開催日 2014年11月28日(金) 12:30~14:30 開催場所 朝日新聞大阪本社 出席者 国広正さん、五味祐子さん、 大阪本社勤務の朝日新聞社員19人 |
【司会】 それでは、時間となりましたので、皆さんおそろいですので、始めさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
本日は、信頼回復と再生のための委員会の委員を務めていただいている国広正弁護士と補佐役の五味祐子弁護士においでいただきました。再生委員会の冒頭、国広委員から、朝日新聞の存在意義というものをきちんと社員一人ひとりが語って、探っていかないことには、頭の中で考えた再生プランの実行はないだろうという趣旨のご発言がありました。
さらにそこを進めて、国広委員から、そもそも朝日新聞の社員が「読者」と言うときに非常に狭いサークルを意識していないかという問題提起もされています。実際に社員の皆さんがどうお考えかを直接話し合って、委員会の審議に反映していきたいということで今回お集まりいただきました。
なお、国広委員はもともと企業の危機管理がご専門ですので、今回一連の問題で非常に拙かった危機管理についても非常に強い問題意識をお持ちです。この辺についても社員の皆様との忌憚ない意見交換をしていただければと思います。基本的にフリーディスカッションの形で進めたいと思います。最初に、国広委員から趣旨説明をお願いいたします。
【国広】 こんにちは。国広と申します。社外委員ということで再生委員会に入っております。このミーティングは、私が希望して設定していただきました。社外委員を引き受けるときに条件を出しました。飾りは嫌だ、ガス抜きも嫌だ、そして、できるだけ透明性を持って、ということです。
これまで社員集会であるとか、若手の4年生、5年生の総局の人たちの集会の傍聴というような形でずっと見させていただいきました。しかし傍聴するだけではなくて、社外委員として、一個人として、今こういうふうに思っているけれどもどうかということをサーブというか、こちらからの考えを出して、皆さんの反論とか同意とか、ご批判などもいただきながら、自分の考え方も整理していくと同時に、皆さんの考え方も整理できればと思っております。
切り口は今のところ、「読者の概念」と「危機管理」ですけど、議論は限定するつもりはありません。営業、経営、いろいろな問題の話を流れに任せてできればな、と思っております。おととい東京で、同じ形でほぼ同じぐらいの人数でやりました。いろいろ幅広な意見あるいは反論とかディスカッションがありましたので、ぜひ今回もよろしくお願いします。
「何が問題か」という問題点の認識の問題、それと「朝日新聞の何が問題か」ということ。それと「じゃあ、どうするんだ」「どうすべきか」「どういう方向にすべきか」という問題があると思います。そこはまずは原因というか問題点と、そして単に問題点を批判するだけではなくて、「再生委員会としてこういうふうに動いてほしい」とか、「これを期待する」とかいうこともおっしゃっていただき、できるだけいい方向に持っていければなと感じています。
私自身のスタンスというのは、再生委員会の委員ということでまずは現状の問題点をしっかりと認識することが前提になりますけれども、朝日新聞が潰れればいいとは全く思っていなくて、やっぱりきちっと再生して、今の日本の言論の中でしっかりとした存在感をもう一度持つようになってほしい。そのためにはどうすればよいのか…と、こういうスタンスです。ただし、思ったことは全部言わせていただきます。ただ言い過ぎることもあるかもしれません。そのときは「言い過ぎだ」とか、「そのとおり」とか、言っていただければと思います。
前置きは以上にして説明に入ります。10月31日というペーパー(※国広委員討論会資料1.pdf)と11月15日というペーパー(※国広委員討論会資料2.pdf)がありますけれども、この2つのペーパーは、私がつくって再生委員会に提出して議論をしたものです。これに基づいて最初に10分ほど問題意識を出し、それから後は流れに任せて、ということにします。
まず朝日新聞における"読者"概念。私は疑問を感じています。朝日新聞のいろいろな関係者の皆さんは「読者の信頼を回復する」と言います。ところが、読者ってなあに? というのが、人によって違うような感じがします。
それで、丸(楕円)がぐるぐると描いてあるパワーポイントの絵が、私の物の見方なんです。一番左側の濃い丸のところ、「コア層」は朝日の大ファンで、投書をしてくるような人や長年何十年も買ってくれている人です。政治的な面で朝日をリベラルとすると、リベラル層というのが「コア層」の外側(多くはコア層の右側)にあって、その外側(多くはさらに右側)に無党派があって、保守層がその外(多くはもっと右側)にあるという図を、モデル的につくってみました。保守層の1と2というのは何が違うかというと、保守であってもディスカッションが成り立つとか、意見は違うけれども議論ができるというのが1。保守層2は、なかなか頑固で議論する相手としてはだめだよねという層。さらにその外(一番右側)は暴力的ヘイトスピーチ層、という図をモデル的に(実際はもっと千差万別なんだろうと思うけど)つくってみました。
そして太丸(=コア層を中心にリベラル層や無党派層の一部までをカバーする楕円)の「読者」にはコア層がいて、リベラルがいて、そして無党派もいる。もちろん保守層の人でも朝日新聞をとってくれる人がいて、もうちょっと外にも広がると思うけれども、"読者"と言うとき、朝日新聞の中で読者の意見とか読者のご批判と言っているときに、このコア層を想定しているとしか思えない議論がとても多いと、私は思います。あるいは、もうちょっと広い、この「読者」という太線の中、ですね。
でも、朝日新聞の何が問題であり、何の信頼を回復し、どうすべきかと考えるときは、買ってくれている人、読んでくれている人だけではなく、朝日の購読者の外にある人たちともディスカッションが成り立たないといけない。つまり、この狭いサークルの中だけでコップの中の嵐を考えるのではなくて、たとえ立場が違う人でも、「敵ながらあっぱれ」といった形で議論が成り立つような新聞にならなきゃいけない。そうであるはずであるのに、どうも議論が収縮収縮して、20年とってくれた人がやめたから何とかそれを"回復"したい、となる。これは、とても大事なことではあるけど、一番ベースにある読者の信頼というときは、やっぱりもっと広く、その少し内側のところまで視野を広げる必要がある、というのが私の考え方です。
そうすると、朝日新聞の記事の特に国民的議論の対象となるような政治的対立軸のあるような事項については、何かコア層とかこの太い線の中という非常に閉ざされたサークルの中での相互承認、相互納得的な記事が(私は30年取り続けてはいるけれどもこの円の中にはいないつもり)そういう閉ざされたサークルの中で、お互いわかり合って納得し合っているみたいなものが多いと感じています。
だから、みんな納得しているので、反対説の人を説得するというマインドはなくなっている。なので、PRCでも言われているような、ストーリー仕立てでみんなが喜ぶ、あるいは事実の検証が甘くなり、ストーリーに沿ったものだけつまみ食いをする。それでも閉ざされたサークル内では承認されちゃう。サークルの外からは非難されるけれども、それは「外からの不当な攻撃」としてしか認識されない。そういう大きな問題があるんじゃないのかなと思います。
