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鳥取1区・主な候補者の横顔

2009年8月20日

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(届け出順。氏名は原則として日常使用名。年齢は投票日現在の満年齢。年齢のあとのカッコ内数字は当選回数。[比]は比例区重複候補者。〈 〉内政党は推薦・支持)

◆転職して23年、今や天職 石破茂氏(52) 自前(7) [比] 〈公〉

 「石破さんは偉くなって鳥取に来(き)ならんでなあ(来なくなった)。こんな話を聞いたことはありませんか」。陣営の危機感を高めるため集会で自ら支持者にこう呼びかけなければならないほど、この1年で「偉く」なり、「総理にふさわしい人は」と聞くマスコミ調査では選択肢に名を連ねるまでになった。

 父で知事や自治相を務めた故・二朗氏の教えは「偉くなろうと思ってはいけない」だった。「うちの父親なら間違いなく出なかった」。総裁選出馬後、そう振り返った。

 「政治家になる気は全然なかった」とも言う。父を見るにつけ、政治家には個人的な時間は少なく、もうかるわけでもない。「どうみてもいい仕事だと思わなかった」と話すものの、慶応大学時代、弁論部で優勝した経験を持つ。政治家としての素質は若いころから十分目立っていた。

 都銀に就職し、融資の仕事を担当していたが、それが一転、政治家を志すようになったのは、父の死がきっかけだった。「父の友人だった田中さん(角栄元首相)から『お前、衆院選に出ろ』と言われた」。転職の理由はそれに尽きるという。

 総裁候補を経て農林水産大臣。どこに行くにもSP(警護官)が同行する。忙しい毎日が続き、東京の議員宿舎で同居する娘2人とも、すれ違いがちの生活と悔やむ。娘たちは有名人の父とは外出したがらず、家族の時間は、たまの休みにカレーやコロッケを一緒に作っているのだそうだ。

 ストレスがたまりそうなものだが、「テレビ番組に出て(タレントの)太田光さんとワーワー大論争すること」で解消されると話す。演説も自らの考えを世間に訴えて、市民の反応をみることができるので気が晴れるという。「思いがけず」転職して23年。政治家として発言することが最大のストレス発散法になるほど、政治家が天職になったようだ。 (井石栄司)

◆政権交代を信じて歩く 奥田保明氏(49) 民新 [比] 〈国〉

 「個人的な思いを超えて、今の自民党の政治を変えなければ、社会的に弱い人々が報われないと感じ、のぼりを立てた」

 個人的な思いとは石破茂氏への思いだという。政治家を志して弁論術を鍛える雄弁会に属していた早稲田大学4年生のとき、田中角栄元首相率いる木曜クラブで石破氏に出会った。クラブに就職したが、石破氏の総選挙立候補に伴い86年に秘書に転職。94年まで公設秘書を務めた。「同志として歩んできたつもり。今でも『代議士』と呼んでいる」。だから、街頭演説で自民党政治を批判しても、石破氏個人に批判が及ぶようなことは言わないという。

 自民党県議を経て、鳥取市長選に立候補を決めた01年、「中立の立場に立ちたい」と自民党を離党。落選後、復党を促す声もあったが、小泉構造改革路線に疑問を感じ、復党はしなかった。それから6年間、コンサルティング会社を知人と共同運営し、政治の世界から離れた。

 この間、ふるさとの現状について改めて考えた。農地は荒れ、商店街はシャッターが目立つ。「国民の厳しい生活に目を向けなかった自民党の政治。政権交代しかない」。一昨年11月、民主党の公認候補として立つことを決めた。

 政権交代を訴え続けた2年近くだったが、体調を崩したことは一度もないという。「毎朝、妻が用意した青汁を欠かさない。きっと効いているのでしょう」。今年の父の日も遅い帰宅だったが、翌朝、小学生の2人の娘から激励のメッセージカードをもらったという。「選挙が終わればディズニーランドに連れていってあげたいですね」

 趣味は音楽鑑賞。5千枚以上のCDやレコードを持つ。携帯電話の着信音の一つは絢香の「I believe」だ。信じることで歩き続け、街頭演説は2千回を超えた。「勝ちたいという執念が上回った方が勝つと思っている。その執念だけは『代議士』を上回りたい」 (徳永悠)

◆自民にとどめ刺す選挙 岩永尚之氏(52) 共新 [比]

 「利潤追求が第一の社会システムでは早晩、地球そのものが破綻(はたん)する」

 衆院選に初めて立候補した90年は、ベルリンの壁が崩壊した直後で、共産党に逆風が吹く中での選挙だった。それでも、資本主義社会がもたらす環境破壊、格差などへの懐疑を率直に有権者に訴えかけてきた。

 それから19年。ハローワークには連日、職を求める人の長い行列ができ、将来に希望を持てない若者が街をさまよう。「自民党政治がいよいよ行き詰まりを露見している。とどめを刺す選挙だ」。時代の変化を感じながら迎えた4度目の選挙だが、自らの主張は少しも揺るがない。

 大学1年の夏、先輩に誘われるまま、北海道での酪農実習に参加した。毎朝5時前に起床し、朝夕に搾乳。休みなく働いても農家の手取りはわずか。外国から輸入された安い乳製品に押され、大量の牛乳が食紅を混ぜて廃棄されていた。「農業を大事にする政治が行われていない」。人の痛みに触れたことが政治の道へと進む原点となった。

 昨年1月から続けてきた街頭での演説は公示日までに2千回を超えた。しかし、「人前に出てしゃべるのが一番苦手」と言う。小学生の時、周りから推薦されて学級委員長に選ばれ、みんなの前で大泣きした苦い思い出がある。それでも、自分から手を挙げたことはないが、その後もクラス役員を引き受け、大学2年生で共産党に入党した後も県委員会の役職に就いてきた。「やっぱり、頼まれると断れない性分なのかな」と笑う。

 10月には初孫が誕生する。正直、まだ実感がわかないが、先日、街で出会った3人の孫がいるという女性が「この子たちのために、とにかく戦争のない平和な世の中にして欲しい」と訴えた言葉が胸に突き刺さるように残った。「国民のあらゆる苦難を解決する。大げさなようだけど、そこにこそ、自分の生きがいを持ちたい」 (佐藤建仁)

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