、野呂は事務長室を出ていった。亀岡は、望みのものを手に入れた男の背中を、黙って見送った。
10
二月に入り、人事部は異動を発表した。医療事務室の室長には、横川病院で同職にあった小森という男が就任した。が、亀岡の行き先は湯布院のリハビリセンターではなかった。「労務・経営担当理事を命じる」との発令に、病院の誰もが自分の目を疑った。
帝都大学病院の理事の椅子は五つ。七〇年代後半から今日まで、各診療科の部長が歴任してきた。組織を動かすのは医師の役目、というのが長い間、院内の不文律となっていた。その舵(かじ)のひとつが、事務部門の職員に差し出されたのである。
「我が帝都大学病院の再建に、あなたの力を貸してください」
病院長室で野呂は言った。彼の背後には新たに理事となった四人の若手教授が並んでいた。亀岡は一同の顔を見回した。おおかたの予想通り、外科の人間は一人も入っていなかった。
「ありがたいお言葉だと思います。しかし、どうして私が?」
「例の不祥事のさなかにあって、亀岡さんは最後まで当局の圧力に屈しなかった。あなたには清廉で強固な意志が備わっている。これからの病院経営には、その志こそが必要なのです」
湯布院への異動を覆したのは野呂だった。院長権限を行使し、人事部に理事就任を認めさせたのである。
病院の年間支出の中で、最大の項目は人件費である。帝都大学病院は現在、二千人を超す専任労働者を抱えている。賃金改定は、病院の運営を左右する重要問題となっていた。労使交渉の際、組合と五分に渡り合える人間を新内閣は捜していた。それが自分だった。
事務室に戻ると、手の空いていた部下たちが拍手で迎えてくれた。亀岡は、黙って頭を下げた。振り向けられる笑顔に、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。逃げるように自分の部屋へ入った。
――なんで、こうなってしまったんだろう――
机に尻を載せて亀岡は考えた。あなたには清廉な意志が備わっている、と野呂は言った。だがそれは違う。俺は、もう嘘はつかないという誓いを守り通してきただけだ。愚直と純粋さとは、決して同じものではないのだ。
午後の仕事は一向に手につかなかった。部長連中からの昇進祝いの誘いを断り、亀岡は帰途についた。駅に向かう途中で、一人の男とすれ違った。男は、ふらふらとした足取りで道の真ん中を歩いていた。雨も降っていないのに、レインコートのフードを目深にかぶっている。亀岡は車道の側へ避けようとした。その時だった。顔を上げた男が、突然こちらに駆け寄ってきた。まるで死んだ人間のような、落ちくぼんだ目が自分を捉えた。亀岡の足は、その場に凍りついた。
「君は――」
今中陽一が、言葉にならない叫び声を漏らした。骨張った右手が肩の高さに上がった。街路灯の光を反射して、メスが鈍色にきらめいた。が、亀岡は何もできなかった。
手術用具の刃先が、自分の顔目がけ振り抜かれた。最初に感じたのは、氷のような冷たさだった。亀岡は「あっ」と声を上げて左の頬(ほお)を押さえた。温かい血が掌を伝い、シャツを赤く染めた。
帰宅時間ということもあって、往来には多くの人々が出ていた。無理もないことだが、事件を目撃した者は皆、男が通り魔だと思い込んだ。若い女の悲鳴が轟(とどろ)き、駅前の通りは一瞬にしてパニックに陥った。
その場に呆然(ぼうぜん)と突っ立ったまま、亀岡は今中陽一のことを見ていた。病院の元講師は、まるで切りつけられたのが自分であるかのように身体全体を震わせている。二人の距離は一メートルに満たなかったが、不思議なくらい恐怖は感じなかった。
「……どうして、こんなことを」
「あんたのせいだ」
不明瞭な声で今中が言った。
「あんたが悪いんだ。何もかも、俺から奪った――」
亀岡は絶句した。男の瞳に浮かんでいたのは殺気ではなく、救いようのない絶望感だった。
「そいつがやったんだ、捕まえろっ」