それは吉田調書問題に表れています。突発的に吉田調書で問題が起きたのではなくて、例えば「プロメテウス」の相当のものは、私はそういうものだと思っています。原発報道に限らず、非常に相互承認的なものが多い。その延長線上で必然的に起こったのが、私は吉田調書問題ではないかと感じています。これが私の問題提起です。
それから、危機管理について少しお話をさせていただきたい。実は朝日新聞において危機管理の概念が大混乱しているから、いまだに現在進行形で危機管理の失敗を続けつつあると、私は感じています。社長の退任問題はその最たる例ですね。そこでクライシスマネジメント、危機管理を整理しようと思って書いたのがこれです。
第一は、当社の企業や社員に外部から攻撃、危害が及ぶ場合。地震・台風だとか、暴力だとか、あるいは信用棄損、名誉棄損。外から攻撃される危機の管理というものが、1つの分類としてある(①)。しかし問題は、第二のケース、企業の内部で発生した不祥事です。自動車会社でいえばリコールをしなきゃいけなくなるとか、あるいは不正を起こした、カルテルやっちゃったとか。これが朝日新聞でいえば、まさにリコールと同じような意味で記事の欠陥であるとか誤報であるとかそういった問題です(②)。それによって社会の信頼が崩れて危機的状況になる。この2つを分けて考えないといけないと思うんですね。
そして基本方針は、①の「外部から」に関しては、基本的にこっちは悪くないわけで、攻撃からどう防衛するのかということなので、危機管理の主題は、外から襲いかかってくる危機を回避し被害を最小限とすること。こういう行動になります。ところが②の「内なる問題から」発生した危機というのは、原則としてこっちが悪いんですよ。だとするならば、この危機をマネージし乗り越えるためには、自分自身を改革しないとだめなんです。すなわち、内なる問題点というものがあるはずなので、それを自ら認識し、自らの手で克服する。そして大事なことは、その克服のプロセスをしっかりと外に説明するということ。なぜなら、この場合の危機というのは外との関係において信頼を失っていることだから、自分自身の問題認識と問題点の克服の過程についての説明責任を果たさない限りは外の失われた信頼は回復できなません。このように危機管理のやり方は、①と②で全然違うと私は思います。
慰安婦報道の訂正を、これは何十年もやってきたのを変えるわけですから、危機になるに決まっているわけです。そうすると、①じゃなくて②の危機管理のはずなんです。ところで、8月5日、4日の訂正記事を出す「以前」は、「わしら間違っとらん」という形で訂正しないというのが朝日のスタンスだったわけです。それを前提として、慰安婦報道に対する産経やいろいろな人たちの攻撃というのは、①の攻撃だというふうに位置づけていたはずです。ところが、実は記事は間違っていたというところで、局面は全く変わり、②の危機管理を本来はやらなきゃいけない。だとするならば、最初にやるべきことは何か。それは、「何で自分たちは間違ったのか」と検証し「ごめんなさい」をすることですね。この自己検証をしっかりやった上で、じゃ、どう改めるのかというところに真摯に向き合わないと、危機の管理はできないはずなんですね。
ところが、ここがごっちゃになっていて、今まで①でやってきた雰囲気がそのまま残っていて②の観点がないので、あの記事のいきなり1面に、「慰安婦問題を直視しよう」から入るわけです。つまり「俺たちは間違ってないけど、部分的に間違っている。そこだけごめんなさいだけど、全体としてはごめんなさいじゃないんだ」みたいな。結局、何が言いたいのだか分からない、ぐしゃぐしゃ感が出て、謝罪がない、潔くない、言いわけがましいと、こういうことになったんです。
もちろん慰安婦問題をしっかりと、なかったことのようにする論調とは戦わなきゃいけない。けれど、それは別の話。危機管理としては、まず間違いを明確に訂正して、原因を自ら究明して克服する。それがあって次にようやく元の土俵に戻れて、じゃあ戦時下暴力ということでの慰安婦問題をもう1回考えましょう、とやらなきゃいけないのに、ごっちゃのまんまなんですね。
この点について経営陣や編集幹部は非常に混乱をしている。いまだに混乱しているように見受けられます。であるから、まさに池上さんはそこを問題視したんですよ。潔くないですねと。「新聞ななめ読み」の冒頭には、過ちがあったら訂正するのは当然、遅きに失したんじゃないかと。率直に認めろ、潔くないじゃないかと、こう言っている。ところが、これを見た社長さんは、「①の攻撃をついに池上までやり始めたのか」と思った、ようにしか私には思えない。「これ、やめてくれ」と。でも、まさに、自分自身で検証しなきゃいけない事態であるにもかかわらず、そこが完全に抜け落ちていた。このような意味において、池上問題が起こったというのは「痛恨のミス」のように見えるけれど、そうではなく、マインド切りかえができていないことからくる「当然起こり得たこと」と、私は位置づけることができると思っています。
危機管理の失敗ということも深く追及すると、結局、クローズドサークルの内と外で、外からは攻撃、内はお互いなぐさめ合いみたいな、そこのマインドに行き着きます。特に上の方の人たちとか、先頭を走っている人たちのこのマインドこそが、私は非常に大きな問題ではないのかなと感じています。
すなわち、今回の危機的状況というのは、慰安婦報道の問題、吉田調書の問題、池上コラムの3つだと言われているけれども、私は4つだと思います。本質を理解しないまま、あの危機管理というか、危機管理の失敗じゃなくて危機管理不在という、4つ目の状況まで起こっている。そして、これに共通するのが「閉ざされたサークルマイン」ドなんじゃないのかなと思います。ということで今、私からの「第1球」目を投げています。
じゃ、どうすりゃいいのということですけど、1つの方法としては、読者概念というものを明確に定義する必要があるんじゃないか、あるいは自らが「読者」と言うときに、自分はどこを見て読者と言っているのか、あるいはあの人の言っている読者というのはこっちじゃない? こっちなの? と、整理をするのが今後の再生のための第一歩になると感じています。
プロ野球に例えてみると、朝日新聞というのは阪神で(阪神でいいかどうかともかくとして)そして読売巨人軍と戦っていると。そして「読者」というのは阪神ファンなんです。ところが、巨人のファンからも「なかなか阪神やるよね」って思わせる必要があるし、やっぱりプロ野球ファン全体、パ・リーグのファンからも「なかなか阪神ええやないか」と思われる、ここの信頼回復を考えないといけないのです。阪神ファンすら今逃げているから一生懸命阪神ファンのことだけ考えているという、何かそういうイメージを持たざるを得ません。
さらに言えば、プロ野球はあんまり好きじゃない」という一定の人たちとか、ちっちゃな子供がこれから野球しようかサッカーしようかと言っているときに、そこまで取り込むといったようなものすごい広い概念、読者概念、今後の読者みたいな、そういうところもやっぱり見る観点がなくてはいけない。もちろん売り上げが落ちているから、それを回復するのは大切だし、そのための戦略・戦術も必要なんだけれども、一番背後にあるべき読者という概念をちょっと考え直さなきゃいけないと、そんな感じがしました。
