「消滅都市」から「未来都市」へ、豊島区は変わるか

東京都豊島区は2020年7月、内閣府により20年度「SDGs未来都市」「自治体SDGsモデル事業」の両方に選定された。ダブル選定は東京の自治体では初めてだが、特別区の一つがなぜ改めて未来都市なのか。その背景には、2014年に23区で唯一「消滅可能性都市」と指摘された「ショック」があった。SDGsによるまちづくりを進め、「国際アート・カルチャー都市」をめざすという高野之夫区長にその思いを聞いた。(聞き手 編集部・金本裕司)
――2020年度の「SDGs未来都市」に応募されたのは、やはり日本創成会議から「消滅可能性都市」と指摘されたのがきっかけですか。
「いま豊島区の人口は29万人です。底だった24万人(1997年)から着実に増えている。漫画やアニメの聖地で、芸術のまちという自負もある。そして池袋には若者があふれている。なぜ『消滅可能性都市』なのかと、大変なショックを受けました」
――そこから、SDGsによるまちづくりをしようと思ったのはどんな経緯ですか。
「話は少々長くなりますがね。いま区長6期目ですが、初当選した1999年ごろは、区は財政破綻寸前、『23区の24番目』というぐらいの状態でした。区の借金は872億円で、「基金」つまり貯金はわずか36億円。普通の会社なら倒産です。最初の10年間は財政再建一本槍でした。苦しい時代を経て、2013年、23年ぶりに貯金が借金を上回った。ようやく23区の一つと言って恥ずかしくないところにまで回復したと思いました」
「その矢先ですよ。14年に『消滅可能性都市』との指摘を受けました。区民からは、『区長は無能だ』と言われました。屈辱的でしたよ」
――確かに豊島区が「消滅可能性」というのは驚きでした。
「数字の計算上では、30年後に若い女性が半分以下になる可能性がある、というのは分からないではない。しかし、現実は違います。池袋は、埼玉県民730万人のうち100万人が東京に通う際の玄関口です。新宿に次ぐ大ターミナルです。人口も、私が区長になった時から5万人も増えました。もちろん、黙っていれば、年間に亡くなる方が、生まれる方を上回り、500人から1000人の自然減です。しかし、人口が増えているというのは、流入人口があるからです。豊島区に住もうという人が増えているのです。外国の方も増えて、現在人口の1割に当たる約3万人が住んでいる。23区では新宿区に次いで2番目。そういう国際的なまちでもあります」

――「『消滅可能性都市』から『持続発展都市』へ」を目標にされました。
「このままでは、孫子の代まで汚名を背負うことになる。これを反転攻勢の機会にし、政策を思い切って転換しようと考えました。そこで、対策の四つの柱を作りました。①子どもと女性にやさしいまちづくり②地方との共生③高齢化への対応④日本の推進力です」
「なかでも大切と考えたのは『日本の推進力』になるということでした。東京という都市は、各自治体がそれぞれ一翼を担ってできあがっている。それなのに、うちの区だけが消滅可能性などと言われるのは、まちの将来ビジョンがないからではないかと考えました。横並びではない、特色を生かした豊島区像を打ち出し、東京を引っ張る、日本のお手本になろうという気概でした」

――消滅可能性都市のきっかけになった若い女性への対策では、どんなことに取り組まれたのでしょうか。
「20代、30代の女性、F1層といわれる層が少なくなるということでした。そこでまず若い人たちに集まってもらい、『100人女子会』とか『F1会議』などを企画し、女性の声を行政に入れることに取り組みました。『女性にやさしいまちづくり担当課長』を新設し、民間から採用をしました」
「女性にやさしいまちということは、まず子育てしやすいまちということでしょう。しかし、豊島区は保育園が不足し、待機児童対策に後れをとっていました。そこでとにかく、保育園をたくさんつくりました。(消滅可能性都市の指摘から)3年後の2017年4月には待機児童ゼロを達成しました」
「そうした対策が功を奏して、家事に専従するのではなく、お勤めに出られる方が増え、収入も上がりました。5年間で2万人の納税義務者が増えました。過去最高の区民税が毎年上がるようになりました」
――区長就任から一貫して「文化によるまちづくり」を掲げてこられました。
「財政が厳しかった時代は、出張所や児童館などの施設を統合したり、廃止したりして、区民には閉塞感がありました。行財政改革を進めながらも、明るい目標をもたないと本当の意味での再生はできないなというのが私の思いでした」
「文化は目には見えないが、人の心を豊かにしてくれる。文化があればにぎわいが生まれます。区の文化担当の職員は、私が区長になったときは3000人の職員の中で兼務含め2人でした。今は2000人の職員で100人に増やしました」


――「文化によるまちづくり」が「SDGs未来都市」へとつながったのですね。
「消滅可能性の指摘を受け、『国際アート・カルチャー都市』をつくると宣言しました。様々な改革を、スピード感を持って実行するチャンスでした」
「この49階建ての庁舎も、官民連携のお手本と自負しています。上は分譲住宅で、下を区が使う。小学校の跡地があり、敷地の6割を区が持っていたのも幸いでした。借金ゼロでつくりました。元の区役所跡は、民間に定期借地権で貸し付け、『Hareza池袋』ができました。官と民の三つの建物に八つの劇場をつくった。『国際アート・カルチャー都市』の拠点にとの思いでした」
「まちづくりを進めている時に、国連SDGsの考え方が広がってきました。2030年を目標に『誰ひとり取り残さない』世界をつくるという考え方は、『誰もが主役となれる』10年後のまちづくりをめざしている私たちと方向性は同じでした。福祉から教育、貧困、虐待、そしてジェンダーまで、われわれが日ごろやっている行政はSDGsそのものでした」
「国が『SDGs未来都市』を選定する目的には、人口の東京圏一極集中を是正するという狙いもあります。最初、東京の自治体がとるのは至難の業かなと思いました。しかし、難しいことを勉強してレポートするのではない、われわれが取り組んでいることで十分戦えると、応募にゴーサインを出しました。東京で初めて未来都市とモデル事業両方に選定されたのは豊島区の自慢です」

――応募の際、焦点をアートとカルチャーに絞られた狙いは。
「豊島区は『アニメの聖地』を自任しています。アニメの原点は漫画です。漫画の原点は『トキワ荘』です。文化に大小はないですし、国境もなく、どの国とも対等に付き合えます。外国人も多く住む国際的な区にふさわしい目標です」
――SDGsは2030年に向けて「行動の10年」を迎えています。自治体は何をすべきとお考えですか。
「地方自治体は、住民に一番近いところにいます。私はSDGsには全庁すべてがかかわることと、住民を常に巻き込んでいくことが大事だと言っています。いつも言うのは『オールとしま』ということです。豊島区は自治体としては大きな自治体ではない。住民も29万人、職員は2000人です。だから、向かう方向がバラバラでは力が出ない。行政、民間、区民が一体になった取り組みが重要だと思っています」

1937年、池袋西口で生まれる。中学から大学まで立教で学ぶ。古書店経営の後、豊島区議、都議会議員。99年に区長に初当選、現在6期目。