ネイチャーポジティブとは? 社会・経済の基盤を守る新たな世界目標

現在、人間社会・経済の基盤となる自然生態系の喪失に伴うリスクの高まりが注目を集めており、国際社会は「ネイチャーポジティブ」という目標を掲げてこの課題に取り組もうとしています。この記事では、ネイチャーポジティブの意味や世界、日本の取り組み、今後の展望などについて説明します。

環境コンサルタント。元シンクタンク研究員。環境政策に関する研究で博士号を取得したのち、環境省や自治体の環境政策関連調査に従事。独立後、民間企業の環境や生物多様性に関する取り組みの支援も実施。専門は生物多様性。
目次
1.ネイチャーポジティブとは
ネイチャーポジティブとは、自然生態系の損失を食い止め、回復させていくことを意味する言葉です。
現在、世界の生物多様性は減少し続けており、1970年以来、約68%の生物多様性が失われたとされています(参照:Living planet report 2020 p.6丨ZSL)。
生物多様性は年間約44兆ドルの経済価値創出を支える基盤(自然資本)であり、この喪失は社会・経済に大きな悪影響を及ぼしかねません(参照:Nature Risk Rising: Why the Crisis Engulfing Nature Matters for Business and the Economy p.8丨WEF)。
そこで環境保護団体と民間企業は、合同で気候変動における「ネットゼロ(温室効果ガスの排出量から吸収量を引いた数字をゼロにすること。カーボンニュートラルとも呼ばれる)」と同等の目標を生物多様性・自然資本分野において設定するための議論を2019年に開始しました。そして2021年、12の民間企業や自然保護団体のCEOが共同で「A Nature-Positive World: The Global Goal for Nature」という文章を公表して、「ネイチャーポジティブ」という目標を設定する必要性について科学的エビデンスをもとに主張しました(参照:What does nature-positive mean for business? p.7丨wbcsd)。
その後、G7サミット(主要7カ国首脳会議)やCBD COP15(第15回生物多様性条約締約国会議)の第一部閣僚級会合においても国際目標として採用され、2030年までのネイチャーポジティブの達成が生物多様性・自然資本領域の世界共通の目標として浸透しつつあります。また、この目標はSDGs(持続可能な開発目標)の目標14「海の豊かさを守ろう」や目標15「陸の豊かさも守ろう」をはじめとする各目標とも深く関係しており、SDGsの達成のためにも非常に重要だといえます。