これからはもうフリーディスカッションさせていただければと思います。どんな問題でも結構ですので、まずは口火を切っていただければ。
【社員】 私は23年間西部本社の編集局にいて、あと2年が東京だったんですが、自分の経験を振り返って、コア読者向けに記事を書いているという意識は、全く現場ではありませんでした。それは同僚の記者と話していても、あるいは私たちが記者のときのデスクとの会話の中でも、そういうのは一切出てこなかったんです。
じゃ、誰に向けて書いていたのかというと、国広さんのモデル図を見ながらつらつら考えたとき、社会の良識というか、良心、良識であるとか何かそういう部分に、そういうところに向けて発信していこうとしていたと言えるかな、と思います。
私たちが取材していると当然、朝日をとっているけど考え方が全然違うという人もいます。それから、同業他社が私たちの記事を読みます、批判的に。それから取材を受けた企業なり役所なり、その人たちも読みます。彼らが納得するようないい記事を書きたいね、という気持ちはありました。それは西部に限らず、大阪も東京も全部そうなんじゃないかと私は思います。
国広さんがおっしゃったコア読者の話は、おそらく今回の危機対応に関して、担当者、役員の人たちが何を見ていて、どう考えていたかについてのことではないでしょうか。現場の感覚からするとちょっと違うのではないか、というのが私の率直なところです。
【国広】 ありがとうございます。そのような意見、大変歓迎します。これが正しいと言っているわけじゃありませんので。まさに今おっしゃったように、ファンだけではなくて、あるべき読者像というか良識とかそういうところを目指して書くべきだというのは、私はあるべき姿だと、全くその点については同感なんですね。
ただ、私はもう30年、朝日新聞読んでいますが・・・いつからとはよくわからないけれど、ここ10年間ぐらい何か"嫌な記事"が多いんですね。嫌というのは、記事がどう見ても「これはビラじゃないか」と感じられる、学生運動のセクトの中で配り合っているビラのような、そういうふうに見える記事です。
日々の記事全部そうだと私は言っているわけじゃありません。やっぱり目立つ、特に政策論争であるとか、集団的自衛権であるとか、原発であるとか、そういうコントラバーシャル(controversial:論争の、議論の、論争の的になる、物議をかもす)な部分です。もちろん1つの立場に立つのはいいんだけれども、事実の取り上げ方が著しく恣意的だよねとか、見出しのつけ方が著しくセンセーショナルで情緒的、意図丸出しだよねとか、私はものすごくそう感じているんです。
やっぱりまさに今おっしゃったように、現場の記者の方が一つ一つの記事では一生懸命やっているし、そういう記事が多分、8割くらいなのでしょうか。ところが1面スクープ、バーンと出るような大きな記事で、それが著しく目立つと思うんですけれども、どうですか。
【社員】 PRC報告を読んだんですが、吉田調書って私からすると、本来しなきゃいけないデスクワークが全く機能していないというのが最大の問題です。吉田調書という、あれだけ秘匿されてきた調書がそこにあるのに、担当デスクとして読まないという感覚自体が私には信じられないんですね。だから、デスクワーク機能が、本来働くべき編集局として働くべきところが全く働いてないというのが最大の原因だったと思うんです。
現場の記者たちはいろいろな専門分野、西部でいくと沖縄問題、水俣病…とあるんですけれども、現場の記者ってものすごく間口の狭い深いコップの底に入っていて、ディテールの隘路にはまりがちなところが出てくるんですよね、専門的な知識が必要になればなるほど。そこを1回取り出してやってばらまけて、普通のレベルで考えるとどうなんだとやってあげるのがデスクの仕事だと思うんです。それが今回全くしてあげてない。ただ、現場の記者がそうなりがちなのはどこの社でも同じだと思います。現場の記者をそんなに責めるってどうかなという気が若干いたしました。
【社員】 国広さんが感じられた朝日の嫌らしさというのは、それは多くの社員も現場の記者も実は感じるところがあると思うんですが、1つは私が思うには「ステレオタイプな思考パターン」です。これは読者とは関係なく、朝日新聞ってこうだろう、こうあるべきじゃないかという、何か自分の本当の考えとは別のところで支配している朝日像というのが、現場の記者、デスクにはあるんじゃないかなと。これは壊さなきゃいけないのかもしれないですね。
もう1つは、教育ママ的なところです。つまり人間っていろいろな矛盾があって弱い部分もあって人間なんだと、例えば社会部系の記者が事件なんかに行って感じるんですが、それが社論とかもう少し東京の高いレベルに行くと、何かそれは認めちゃいけないんだ的なお利口主義になっている部分がある。おそらくよその社の人間が朝日嫌いと言っているのは、多分にそういう「いい子ぶりっ子」、鼻につくところもあるんじゃないかと。そこは本来変えていかなきゃいけないのかもしれない。
【国広】 実はこの読者概念、いろいろなところでチャレンジングに出して議論しているんですけれども、ちょっと自分自身も考え方が変わってきている部分もあります。特報の人たちと議論をしたんですけれども、読者も見ていない。何かこれが正しいからこうあるべきであって、誰かに合わせるんじゃなくて、信念みたいなものから書いている感じがしました。もちろん全ての記事という意味ではなくて、コントラバーシャルな部分は、ですね。
ということで、僕もこの読者概念は、1つの整理概念としてあり得るのかもしれないけれども、これで全てが説明できるものではないんだろうなと、ここ最近感じているところです。
【社員】 部署が変わると多分違うんじゃないでしょうか。ここも、販売とか広告の方もいらっしゃると思いますが……。
【社員】 今の国広さんのご意見、誠にごもっともです。リスク管理について、何で経営者があんまり理解していないんだろうと共感してしまって、異論を全く感じませんでした。
私、長らく広告局にいたのですが、確かに10年前ぐらいから嫌な記事が多いと言われるんですけれども、やっぱり営業で企業に行くとやっぱり、朝日って嫌らしいよねと言われます。よく言われるのが、見出しの立て方がねちっこいと。例えばトップ企業のシェアが転落したときに、「こけた」みたいな見出しをつけてみたりだとか。
広報は、記者に対しては言えないので、広告の営業に言ってくるんですね、「おまえらの会社何だ」と。一番ひどくなると、「もう広告出してやらないぞ」ということになります。彼らもビジネスでやっているから、完全に広告出稿が止まるケースは少ないですけれども、要は、文句を言われながらお金をもらうみたいな、結構嫌な仕事がここ10年ぐらいはあったように、個人的に感じていました。
今回いろいろな問題が噴出しているんですけれども、10年以上前からずっと感じていたことが全部ひっくり返って今出てきちゃっていて、誰がこれを収拾するのかなというぐらい。嫌なことが全部いっぺんに出てきた感じを持っています。
【社員】 私、編集とか広告、販売とかお客さんとじかに接する部署ではないので、本当に私の個人の思いなんですが、ふだんはあまり読者を意識していません。日々、新聞の品質管理であるとか、どういうふうに読まれているかというのは気にはなっているんですけれども…。
