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【読者会議】別れのとき 今も残る言葉 

<Reライフアンケート>忘れられない別れの経験は?

更新日:2019年03月03日

 卒業に転勤、家族との別れ、恋の別れ――。別れの春を前に、読者の皆さんに「忘れ得ぬ別れ」のエピソードを募りました。その時、相手の発した言葉が、生涯の礎となった人もいました。


上京「帰っておいで」が支えに

 東京都足立区の宍倉美智子さん(69)の「一生、忘れられない別れ」の場面は、半世紀ほど前にさかのぼる。

 山口県萩市の出身。戦後、父親が事業に行き詰まり、家族は借金取りに追われた。中学3年の時、先に家を出ていた長兄を頼り、母と次兄、宍倉さんの3人で現在の北九州市に移り住んだ。

 住み込みで働く母親の部屋に居候しながら、自身も働き口を得て定時制高校に通った。短大を出て保母(現・保育士)に。21歳になっていた。

 短大卒業後、東京の保育園に勤めることが決まった。別れは、上京するため、地元の駅で列車を待っていた時に訪れた。

 仕事で見送りには来られないはずの母が、やって来た。心細そうな母。何を話していいか分からず、二人は言葉少なに過ごした。いよいよ出発の時間。ドアが閉まる間際、物静かな母が、決意を込めたような顔で言った。

 「つらいことがあったら、いつでも帰っておいで!」

 郷里の山口の家には帰れない。北九州にも、母の家はない。「帰る家なんて、ないと思ってた」。それなのに「帰っておいで」と。母は、走って列車を追いかけてきた。ただただ、涙がこぼれた。

 勤め始めた自治体では、約40人の保母が採用されていた。ただ、「寿退社」が当たり前の時代。数年で、どんどん辞めていった。「私は自立する」。そう言い聞かせて、さみしさを紛らわせた。そんな時、心のよりどころになったのが、母の「帰っておいで」という言葉。帰る家はないと分かっていたが、気持ちが温かかった。

 28歳で結婚。2人の子どもを授かり、「帰っておいで」と言った母の気持ちが分かった。「『どんな時でも、守る。心配しなくていいよ』。そんな気持ちが言わせたのでしょうか」

 母は勤め上げた後、長兄と同居して暮らした。数年ごとに会いに行ったが、鮮烈な別れの思い出は口にできなかった。「心配させたくない、と思っていたのかも」。2年前、101歳で亡くなった。

 宍倉さんは、地域のボランティア活動に参加したいと、自治体などが主催する説明会に足を運んでいる。高齢者が集まるサロンや、認知症の人や家族が集うカフェの運営を手伝いたいと考えているからだ。「自分の居場所だと思ってもらえるよう、話に耳を傾け、寄り添いたい」。誰かの帰る場所づくりをしたいと思う。


■ 最後は「午後から晴れるよ」

 大学2年生の時、父が突然、心不全で亡くなった。人工透析の日、車で病院へ向かう父に、私が「雨が降りそうだね」と声をかけると、父は空を見上げて「午後から晴れるよ」と言った。それが、最後の言葉だった。
 母は3人の娘を抱え、一人で大変だったと思う。私は苦学して、大学教員になった。つらいことがあると、父の言葉を思い出す。照る日、曇る日、雨の日もある。でも、やまない雨はないと知った。 神奈川県 半田淳子さん(58)


■ 40年前の彼「親裏切れない」

 まだ「韓流」という言葉も聞かなかった40年ほど前、在日2世の彼と付き合っていた。何度か結婚の話をしたが、進展はなかった。7年付き合った頃、水を向けた時の言葉が忘れられない。「親を裏切るようなことは、できない」
 彼の両親が、同胞との結婚を望んだのだろう。二人さえよければ何とかなると思っていたが、彼の言葉を聞き、駆け落ちしても幸せにはなれないと思った。人には譲れないものがあると分かった。 千葉県 女性(61)


■ 「挑戦してみなさい」で再会

 小学校の頃、音楽の成績がよくなかった。高い声が出ず、先生にも「歌はあんまりね」と言われた時、人前で歌うこととは「お別れ」だと思った。
 50歳の頃。地元の高校生や市民が「第九」を合唱するのを聴き、「歌えたらいいだろうな」と母にこぼした。母に「何でも挑戦してみなさい」と言われ、地元の会に入り、その年末は一緒に第九を歌った。「再会」して少し自信がつき、今も歌い続けている。 福岡県 植田幸美さん(66)

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