群衆の中から声が飛んだ。勇気ある通行人たちが、レインコート姿の今中を取り囲んだ。乾いた路面の上にメスが音を立てて落ちた。通りの向こうの派出所から警官が二人、おっとり刀で駆けてくるのが見えた。
今中陽一が起こした傷害事件は、翌朝のニュース番組で報じられた。警察は逆恨みが犯行の動機であると発表した。くだんの暴行未遂事件で、目撃者である亀岡は病院当局に事実の公表を迫った。そのことがきっかけとなり、自分は専任講師の職を解雇された。何日も自宅に閉じ籠(こ)もっているうちに、彼に対する怨恨(えんこん)の感情が少しずつ膨らんでいき、それがとうとう爆発した。どうやって病院まで行ったのかは全く覚えていない。犯行に使ったメスは、講師に昇進した日に買った記念の品だった――今中が供述した一部始終だった。
被害者への事情聴取は、たった一時間で終わった。亀岡は翌日の午後から職場に復帰した。傷は二針縫っただけで、痛み止めも必要なかった。ただ、左頬の絆創膏(ばんそうこう)をちらちら見やる職員たちの視線が、妙にむず痒(がゆ)く感じられた。
ところが、事件の余波は思わぬ形で現れた。亀岡を見る教職員の目が、はっきりと変わったのである。
彼らの大半は、くだんの暴行未遂事件に亀岡が関わっていたことを知らなかった。我が身を顧みず、前院長相手に正義を貫こうとした職員の鏡……そんな評価が人々の間に広がり、五十歳の男やもめは、本人も知らぬうちに英雄に祭り上げられていた。
亀岡の理事としての最初の仕事は、各部署の責任者と会い、新病院長の経営方針を説明することであった。異例の抜擢(ばってき)をやっかんでいたはずの管理職たちは、満面の笑みで自分を迎えてくれた。面談の最大の目的は、野呂が打ち出した人件費削減政策の周知にあったから、この友好的な空気はありがたかった。
事件の「効果」は続く春闘にも影響した。組合の強硬派が、これまでの対決姿勢を封印し対話路線に転じたのである。十分な議論を尽くした後、彼らは病院が提示した給与額の据え置き案に同意した。「我々は、亀岡さんを信じていますので」専従の蔵元が最後に語った言葉だった。
四月に入り、亀岡は久しぶりに医療事務室を訪れた。後任の室長である小森は、来訪者があるとかで席を外していた。
「どうぞ、お掛けになってください。今、お茶をいれますから」
鹿間さゆりが、懐かしい笑顔で迎えてくれた。亀岡は首を振った。
「ちょっと様子を見にきただけなんだ。明日の理事会の準備もあるし、失礼するよ」
「あの、大丈夫ですか? お顔の色が、なんだか良くないように見えますけど」
「ああ、気張ってみても、もう年なんだろうな。ここのところ、疲れが抜けるのがだいぶ遅くなったようでね」
「ご無理をなさらないでくださいね。私たちの代表として、理事にはこれからも頑張っていただかなくてはならないんですから」
桜の季節になっても、病院は大勢の患者でごった返していた。亀岡は理事室に戻った。肘掛(ひじか)け椅子に腰を下ろし、この一年に思いを巡らせてみる。妻の死をきっかけに、自分はある誓いを立てた。生涯で嘘をつくのは、あと一度だけだと。
それからというもの、人から何かを問われるたびに、心にある言葉をそのまま伝えてきた。今の世の中では、誰もが場の空気を読むことばかりに腐心している。だからこそ、どこまでも愚直な人間が注目をされたのかもしれない。
背もたれに身体を預けたまま、広い室内を見回した。今の自分があるのは、あの誓いのお陰だった。他者の評価に偶然が重なって、考えもしなかった理事の地位が与えられることになった。だが――。
亀岡は、目の前を通り過ぎていった、いくつかの顔を思い浮かべた。田上康之、浦川耕三、船村前病院長そして今中陽一。自分と対立した人々は、最後にはこの病院を去ることになった。彼らの暗い瞳は、今なお胸の中に焼きついている。
――俺の馬鹿正直さは、他人の人生を狂わせてしまったのではないのだろうか――