読者層でふと思ったのが、購読料をいただいているお客様という形があるんですけれども、その一方、自分はネットニュースも結構活用します。そこでは例えば毎日新聞が書いたとか、朝日新聞が書いたとわかります。好むと好まざるにかかわらず、僕は読者の一員なんだなと、例えば毎日新聞の読者でもあるんだなというのを認識したことがあります。我々は読者というものを定義づけするけれども、結局、かなり多くの人が読者なんじゃないかというふうに考えています。
【社員】 経営陣が今回こういうことになっていて、本当に危機管理がないというのは昔からだったので、ようやくこういう会が始まったのか、とうとう来たかと思っております。
私自身は転職組で、7年ぐらいほかの企業に勤めて朝日新聞に来ましたので、一読者としていつも新聞を見ています。読者層というよりは、私、この会社に来て一番思ったのは目線だと思っているんですね。例えば私たちが子供としゃべるときに、上から物を言わないじゃないですか。必ずしゃがんであげて目線を合わせて子供たちの意見も聞く。そういうふうにすると思うんですけれども…朝日で私が一番感じたのは、上から目線です。
【国広】 さっきの教育ママみたいな感じですね。
【社員】 本当に読者の目線で見ようとして書いているのかなと、いつも紙面から感じていました。俺たちが書いた記事で、おまえたちに情報を教えてやってるんだぞみたいな、どこかそういうのがあるんじゃないかと。やっぱり読者目線という、相手に合わせるという見方は大事だと思いますね。それがずれてきているんじゃないかと感じています。
【社員】 国広さんのおっしゃっていることは同僚記者も含めて大体認識が共通しています。なのに、結果として違っている。これはなぜか、というところが問題だと思うんです。例えば先ほど記者はそんなに特定の読者を意識しないとか、特定の何かこういう方向に持っていこうとか、そういう意識はないんです。僕より若い記者には、そういうのは全然ありません。
それで上から目線とか何とかという、古市委員がアジェンダセッティングという言葉を使っていましたし、国広さんもストーリー仕立てという言葉を使っています。これについて。
僕は以前、英字新聞の記者だったんです。スタッフには外国人が多いので、新聞に対する考え方、役割に対する考え方が根本的に違いました。僕が以前思っていたのは、新聞は情報、議論の材料を提供するものです。ただ朝日新聞は、社会の木鐸みたいな意識が強くて、それが教育ママ的だと思うんです。
例えばいい話でも、この人は犯罪者だ、じゃあ載せられないな、みたいな。日本の中に犯罪をした人はいっぱいいるのに、載せられない。あと、最近でこそヘイトスピーチって大きなテーマになりましたけれども、これまでは全然載らなかったんです。載せると調子に乗るからというので。尖閣問題が過熱しているとき、中国人の観光バスが右翼に囲まれたことがあったのですが、これは大きなニュースだと思うんですけれども、載らなかったんですよね。
アジェンダセッティングというか、そうじゃなくて、もっとフラットに情報を提供すればいいと思います。もちろん社説とか社の論というのはあってしかるべきなんですけど、新聞の機能というのも、1回見直した方がいいんじゃないでしょうか。そういう議論って雑談レベルではあるんですけれども、我々の役割というのは会社の方針のどこにも書かれていません。
【国広】 論は出してもいいと思うんだけど、その論に導かれた「ファクトとも論ともつかないもの」を「ファクト」として書いてしまう傾向がある感じがするんですね。それで、これまでいろいろ幹部の方とお話ししたときに、複数の人から繰り返し言われたのは、今、日本は右傾化していると。したがってバランス上、我々のような新聞の存在は必要なんだと。これは1つの考え方。
「だから少々事実が緩くてもよい」とはもちろん明言しないんだけれども、その雰囲気は感じられる。しかし、「論」を社説で言う話と、記事にする話というのは、僕は違うと思うんです。明確に、それは論と事実は違いますよねと言うと、「そこはわかっている」とみんな口を揃えて言うんだけど、やっぱりマインドとしてやっぱり論に引きずられて…。もちろんファクトというのは無限にあるわけだし、その中からどれを選択するのかは主体的な選択である。全く論が入らない選択の仕方というのはありません。これもわかり切ったことです。でも、ファクトの取捨選択に裁量権があるといっても、その裁量には自ずと「幅」「限界」はあるはずで、その幅を超えている部分が多いと僕は感じます。これはファクトの取捨選択が「フェア」ではない、という言い方もできると思う。。
【社員】 たぶん外国の新聞と違う点は、記者の権限が非常に小さいところ。もちろん記者といっても実力にかなりばらつきがあるので、入ってきて間もない記者などには当然トレーニングが必要なんですけれども、基本的に記事はバラバラにされてデスクが再構成するみたいなのにびっくりしました。これってたぶん日本のどの新聞もそうなんですけれども、そうやっていくうちにシステムの中で何となく1つの方向ができるのかなって。実際、朝日新聞に入る人って全員がリベラルでもないですし、産経は全員保守でもないですけれども、署名で書いているにもかかわらず、記者個人の権限というか裁量というのは本当に小さいですよね。もちろんデスクやっている方はいろいろ異論もあると思うんですけれども。
【社員】 それは、記事は商品だから、やっぱり文章としてまずければ、直すのがデスクの役割じゃないですか。
【社員】 それは当然ですよね。
【社員】 ただ、それをどこまでやるかというのは…。
【社員】 どこまで、の話ですよね。
【社員】 記者がなぜこれを書こうと思ったのかという理由は大事にしながらも、読者によりわかりやすく、そして日本語としても正しく。この段落はここに置くより前に置いた方がいいだろうというのを直すのは、商品なので仕方ないと思いますが…。
【社員】 ちょっとすみません、揚げ足とるわけじゃないですけれども、我が社の場合は商品になっていなくて、僕は製品だと思っているんです。だって、一個一個の記事で売り上げに変動がないですよ。やっぱりテレビだったらチャンネル変えられるけれども、どんな特ダネが出たからといったって、その日の部数が2万部増えたなんてことはありません。この場合は、製品としてのチェックという意味合いの方が正しいと思いますので。
【社員】 国広さんがどういうレベルの人とお話ししたのかはわかりませんが、ちょっと現場を誤解している人たちが多いのかなと。
【国広】 営業と記者がいるけれども、やっぱり記者だけで2000人いるわけなので、それが全員そうだという話ではありません。もちろん千差万別だと思うし、こういう集会をすればするほど、みんないろいろ考えていることがわかります。だのに、何でこんな記事になっちゃうの? こんな傾向になっちゃうの?という、そこの不思議さを僕は感じています。特に、今回の報道等にかかわった一番の中核的な人たちとか…。さっき8割の記事ではなくて、2割かもしれないと言ったんだけど、単に分量の問題ではなく、そういう傾向は1面のトップをとるような記事とかキャンペーンとかに多く見られるような気がする。
【社員】 例えば特報部の記者たちとも話はなさったんだろうと思いますが、彼ら自身が、ファクトよりも、伝えたい、こうしたいという主張を中心に記事を仕立てていると言ったのでしょうか?
