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何度も描いた、その訳は 初期代表作《病める子》から考える 

Reライフおすすめ講座「ムンク 絵画の楽しみ方」 その3

更新日:2019年01月23日

 繰り返し表れるモチーフや背景などが特徴のムンク芸術。東京都歴史文化財団の水田有子さんが解説する「ムンク展」の3回目は、数多くのバリエーションを生み出した初期の代表作《病める子》に焦点をあて、独自性を探ります。

 ムンクが画家として歩みを始めたのは故郷のノルウェーです。当時のノルウェーでは、クリスチャン・クローグやフリッツ・タウロヴといったフランス帰りの画家たちが集っており、自然主義的な表現が画壇を占めていました。

 ムンクは画家となってまもなくパリへ留学しました。留学中に父の死を体験したころから、印象派主義的な表現と行きつ戻りつしながら徐々に独自の画風を確立させていきました。

 亡くなった姉ソフィエを思わせる初期の代表作《病める子》(1885~86)はムンク自身が「私の芸術におけるひとつの突破口」と意味深く語ったことでも知られる作品です。このモチーフは、ムンクの師クリスチャン・クローグによって描かれた作品でも知られるように、自然主義の文脈の中で当時描かれていた画題でもありました。

 ただ同じ主題を描いていても、ムンクの作品は、その表現がクローグのものとは一線を画していることが見てとれます。描いては、溶剤を使ってぼかし、また表面を削り取り、といったように、何度も繰り返し手が入れられました。この独特の様式は、故郷のノルウェーでは当時、未完成として捉えられ、批判や酷評の対象となりました。

 ムンクはのちにノルウェーの国民的画家となりましたが、それはもう40代になってからのこと。故郷では当初、不遇の画家だったともいえるでしょう。

 ムンクはこの《病める子》というモチーフを実に40年にもわたって、6点もの絵画と版画の三つのバージョンを手がけています。今回の展覧会では版画の二つのバージョンの3作品が出品されました。絵画と同じ構図で描かれたエッチング・ドライポイントによる作品もあれば、少女の横顔にクローズアップし、さまざまな色彩で刷られたリトグラフも制作されています。

 《病める子》はムンク芸術の中でも、とりわけ多くのバリエーションが生み出されたことで知られています。自分が親しかった姉の死という幼いころに体験したトラウマを、何度も反芻(はんすう)するように繰り返し制作する画家の姿、あるいは人生に影を落とした病や家族の死の象徴的な結びつきを示すものとして捉えられてもきました。

 しかし、近年注目されているのは、このモチーフに対する画家の執着ではなく、こうして多くの作品が描かれたのは、作品の販売に関する事情だとする説です。

 ムンクは非常に強いこだわりをもって制作したはずの《病める子》を、この作品を評価した師であるクリスチャン・クローグに進呈したほか、その後注文を受けて制作するコミッションワークとして何度も制作しています。

 ムンクが生きた時代は、写真という複製技術、新しいメディアが、人々の生活あるいは芸術の中に浸透していった時代でもありました。ムンクも1902年にコダックのカメラを手に入れて好んで写真を撮影しました。今回の展覧会の冒頭でも、タイマーを使って撮影したセルフポートレートやカメラを持って「自撮り」した写真が展示されました。

 こうした時代、作品のオリジナルとコピーの区別は徐々に明確化されていく過程にありました。けれども、ムンクが生きた19世紀は、人気のある名品が複数点制作されることがよくありました。

 当時、批判を含めて非常にセンセーショナルな反応を巻き起こしたムンク初期の代表作となった《病める子》は、発注者が現れては描き、それを手放すということが繰り返されました。

 つまり、ムンクは作品の源泉を自身の生い立ちに求めるとともに、自分の芸術の独自性を同じ主題のバリエーションを制作することによって伝えようとしたのです。それは単なるコピーではなく、必然性をもった繰り返しだったとも言えるでしょう。

 この話は朝日カルチャーセンター新宿教室で2018年12月8日に開かれたReライフおすすめ講座の採録第3回です。次回は「ベルリンの『ムンク事件』」です。

 水田有子(みずた・ゆうこ) 東京芸術大学大学院修士課程修了。東京芸大美学研究室教育研究助手を経て、2013年より2018年まで東京都美術館学芸員。専門は西洋近代美術。現在は東京都歴史文化財団事務局に勤務する。

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