胸の奥から苦いものが湧き上がった。部屋の空気を入れ替えようと席を立った。とたんに下っ腹に激痛が走った。何本ものきりで刺されたような、広く熱い痛みだった。静かな理事室の机に手をついて、亀岡は呼吸が戻るのを待った。忙しさにかまけて、もう何年も健康診断を受けていなかったことを思い出した。
腹の痛みは一向に治まらなかった。亀岡は手の甲で額の脂汗を拭った。
壁の掛け時計が、次の会議が迫っていることを告げていた。
11
二度の精密検査で、癌(がん)が見つかった。大腸癌であり、既にいくつかの臓器に転移していた。浸潤が進んでいるため、手術は不可能ということだった。
「それで、あとどれくらい保つんですか」
検査を担当した医師に、亀岡は尋ねた。このままでは三月、抗癌剤治療を受ければさらに二、三カ月程度の延命が見込まれる、という答えだった。
検査結果を聞いたその日に、月末での退職手続きを取った。病院長は言葉を労して引き止めてくれたが、意志は変わらなかった。各部署にコストカットを説いてきた自分が、たとえ数カ月でも病欠給を受け取るわけにはいかなかった。
最終日には、多くの医師や職員が正面玄関に出て見送ってくれた。亀岡は、同僚に向かって深々と頭を下げた。看護師や女子職員の間から、すすり泣く声が聞こえた。心をよぎったのは、やはり自分が追いやった男たちの後ろ姿だった。彼らだって、こうして温かく送り出されたかっただろうに、と思った。

残された時間は、西伊豆のホスピスで送ることに決めた。延命治療を受ける気はなかった。半月で家の整理をし、後のことは知り合いの弁護士に任せるつもりだった。
理恵がニューヨークにいることは、毎月購読している『ラフィン』のエッセーで知っていた。新作の小説に取り組むため秋口まで向こうで暮らすらしい。きっと、あの男も一緒なのだろう。担当の編集者である棚橋由佳に頼めば、連絡先を教えてくれるに違いない。
少し考えて、結局、横浜のマンション宛てに手紙を送るだけにした。もしも間に合わなければ、その時は弁護士から向こうに連絡を取ってもらえばいい。自分の道を歩き出している娘を、こんなことで煩わせたくはなかった。
土地と家財の処分は、思ったよりあっさりと片づいた。結婚五年目に買った一戸建ては来月には壊され、また新しい住宅が建つという。いよいよ伊豆に向かう朝、亀岡はがらんとした家内を見回した。感傷めいた気持ちは少しも湧かなかった。理由は分かっていた。良江が死んだ日に、この家は命を失ったのだ。思い出が生身の体を温めてくれることなど、決してありはしない。
ホスピスは、堂ケ島海岸を見下ろす高台に建っていた。自分の部屋は三階の中央だった。十畳ほどの広さの個室で、小さなユニットバスとキッチンがついている。終(つい)の住処(すみか)としては悪くないな、と思った。
治療は点滴による投薬が主で、それも午前中には終わった。加療後には広い敷地の中をゆっくりと歩いて回った。遠くの海原に小船が一隻だけ浮かんでいる風景は、東京育ちの目を楽しませてくれた。仕事の重圧から解放されたこともあってか、調子はすこぶる良かった。もしかしたら、このまま平穏な終末を迎えられるのではないか、と考えたりした。
が、そんな日は長くは続かなかった。四日目の午後、文字通り腸が捻(ねじ)れるような激痛に襲われた。高熱が出て、ベッドから起き上がることすらできなくなった。熱は午後には下がったが、身体の奥の痛みは続いた。患者の顔色を確かめてから、主治医は最初のモルヒネを投与した。
それからすぐに右の手が利(き)かなくなった。腫瘍(しゅよう)が脳に転移した影響だという。癌のやつ、スケジュールはきっちりこなしやがる、と一人で笑った。
「亀岡さん、調子はどうですか」
ある朝、担当の看護師にそう尋ねられた。看護学校を出てまだ日の浅い、色の黒い娘だった。
「最悪です。できるものなら、あなたに替わってもらいたい」