【国広】 言わない。言うわけないですよ。自分たちは絶対ファクトを重視していると言う。けれども、出てきたものがそうじゃないと僕は言っているんです。
【社員】 今回のケースでいくと、やっぱりディテールの隘路であって、彼らはある意味、ちょっと「取材し過ぎ」たんじゃないか(※調書以外の資料との照合を必要以上にやってしまい、隘路にはまったのではないか、との意)と、逆に。
【国広】 ここはちょっと議論していいと思います。5月20日の吉田調書の記事というのは、どう見ても、僕はキャンペーンだと思いますよ。「逃げた」とボンと出ていて、「命令違反」だと。9割逃げたという形で、それを撤退と言い直したりね。第2面を見るとずっとそれが書いてあって、「事実が葬られている」ってね。ずっと読み進んでいくと最後にコラムがあって、「再稼働議論はもう1回見直さなきゃいかん」と。なぜなら「逃げるから」だと。この現実でやるためには「アメリカに頼るのか、どうするんだ」みたいなことを書いて「じゃあ慎重に」と、こう来る。あれは明らかに仕立てている記事だし、吉田所長が「驚いたことに」って、僕見て、どこでどう驚いたのかというと、PRCでも書かれていましたけれども、驚いたなんていうところは何の根拠もないけれども、地の文にそういうものが紛れ込んでいるとかですね。
やっぱりこれ、結局5月20日の記事がどうだとの細かいやりとりになると、取り消すべきだ、取り消す必要がないみたいになってしまう。それはきょうのメーンテーマではないんだけれども、立場を明確にしておくと、あれは仕立て上げた記事で、取り消されて当然だと、僕はそのように認識しています。
じゃ、書いた記者とは、直接ディスカッションさせてもらえないんだけれども、その周辺にいた人たち、例えば「プロメテウス」を書いている人たちというのは、自分たちは論に引きずられてファクトを軽視していますよ、なんて言いっこないんです。自分でもそういうつもりはなく、自然になっているんじゃないのかな、という感じがします。これが朝日の「空気」というものかもしれません。
【社員】 今回社長の特別顧問就任の記事が載りました。特別顧問に就任することの是非もあるんですけれども、記事には木村社長が特別顧問に就任すると、さらっと書いてあったんですね。これを、新聞をとってくれた人がどう読むか。特別顧問って何をやるんだと。これ、我々よく「まくら言葉」というんですけれども、説明する一文ですね、何々をする特別顧問に就任すると、そういう言葉がやっぱり要ると大阪の現場にいる記者からは指摘が出ましたが、東京の編集局長室自体が経営べったりな印象でした。我々現場で働いていて上を見ていて、もう辟易とするところで、何も変わってない。再生のために紙面でいろいろ何かやりましょうというときも結局、大阪も東京の悪しき前例に従って局長室主導で、編集局長を含めたおじさんたちが考えた内容がトップダウンで下りてきている感じがします。若手は若手で話し合いをして、いろいろな意見を部長に言ったところで、反映されることはほとんどありません。ふん詰まりになっているんです、現場からすると。
だから、こういった形で委員に来ていただいて……数カ月で社内の事情をわかっていただくってなかなか難しいかもしれないんですけど、広告とか販売とか他局の方にもわからない部分があると思うんですけれども、かなり根深い部分があります。GE、GM制度というのを続けていますけれども、個人的にはもう廃止した方がいいんじゃないかと思っています。
やっぱり個々の記者の書きたい記事をみんなで吟味して、こうやってブラッシュアップして載せようねという、そういうスキームを考えるべきなのか…それは我々が提言をいただいてから組織的にやるべきことです。しかし多分今のままだと、提言をいただいたところで、結局は局長主導になると思います。彼らは国広さんがおっしゃる読者層でいうと、このコア層のパイがすごく大きかった時代を生きている人たちなんです。私は取材現場を離れて4、5年たちますけど、コア読者層なんて明らかに小さくなっていますよ。
信頼回復再生委員会による社内ポータルの投稿フォームで社員がいろいろ書いている中に、販売店に、昨年末ぐらいから記事についてのクレームが増えたというのを見ました。何でかな?と思ってよくよく振り返ると、あのときって特定秘密保護法の大キャンペーンだったんですよ。東京の局長室主導でトップダウンが多かった。社会面はほとんど、世の中には特定秘密保護法以外に何もニュースがないぐらい大展開していたんです、本当に。
我々もそれでいいのかって思っていたし、家族も、これでいいのかと言っていました。朝日新聞をとっていて、仕事上他紙も読まなきゃいけないから読売・毎日もとっているけれども、一時期、家族はみんな毎日とか読売見て、「世の中こういうふうになっているんだ」という非常に変なことになっていました。特定秘密保護法の問題というのは、憲法改正も迫っている中で、その一歩手前の砦みたいに捉えていたところがあって、非常に力を入れたと思うんですけれども、あれで世の中が引いちゃったというか…。「もう言いたいこと、書きたいこと書きゃいいんじゃないか」みたいな、そういうイメージがついた気がします。
そうなってしまったのは、やっぱり局長室のあり方が原因です。一社員ではなかなか組織のところは変えられません。かなり根深いものがあると感じています。今のボードメンバーも多くが編集出身で、ほとんどが局長室を経て偉くなった人たちなので、局長室の悪口なんて言えません。局長室にいる人にも、そこからいずれボードに上がることを目指している人がいるので、持ちつ持たれつみたいなところがあります。今の紙面の、あえて言えば偏向みたいなのを招いている1つの大きな要因はそこにあるかな、と私は感じています。
【社員】 今のお話を聞いていると、多分ここにおられる方でも、その流れで局長室に行かれたら、キャンペーンみたいなことをするな、という印象です。結局、何が問題かというと、おそらく価値判断の部分と事実の部分が、記事の中でごっちゃになっているということです。国広さんおっしゃられたように、嫌らしいだとか、偏っているという批判を受けて、朝日新聞をとってもらえないというケースが多々あります。多分いっぱいにじみ出ていると思うんです、「事実」の中に「価値判断」が。
それでもとってくれる人がこれだけいたというのは、「朝日さんは、事実をちゃんと調べた上でそういうことを書いているんでしょう」という前提があったからです。その上で、考え方が合わないという理由でとらない人は、それはそれでいると思うし、そこはしょうがない。でも今、「そう思って読んできたけれども、嘘だったんだ」って言われちゃっているわけですよ。その部分をまずはしっかり認識しないと。
ただ報道の必要性があるならば、この問題には切り込まなきゃいけないということであれば、話題によっては力を入れて報道しなきゃいけない場面って絶対あると思うんですよ。ただし、それはあくまで事実に基づいてないといけなくて、そこがどうだったのかということが今問われているんです。お客さんが、信じていたのに裏切られた、というのはそこなんです。別に朝日の価値判断が正しかったとか、そういうことじゃなくて、事実じゃなかった、というところに一番裏切られた感を覚えたんだと思います。
皆さん苦労して記事を書いていると思うんですけど、さっき「取材し過ぎ」という言葉もありましたけれども、取材ってし過ぎるということが果たしてあるんだろうかと…。なんぼでも調べて、その事実に基づいて記事を書いていくんじゃないのかって。それが僕は普通の感覚かなと思うんです。
新聞に必ずしも載っていなくても、ニュースサイトあるいはツイッター、個人の発信する何かだったりで、朝日新聞がこう書いているということはいろいろな形で広がっていきます。そのときに読者層を絞って想定することは多分不可能だと思うんです。ということは、我々は必然的に、もっと開かれた対象に対して恥ずかしくない情報を提供するという姿勢を、改めて築き上げるしかない。これだけの情報化時代の中で情報を発信していく立場としては、それしかないと思うんです。