2.ネイチャーポジティブに関する世界と日本の動向
ネイチャーポジティブは提唱されて日が浅く、明確な定義も定まっていないのが現状ですが、世界ではネイチャーポジティブの達成に向けた議論が進められています。以下、世界および日本のネイチャーポジティブに関する動向を紹介します。
(1)世界の動向
①昆明・モントリオール生物多様性枠組み
「昆明・モントリオール生物多様性枠組み」とは、生物多様性に関する国際目標を定めた枠組みであり、カナダのモントリオールで2022年12月に開催されたCBD COP15(国連生物多様性条約締約国会議)の最終会合において採択されました。
ネイチャーポジティブという単語こそ使われなかったものの、2030年までに、これまで減少傾向であった生物多様性の状態を回復軌道に乗せるという実質的なネイチャーポジティブを目指す目標が掲げられています。
②G7 2030年自然協約
2030年自然協約とは、イギリスのコーンウォールで2021年6月に開催されたG7サミットにおいて採択された生物多様性保全のための協約です。この協約では、ネイチャーポジティブの達成を目指すことと、今後10年間で「移行」「投資」「保全」「説明責任」の四つを柱とした行動が盛り込まれています。
「移行」については森林や農地などの合法的・持続可能な利用の推進、「投資」については開発やビジネス上の投資の意思決定における自然資本への影響の考慮、「保全」については世界の陸地と海域の30%を保護する30by30(サーティバイサーティ)の達成、「説明責任」についてはこの協約へのコミットや進捗(しんちょく)の定期的なレビューの実施などが記載されています。
③TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)
TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures:自然関連財務情報開示タスクフォース)は、民間企業に対して自然資本や生物多様性の観点から事業リスクと機会を整理し、その対策を含めて情報開示を求めるイニシアチブです。
このイニシアチブは、情報開示によって資金の流れをより自然に配慮したものに誘導し、ビジネスと自然資本の関係を、マイナスの影響を与える関係からプラスの影響を与える関係に転換していくことを目的としています。TNFDのフレームワークでは「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」について開示することが求められており、そのために事業活動の自然資本への影響と依存の両側面を把握することが重要視されています。
ネイチャーポジティブの達成には企業活動をより持続可能なものに転換していくことが必要不可欠ですが、TNFDはそのために企業が何をすべきかを考えるうえで重要な枠組みを提供しているといえます。
(2)日本の動向
①ネイチャーポジティブ経済研究会
ネイチャーポジティブ経済研究会とは、環境省が設置したネイチャーポジティブ経済を推進していくための検討の場です。この研究会では、産学官が連携して、自然資本に関する世の中の動きが日本に与える影響や、カーボンニュートラルやサーキュラーエコノミーとの関係、ネイチャーポジティブを踏まえた日本経済・社会のあり方を議論しており、日本としての戦略策定、企業向けの解説資料の作成、取り組みの国際発信などを実施していくことが予定されています。
②生物多様性国家戦略
環境省は、2012年に作成された第5次生物多様性国家戦略の更新版である次期生物多様性国家戦略の策定作業を2020年から進めています。国の生物多様性政策の屋台骨であるこの国家戦略のなかにも、ネイチャーポジティブが組み込まれることが想定されています。検討中の素案では、第1部第3章第1節(1)において2030年までのネイチャーポジティブの実現が記載されており、そのための基本戦略として、以下の五つの項目が掲げられています。
1. 生態系の健全性の回復
2. 自然を活用した社会課題の解決
3. 事業活動への生物多様性・自然資本の統合(ネイチャーポジティブ経済)
4. 生活・消費活動における生物多様性との再統合(一人ひとりの行動変容)
5. 生物多様性に係る取組を支える基盤整備と国際連携の推進
2022年末現在はまだ素案の段階ですが、これらの項目について国として注力していく可能性が高いといえます(参照:次期生物多様性国家戦略素案の概要丨環境省)。
3.ネイチャーポジティブの今後
ネイチャーポジティブはここ数年で提唱されはじめた比較的新しい世界目標であり、多くの人がまだ、この課題についてどの程度真剣に取り組む必要があるのか測りかねているのが現状です。今後ネイチャーポジティブに関してどう向き合うべきか、現状の機運や課題について概説します。
(1)ネイチャーポジティブはますます重要視される
世界経済フォーラムの報告書によると、生物多様性は今後10年において4番目に重大なリスクとされており(1位と2位は気候変動の緩和と適応の失敗、3位は自然災害・異常気象のリスクである)、大きな社会・経済課題と認識されています(参照:The Global Risk Report 2023 p.6丨WEF)。
また、2020年9月の国連サミットで提示された「リーダーによる自然への誓約(Leaders’ Pledge for Nature)」には、2022年末現在、日本を含む94の国と地域が参加表明しています(参照:Leaders Pledge for Nature丨Leaders' Pledge for Nature)。
他方、民間企業においても、売上総額5兆ドルを越える1100以上の企業がネイチャーポジティブの推進を政府に要請しており、ネイチャーポジティブ経済への移行を進める意向であることがわかります(参照:Business for Nature’s Call to Action丨Business for Nature)。
さらに、ネイチャーポジティブの達成には多くのセクターが関連しますが、ネイチャーポジティブ経済への投資と移行に関するビジネス機会は年間10兆ドル規模といわれており、ビジネスチャンスとしても大きなポテンシャルがあるといえます(参照:The Future of Nature and Business p.8丨WEF)。
ネイチャーポジティブは気候変動におけるネットゼロと並ぶ世界目標と目されており、今後個別目標や測定ツールなどが整理されるにつれ、さらに世界のビジネス・政策の標準として認識されるようになると予想されます。
(2)実現に向けて乗り越えるべき課題
ネイチャーポジティブについては、実現に向けて乗り越えるべき課題が多く存在します。その一つとして、現状や施策の効果の評価・測定が気候変動などと比較して難しいことが挙げられます。自然資本や生物多様性の領域において、気候変動における二酸化炭素(CO2)の排出量のような絶対的な単一指標は今のところありません。
また、全く同じ活動であっても、活動場所が異なれば自然生態系に与える影響は異なります。例えば同じビルを建設するにしても、東京の郊外に建設するのと、尾瀬沼の真ん中に建設するのでは自然への影響が異なるのは一目瞭然です。そのため、地域性の考慮が不可欠な要素といえます。
さらに、自然生態系の破壊/保全がビジネスに与える影響は複雑かつ不確実性が高いため、ビジネスにおける経済的なメリットを計算することも容易ではありません。
これらの課題を解決するために、現在さまざまなデータベースや評価手法、シナリオの構築および標準化が進められています。今後必要な情報が整理され、より精緻(せいち)な評価・管理が可能になることが期待されています。
(3)これから企業に求められること 事例からわかる対応方法
現在、気候変動の文脈におけるネットゼロが多くの企業の事業活動の前提とみなされるようになってきているように、中長期的にはネイチャーポジティブも企業の事業活動の前提になると考えられます。
そのため、まず企業が取り組まなければいけないことは、自社とネイチャーとの接点を把握し、自社の事業活動・バリューチェーンが自然生態系にどのように依存しているのか、かつ自然生態系に影響を与えているか把握することでしょう。
そのうえで、いかに影響を低減させ、さらにポジティブな影響を与えるかという観点で事業の構築を考えていくことが望ましいといえます。
なお、こうした企業の取り組むべき事項については、TNFDなどのイニシアチブが一定程度の道筋を提示しているため、実際に取り組むときは参考にするとよいでしょう。
(4)個人にできることは?
ネイチャーポジティブの達成には政府、企業だけでなく、市民ひとりひとりの取り組みが不可欠です。例えば、企業の取り組みは消費者の意識の変化なしでは大変難しくなります。企業努力の末に自然資本や生物多様性に配慮した商品に転換したところで、その商品が消費者に選ばれなければ事業を続けられません。言い換えれば、個人は消費者という役割を通じてネイチャーポジティブ経済の構築に寄与することが求められているのです。
まずは買い物などの日常の行動が、生物多様性や自然資本にどのように関わっているか考えてみましょう。具体的な検討項目については、筆者が執筆した「SDGs目標15「陸の豊かさも守ろう」とは?取り組みや私たちにできること」などをご参照ください。
4.将来世代に負債を残さないために
これまで私たちは多くの自然資産を破壊し、その結果自然がもたらす多くの恵みを失ってきました。将来世代の社会が恩恵を受け続けるためにも、できるだけ自然環境を回復させ、ネイチャーポジティブな社会・経済を構築していくことが現役世代の責務といえるのではないでしょうか。