気の毒とは思ったが、頭に浮かんだことをそのまま告げた。白衣の天使は、こちらの顔を見つめ絶句した。どうやら、このまま最後の嘘をつかずに人生を閉じられそうだ、と独りごちた。困った正直者の行く先は天国なのだろうか、それとも――。
「お父さん」
耳のすぐ近くで、声が聞こえた。知らぬうちに眠っていたらしい。亀岡は目を開いた。膝(ひざ)を折るようにして、娘が立っていた。
「理恵……どうしたんだ」
「どうした、じゃないでしょう」
言葉を交わしたばかりだというのに、娘の目から涙があふれ出した。傍らには、副島一哉が寄り添っている。どうしたわけか、こちらの目も真っ赤だった。
「なんで、言ってくれなかったの。こんなになる前に」
「お前の邪魔をしたくなかっただけだ」
「なに、わけのわかんないこと言ってんのよ。ホント、馬鹿じゃないの」
横の青年が理恵をたしなめようとした。亀岡は、彼に目を移した。
「そこにいてくれていい。だが、最初に娘と話をさせてくれないか」
副島は静かに頷(うなず)き、壁際に下がった。亀岡は「ありがとう」と告げた。
「赤ん坊ができたのか」
少し丸くなった顔を見上げ、言った。理恵は手の甲で目尻を拭った。
「分かるの? まだ四カ月にもならないのに」
「そりゃあ、分かるさ。母さんの時と同じだからな」
娘はセーターの上から腹の辺りを撫(な)でた。初めて見る、優しい表情だった。
「入籍は済ませたんだろう」
理恵は首を振った。亀岡は眉を寄せた。
「どういうことだ。向こうでだって届けくらい出せるだろうが」
「前に言ったでしょう。お父さんに許してもらうまでは、結婚しないって」
枕に頭を載せたまま、亀岡はため息をついた。
「俺には、お前の考えが理解できない。誰と一緒になるかは、当人同士が決めればいいことだろう。なんで、そこまで親の許しにこだわるんだ? だいたい、こっちは父親らしいことなどしてこなかったんだし」
「やっぱり、お父さんはちっとも分かってない。私は……お父さんのことが大好きだった」
涙声になりながら、理恵が言った。
「いつだって、お父さんに認めてもらいたかったの。だけど、どうしてもそれができなくて、だんだん一緒にいるのが辛くなってきた。きっとお父さんは、こんな娘のことなんか嫌いなんだろうって、そう思うようになっていた」
「そうだったのか」
「だから、結婚だけはお父さんに許してほしかった。もしも駄目なら、籍は入れないって二人で決めていたの」
――でも、理恵さんがどうしてそこまでお父さんにこだわるのかは、分かったような気がします――
ふと、棚橋由佳の言葉が蘇った。亀岡はようやく悟った。頑固で融通がきかなくて、おまけにとことん臍(へそ)が曲がっている。この子と俺は、嫌になるくらいにそっくりなのだ、と。
自分は妻を愛していた。それは、良江が全くの他人だったからだ。だが、この子は違う。自分とは、決して切ることのできない絆がある。だからこそ、あれほど激しく憎むことができたのだろう。
「馬鹿だな、お前は。そんなことで意地を張ってどうする」
肉の落ちた頬で、亀岡は娘に笑いかけた。
「彼と結婚しなさい。生まれてくる子供のためにも、それが一番いい」
「……許してくれるの」
亀岡は頷いた。壁の近くで洟(はな)をすすり上げる音がした。副島一哉が泣いていた。細い肩を震わせ鼻の頭を真っ赤に染めて、しゃくり上げている。まるで小さな子供だな、と思った。その時だった。突然、それがひらめいた。
「なあ、理恵」
父親は、娘の顔を見上げた。そうして、できる限りの優しさを込めて言った。
「彼を見てごらん。いい男じゃないか」
「お父さん――」
大粒の涙が清潔なシーツを濡(ぬ)らした。若い二人は、今では声を立てて泣いている。身体のどこかから、温かいものが込み上げてきた。病人は、細くなった息を吐いて笑った。
嘘をつくのは、やっぱりいいもんだな――亀岡隆平は、心からそう思った。
(了)

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