そういう意味でいうと、僕なりに「読者」を言葉で定義をすると、それは新聞を届けることができる全ての人だと思うんですよ。それに対してメディアは、紙の新聞でもいいし、デジタルでも何でもいいんですけど、少なくとも朝日新聞クレジットがついた情報に触れる人は全て読者として想定すべきですし、そこに恥ずかしくない情報を出していくということが今求められていると、僕は思うんです。
全国に取材網があって、それをお届けする販売網があって、これだけの人が記事を掘り起こして、それを一軒一軒に届けている…この仕組みに基づいて考えれば、読者というイメージもものすごく広がると思いますし、そこにこそ我々の存在意義があると、国広さんの論文を読んで思いました。
販売網と取材網というネットワークを広げることを軸に新しい会社の形を考えていけたら、いい会社になるんじゃないかと思いました。僕は34ですけれども、向こう30年やっていこうと思ったら、そういう形だったら、もしかしたらできるんじゃないのかなと。
我々は朝日新聞を通じて何をするのかというところまで立ち返って、企業理念まで立ち返って考えたときに、読者を相手にして何をするのか、何をお届けするのか、何を発信するのかというところまで掘り下げて考えないと、販売、編集、広告の皆さんとかが一致してやっていこうとは、なかなかならないと思います。そういう意味では、読者の定義ももちろんですけれども、もう1つ、我々が強く誇りを持っている言葉であるジャーナリズムという言葉の意味も、改めて定義した方がいいんじゃないかと思いました。
ジャーナリズムという言葉は、もともとはラテン語のdiurnus、英語でいうdailyの語源ですが、「日々の」とか「日記」とかそんな意味だったそうです。顧客目線が大事と言われる中で、一人ひとりを取材する、この取材対象も今の定義でいえば当然「読者」ということになるんですけれども、その方に丁寧な取材をして事実をきちんと拾い上げる。で、皆さんが取材してきた記事は、ASAの皆さんがきちんとお届けする。地べた感というか、そういうところに軸足を置いて考えていければいいのかな、と思いました。
余談ですけど、ASA、朝日新聞の販売店のことを朝日新聞サービスアンカーといいます。ジャーナリズムの方を調べていたら、ジャーナリストって、データマンと記事を書く人に分かれていました。記事を書く人のこともアンカーマンというらしいんですよね。お客さんと接点を持っている記者の方と、ASAの方たちもアンカーだなって…これは余談ですけど。ふとそれに出会ったとき、もういっぺん我々は、軸足から、下から組み立てていくべきだと、強く思いました。
【国広】 ありがとうございました。
【社員】 もしかしたら皆さんに総スカンを食うかもしれないんですけれども、吉田調書の話なんかを見ていても、私、新聞は客観的になり得ないと思っています。悪しきキャンペーンという話もありましたけれども、ある程度、自分の立場、主張で記者が(それが正義感であったり、社内的な評価なのかわからないですけれども、そういう地平で)取材をすることは、私にはあるし、あり得ることです。これは、そんなに批判されることじゃないと思っています。
今回の吉田調書の記事自体は間違っていると思う、ああいうのはあかんと思っているんですけれども、だけど、本人の言葉や意図が全然よくわからない中で、もしそれが「反東電」だったとしても、その地点に立たないとあの調書はとってこられなかったと思います。それとこれとは別ですけれども、本当に客観的な記事を書くことができるのかなって。
どっちつかずのことを書く方がむしろ見たくない。私は秘密保護法も反対だし、原発にも反対です。東京新聞まで行かなくても、慰安婦報道も私なんか生ぬるいと思っている部分もあります。だから、吉田調書の記者を、そういう目でも見てあげてほしいなと思います。
【国広】 「フェア」であることと「どっちつかず」ということは全く違います。思いを持って取材をして記事を書くこと自体、僕は全然否定していなくて、そうあるべきだと思います。ただしその思い、信念が強過ぎるがゆえに、それに引きずられて(裁量の範囲内で事実を取捨選択するのはいいけれども、それを逸脱して)明らかにねじ曲げているとか、このファクトを引っ張って別のファクトを引っ張らないというのはアンフェアとしかいえない、こういうことを問題だと言ってるんです。つまり、いくら信念なり正義感というものが大事であっても、事実報道としてやる場合は、記者として、プロとして使える事実…そこの公正さ、客観性、つまり「フェア」であることは、僕は要ると思うんです。
公正さとか客観性を欠く、つまりフェアでない記事は、単なるアジビラとの違いがなくなるわけです。
朝日の立場は嫌いだという人は元々いるんだけど、今回はウソをついたというところで崩れているわけです。意図的にウソをついているんじゃない、つこうと思ってついているんじゃなくて、逆に信念が強過ぎるがゆえに客観性を見失ったということじゃないかと、私は思っているんですね。
【社員】 私は、書いた記者よりも、編集センターが止められなかったとか、それを局長室がそのまま通したとか、そっちの方が問題だと思います。
【国広】 そうですね。現場の記者にはズレなりブレなりがあって当たり前です。たとえ強い思いであっても外れたら、そこをチェックアンドバランスすることが不可欠です。そういう安全装置というか、(これはフリージャーナリストが1人で書いた話ではないので)そういう機能が働かなかったという問題もあると思います、原発吉田調書に関していえば。
では、たまたま3人なり2人なりが突っ走っちゃったから吉田調書問題が例外的に起きたことかというと、そうではないと私は考えています。単に記者だけが突っ走るんじゃなく、走る記者がいて、走るデスクがいて、それを通す偉い人がいて…というように朝日全体の構造的な問題があると思う。そして、原発吉田調書問題は例外的な事象ではなく、「プチ吉田調書問題」が朝日の記事の随所にあるような気がします。
【社員】 私は編集と広告、両方の視点から意見を述べたいと思って参加しました。まず朝日新聞って、読者を見つけようとしてこなかったという気がします。読者自体を考えずに、社会全体にセンセーショナルな何かを出すことによって読者がつくんじゃないかな、というぐらいの感覚。何て言えばいいのか、そもそも読者自体を見てこなかったんじゃないかなと。今回、読者というものを再定義するということが新鮮というか、僕らの世代でいうと読者というものをそこまで意識してこなかったと思います。
今、記事を書く記者よりも読者の方が情報を先に持っていることがあります。先に持っているだけでなく情報量が多かったりするわけです。けれども、やっぱり普通の人がその記事を読んだときにどういう感覚になるかという、想像力を持った上で記事を出していくことが大事だと思っています。
というのは、例えば記事を出しました…取材相手や誰かが何かに苦しむかもしれない…それでも出さなきゃいけないのか…ということです。仮にその人が苦しんだときに、もしかしたらセンセーショナルになるかもしれない、もしかしたら社会全体がそういう流れになるかもしれない、そういうことを考えるとき、やっぱり想像力が欠如していてはいけない。多くのクライアントはこちらが書いたことに対して文句を言わないけれども、見出しなどについて、記事を読んだ人がどう感じるかという視点がもう少しあってもいいと思っています。
じゃ、「読者」というとき、その人はどういう人なんだろうと考えたときに、やっぱり普通のヒトだと思うんですね。例えば知識人とかコアのリベラルとか、そういうカテゴリーにはめずに、普通に読んだ人が、「間違ったらお詫びするよね」とか「もっとシンプルに考えていいんじゃないかな」と思うならば、我々も「これはお詫びしなきゃ」と思える感覚…ヘイトスピーチだ、保守だ何だということじゃなくて、もっとシンプルに読んだ人がどう感じるか、普通の読者がどう感じるかという視点で考えた方が、今後のためになると思っています。
【国広】 確かに私の絵というのは具体的に、保守の人、リベラルの人、無党派の人、読者というふうに割と実在的に見ているけれども、むしろ想定読者というか、常識のある普通の人みたいなものを読者として想定するのの「あり」と感じます。ただ、これまでは宅配制度があって一部一部買ってもらう話じゃないから、結局営業が頑張って売れているわけだから、書く側は、自由にというか、あまり読者を想定せず済んだという、現実の経済的なバックグラウンドがありました。が、これからもそれが続けられるのか。
