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大都会発祥の地には 閻魔様が子どもを食らう伝説あり 

Reライフおすすめ講座「東京小説散歩 再発見する新宿」 その3

更新日:2019年04月12日

 朝日新聞東京版に連載されたコラム「東京物語散歩」の筆者・堀越正光さんが新宿の街を語る「東京小説物語 再発見する新宿」。その3回目は、「新宿」発祥の地周辺です。

 新宿という地名の発祥を探るとなると、いくらでも探っていけるので軽めに抑えたいと思います。ここでは江戸時代の文化・文政期に書かれた『新編武蔵風土記稿』を採り上げます。手に入れづらい本ですが、幸い、国立国会図書館でデジタル版が読めます。

 その「巻11豊島郡3」によると、江戸浅草阿部川町(現・東京都台東区元浅草4丁目)の名主喜兵衛と町人4人が、この地を支配する代官に宿場を開設するように願い出て、1698(元禄11)年に許可されたのがきっかけのようです。

 喜兵衛らが宿場開設を願い出た理由はわかっていないそうです。このあたりを通る甲州街道は、1604(慶長9)年ごろに整備され、江戸から甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。甲州街道の最初の宿場は高井戸(現・杉並区)でした。日本橋を出発して4里8丁(16.6キロメートル)もあったため人馬とも不便で、もっと近い場所に宿場が必要になりました。

 願いを許可した幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現・新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地(あげち)してこれにあてました。1699(元禄12)年に開設された新しい宿場名は、内藤家の領地に造られた新しい宿場ということから「内藤新宿」と呼ばれ、そのうち「内藤」がとれて「新宿」になったというわけです。

太宗寺の境内と閻魔(えんま)堂(右)

 内藤家の歴代藩主の墓所がある太宗寺(新宿区新宿2丁目)の境内には、閻魔(えんま)像と脱衣婆(だつえば)像が安置された閻魔堂があります。閻魔像は、江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めたといいます。その閻魔大王に仕える脱衣婆は、三途(さんず)の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされます。脱衣婆像の右手には、亡者からはぎ取った衣が握られています。

閻魔(えんま)堂

 この閻魔像と脱衣婆像には、幼い子どもを食ってしまったという言い伝えがあります。昔、泣きやまない赤ん坊を抱いた乳母がおどしつけようとして閻魔さまのところへ抱いていったら、閻魔さまが大口を開けてがぶりと食べてしまったそうです。閻魔像の口から、食った子どもの着物のつけ紐(ひも)がだらりと下がっていたことから、「つけ紐閻魔」と呼ばれるようになったともいわれます。

 子を食ったのは脱衣婆だという説もあって、この伝説をうまく使った小説もあります。物集高音(もずめ・たかね)という覆面作家が書いた『大東京三十五区 夭都七事件』(2002年)です。

 舞台は昭和初期の東京。三文雑誌に売るための記事集めに精を出す学生と、彼が見聞した奇怪な事件を下宿の大家が解き明かすというミステリーです。

 小説の5番目の章「子ヲ喰ラフ脱衣婆」は、1933(昭和8)年の春、境内で隠れん坊していた幼い兄妹のお話です。オニになった妹が兄を捜そうと閻魔堂を開けると、薄暗い床には血が流れ、脱衣婆の口からは兵児(へこ)帯がだらりと垂れ下がっている。兄はそれきり姿が見えなくなってしまいます。

 閻魔堂の扉は上半分が金網を被った格子窓になっていますが、普段は閉められています。扉についた備え付けのスイッチを押すと1分間だけ堂内の明かりがつくようになっています。お堂の前に像の写真と説明板がありますが、(課外活動に参加した)生徒たちには「写真は見ないで通り過ぎ、スイッチを押しなさい」と言っています。暗闇から照らし出される閻魔像と脱衣像を想像してみてください。

閻魔像

 これは朝日カルチャーセンター新宿教室で2019年2月17日にあった朝日新聞Reライフおすすめ講座「東京小説散歩 再発見する新宿」の採録第3回です。次回は「新宿駅の地下街」です。

堀越 正光(ほりこし・まさみつ) 1960年生まれ。千葉県習志野市の東邦大学付属東邦中高等学校国語科教諭。小説の中に描かれた東京の場所をめぐる「東京物語散歩」を2006年9月から2018年8月まで朝日新聞東京版に連載した。「同じ作家の作品は一つしか扱わない」という条件を自ら課し、468の作品を紹介した。著書に『あの本の主人公と歩く東京物語散歩100』(ぺりかん社)、『東京「探見」』(宝島社)がある。

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