あと、何で僕がこの読者概念にこだわったかというと、今回の問題が起こって以来、いろいろな紙面の検証記事とか、例えば再生委員会の記事ではいつも、「読者の皆様の信頼を取り戻し…」とか「読者の皆様との対話集会…」とか、やたら「読者の皆様」なんですよ、ここ1、2カ月。だから非常にウソくさいというか、何かを感じている面があるんですね。
【社員】 私は、今いっぱい出ている読者との対話の企画を読んで、どちらかというと気持ち悪いと思う方です。一方、上から目線ってさっきおっしゃっていたけれども、"普通の"読者のことを考えるようにするには記者の給料を世間並みにするべきなんです。そうしたら、もっと"普通の"感覚で物を見られます。私も子供が生まれるまでは、スーパーで買うときに値段を気にすることはめったにありませんでした。だから、そういう感覚がやっぱりない。だから上から目線だし、教えてやるというような感覚になる。それぐらい世間と感覚ずれていると思います。
【社員】 国広さんが投げかけたいのは、おそらく読者というものを、私たちがある種の免罪符にしている、あるいは隠れみのにしているんじゃないか、という提言だと思うんです。読者が求めているから、ということで記事を書いた場合、それは本当なのか。それは自分が書きたい、自分が売りたいことを読者が求めているんだと言って、ごまかしているのではないか。言葉が悪いんですが、そのウソくさいところを国広さんは感じ取られて、この問題提起をされたんじゃないのかなと思います。
僕たちは、概念としての読者は知っているんですが、本当の読者を知らないんじゃないのかという思いに至ったんですよね。といいますのも、取材している立場ですと、取材する対象は企業だとか官公庁だとかいろいろなNGOとか、要するに団体です。広告もおそらく企業だとか官庁に行って、個人に営業することってほとんどないと思うんですね。販売は唯一読者に接点があるかもしれませんが、それでも先兵というか最先端にいらっしゃるのは販売店の方々ですね。だから実態としての読者を、朝日新聞の社員は本当は誰も知らないんじゃないのかなと、思うようになってきました。
今回の問題がいろいろ出たとき、本当に大変なことになっていると、販売店の人たちは、まさしく読者と接しているから身体感覚でわかるんです。でも社員の方は、概念としての読者しか知らないので、何か反応がずれています。その違いが如実に出ました。読者というものを本当に考えていたのかどうかを、問い直さないとだめです。また、かつて読者に対しては一方通行でしたが、今もう一方通行じゃありません。読者も発信者であることを踏まえた上で、本当に読者という呼び方でいいのかを、やっぱり考え直さないとだめなんじゃないかなと思いました。
【国広】 確かにそうですね。読者というのは受け取る側じゃなくて、発信もするんですよね。そうすると、産経からたたかれるんじゃなくて、いろいろな人がネットでどんどん発信して、そういう意味で相互チェックがものすごく厳しい時代になったんでしょうね。
【社員】 ネット時代になって、新聞社が今まで考えていた読者という概念が通じなくなっています。朝日新聞って、自社で朝日新聞デジタルというのをやっていて、これだけ広く発信していたら、キーワードというのはもう社会なんじゃないかなと。
そもそも問われているのは、朝日新聞を新聞社として見るか、企業体として見るかなんです。冷めた目で見ると、朝日新聞って企業として要るのかという、そこまでシビアな問題かなと思っています。先日の紙面で、日産の志賀さんのコメントの中に、「うそつき新聞の肩を持つのか」と言われたという箇所があり、経済界の感覚からするとそうなんじゃないかなと思いました。私もいっとき経済部に行って、やっぱり企業不祥事について書いて、それこそ非常に広告局の方にご迷惑をおかけして、取材相手とも相当険悪な雰囲気になったりして、それを肌身で感じました。
ここまでネットの影響力が強くなかった時代というのは、広告出している人は、朝日はうるさい存在だけども、記事も気に入らないこと書くけれども、でもやっぱり影響力あるよね、という前提がありました。朝日新聞社内の空気にも、特に編集局の中にも同じように、やっぱりうちは影響力あるよねと…。それが時代に合わなくなってきて、若干思い込みみたいになっている部分があるのかもしれません。
企業としての社会的責任を、朝日新聞社はどう果たしていくのか…。その中で、新聞をどう位置づけるのか…。そういう視点が必要なのかなと、考えています。
【国広】 こういうところで話したときの「朝日新聞社員の皆さんってこんな人たちだ」と思うのと、偉い人たちは違うんですよ。偉い人たちが悪いと言っているわけじゃなくて、立派な人たちだと思うんだけれども、やっぱりみんな50代より上なんですよね。かつ弁が立つ、かつ実績がある。それって成功体験なんだけど、多分その成功体験モデルが今通じない時代になってきているけれども、にもかかわらずそれに頼っている。
そういう意味では産経だって、読売だって似ている部分はあるのではないかと思います。今回は転び方があまりに激しいから一方的にやられている感じですけれども、多分時代の大きな変革期の中で転んでいる。これ、転ばなきゃ、そのまま行って、「緩慢な死」に至ったかもしれない。だとすると、ある意味、転んでよかったというのは変な言い方かもしれないけれども、そういう捉え方ができるかもしれないですね。
【社員】 業界的にはすごく注目されていると思うんですよ。新聞社としてどういうふうに生き残っていって、経営を立て直していくか、もしかしたらモデルケースになるかもしれないので。
【国広】 他紙は何かきっかけがなければ、劇的には変えられないでしょう。
【社員】 でも全部他紙に先手とられていて、記事の公正さをちゃんとチェックする社内機構を設けるというのも、うちが出すよりも先にやっています。今朝も、慰安婦報道の件で英字新聞のお詫びをやったりとか。うちはやってますよ、やってますよと、さりげなく販売現場でもPRできるものをちゃんと出してきているんです。
実はきょう出席するに当たって、職場のみんなから意見募集したんですけれども、1通しか来なかったんです。やっぱり理由の1つは、社長の特別顧問就任です。本当に、「萎えて」しまった人が多かったんだと思います。社長が特別顧問になって経営から退くとなったものの、じゃ実際にどこまで退くのかというと、週刊誌見て「やっぱり院政なのか」と、そういう感じになっているし…。2000年ぐらいから、箱島社長ぐらいからずっとコストカットが続いていて、社員の人数もどんどん減ってきている中で、何か経営ビジョンがないままずっとコストカットばかりしてきた感じがします。その中でずっと耐えてきた感覚が現場にはあるんですよね。
【国広】 危機管理的にいうと、いまだに朝日では「最悪の危機管理」が継続していると思います。実は、別に隠す話でもないので言いますが、江川さんと私は社長の辞任を委員受任の条件にしたんですね。今、血が出ているのだから、多量の出血を止めてからじゃないと再生できませんということで。しかも今回は、何か現場で不始末が起こって社長が引責辞任というレベルじゃないわけです。吉田調書はともかくとして、慰安婦のあの紙面をつくる決断にも関与したし、池上さん問題は直撃弾を浴びる立場でもありますし。もちろん引き継ぎとか、次を誰にするかというところである程度猶予期間は必要だろうから、しょうがないということで受けたんです。そして、その辞任というカードがようやく切られたと思ったら、特別顧問ですよね。これ、私、椅子からずり落ちましてね。辞めるというカードを切ったことになっていないわけですよ。
【社員】 多分みんなそうだったと思います。(笑)
【国広】 もちろん説明はあったんですよ。特別顧問というのは、名前は仰々しいけれども、実は実権がなくて、役員OBは普通の顧問なんだけど、社長だから特別顧問で、それ以上の意味ありませんと。でも、それってやっぱり世間というか、読者というか、社会というか、外を見てない、全くの内輪の論理ですよね。
しかも危機管理上まずいのは、第三者委員会は、まだ報告書を出していないわけですよ。第三者委員会がどう書くかわからないんですよね。そうすると、「池上コラムの不掲載は社長主導だった」と書かれたときに、その人が特別顧問で残っていましたなんていうと、もう1回特別顧問やめなきゃいけないみたいな話になって…。つまり、辞任が問題解決になっていないのです。
僕は再生委員で、危機管理のアドバイザーの立場で関与はしてないんだけれども、見ていて脱力をしています。再辞任するなんていうのは最悪ですよね。でも、そういう状況だってあり得ますよね。ちょっと想像を絶するレベルのまずい対応だと私は思っています。
【国広】 本質的な問題というのはスパッと見えるわけではありません。今は読者概念という切り口で入ったけれども、デジタルの問題であるとか、お客さんの問題であるとかいろいろ出てきました。もちろんここで結論を直ちに出せる話ではありません。
ちょっと一歩進めて、国広、おまえ社外委員で再生委員なんだから、こういうことやれとか、こういうこと言ってほしいとか、私はこう思うんだけどという、再生に向けた具体的な話をしてみましょう。
12月末に、最終ではないけれども、大きな方針みたいなものを出すのが我々のミッションです。ただ途方に暮れている面もあり、何がどこまでできるかは自分自身でも胸を張って言えない面があります。皆さんが再生委員会なり社外委員に期待するものとか、具体的なプランとか、コアになるのはこれ、みたいなものは何かありますか。
【社員】 やっぱり経営陣というか上の人たちの若返りを図るというのが一番で、そこに多様性というのを入れる。今の上の人たちは昭和においしい思いをしてきた人たちで、旧態依然とした価値観で今やっているわけで……。
【国広】 僕も同じようなものですけど。
【社員】 いやいや、すみません。
【国広】 いやいや、いいです。
【社員】 さっきの読者の概念でも、私は読者を、新聞を宅配で購読している人だと思ったことなんか一度もありません。ずっと世間、社会に向けて書いている。むしろさっきの図でいえば、ヘイトスピーチ層に当たる人たちまで含めて、どうしたら届くかということに気をもみながら取材をしてきたので、そう思われているんだと知ってすごいショックです。逆に、読者とは買ってくれている人だと思っている方がいるのかと思うと、これもすごいショックです。
「読者」は、社会の良識とかそういうところだと思います。だけど、やっぱり上から目線と言われるのは、いい思いをしてきた人たちが、365日24時間働ける人が上り詰めていったことがあると思います。そうじゃない、いろいろな多様性を持った人たち、それは女性だったり、いろいろなパターンがあると思いますが、若返りを図る提言をぜひしていただきたいと思います。
【国広】 「経営層」と言うとき、概念上2つあると思うんですね。経営をする取締役というのと、編集の最終責任を負う人たちと。その両方を含めた話ですよね、今は。
【社員】 編集局では、電話1本ですぐに出動するような人が重宝されるという傾向があります。だけど、そうじゃない、いろいろな人がいるからこそ、上から目線ではない、普通に生活している人たちの目線で記事ができるわけです。さっき客観性って話が出ましたけど、記者というのは、それが「ニュースだ」と思った時点で、もうその人の価値観が入っているわけです。そうなると、「ニュースだ」と思う人には、いろいろなタイプがいた方がいいと思うんです。それが今までは、ある方向性を持った人ばっかりが集まっていたと思うんです。それを判断する人も多様な方がいいと思います。
【国広】 確かに多様性という切り口って大事かもしれません。同質的な人たちがデスクでチェックしよう、記者がこうだとやっても、みんなで少しずつずれて、結局大きくずれますから。コーポレートガバナンスでも言われるんですけれども、多様性が、ある種の客観性にも結びつくし、説得力にも結びつくし、あるいは抜け落ちがちな視点を出していきます。そこは非常に大事だと思いますね。
【社員】 具体的なプランではないんですけど、信頼と再生というときに、誰の信頼、今でいったら再定義された読者なのか国民なのかはわかりませんが、どこからの信頼がどれぐらい取り戻せましたって効果測定ができた方がいいと思っています。
私、入社2年目なんですが、販売だの、広告だの、新聞という製品あるいは商品を売ってくれている同期の話を聞くと、今は商品にケチがついてしまったので自信を持って売れないと思うんですね。自分は内勤系職場にいるのでそういったことはありませんが。こういうとき、「これはいい新聞なんです」と自信持って売るためには、このぐらい信頼回復しました、自信持って売ってくださいね、という話ができなきゃいけないと思います。効果測定をしっかりしてほしい、という意見です。
【国広】 非常に大事なご意見だと思います。再生委員会で、その議論も若干しました。抽象的に、読者の信頼が回復しました、ではいけない。再建の道筋がつきつつあるから俺は特別顧問になるとか、ああいうとんでもない言葉が出るのは全然客観性がないからですよ。僕は全くそうだと思います。
【社員】 先ほど役員人事の話がありましたが、今のところ発表されているのはまだ案で、株主総にはまだ間に合うので、案のたたき直しをお願いしたいということがまず1つ。
僕らは、向こう30年の社員人生を懸けて今日ここに来ているわけです。そんなつもりなのに、平気で居座っている人がおるんだとしたら、はっきり言って期待できないですよね。
その上で、そんなネガティブな話ばっかりしていても嫌なので、未来のある話をしたいと思うんです。僕は朝日新聞社の一番の強みは、日本中に張りめぐらされている取材網と配達網だと思っています。つまり、ニュースを掘り起こして、それを届けるという網がばっちりできているわけです。日本全国どこの土地を踏んだってそれができるわけです。そこに当然人が住んでいて、その一人ひとりをきっちり丁寧に取材をして、それを届ける。例えばきょうの新聞を見て、「あ、こんな人がどこどこにいてるんだ、この人に会ってみたいな」となったときに、我々がつないであげるとか。そういうことでいい取り組みが広がっていって日本全体がよくなっていくみたいな、そういうところに我々は貢献をしていきたいと、僕は思っています。それができるだけのコアコンピテンシーがあると思うので。
【国広】 すごいインフラを持っていますよね。人と販売網と取材網という。
【社員】 お客様オフィスと広報とブランド推進とマーケあたりを一元化して、読者からの声を紙面や企画に生かす部署をつくってはどうか、という提言もあると聞いたんですが、結局それは、取材網と販売網という朝日新聞ネットワークみたいなものの中枢をこしらえようということだと思うんです。だから多分、同じようなイメージを持っている人はほかにもいると思います。これはぜひ実現していただきたいし、そういうふうに変わりますというのを僕としては、我々の情報が届く全ての人に見せたいと思います。
【社員】 疑問なんですけれども、新聞をとってくれている人を取材するということですか? 今、日本隅々まで取材に行っているわけで、何が違うのかな? という。
【社員】 いや、そこは「つながっていない」でしょうという意味です。
【社員】 「つながっていない」というのは?
【社員】 新聞を媒介として人と人との「つながり」を強めていこうということです。概念的な話です。
【社員】 やっぱりこの会社の極端に悪い点は、マーケティング思考がほとんどの部署でなされてなくて、唯一やっているのが広告局か一部の限られたところ。そこが、朝日新聞ってこのようなモノですよ、というのを出しています。再生委から、実際にマーケティング的に、理屈と数字と合致した形で方向性が示せるものが出されるといい。例えば、「読者のモデル像はこういうデータだ」などは誰も共有していません。それぞれ部署が思い思いの読者像でやっているので、これを数値的、客観的に分析できるようにつなげていってもらいたいなと思います。
【国広】 今おっしゃったのと似た意見が一昨日の東京での討論会でも出ました。2つありまして、先ほどの、再生の効果測定という意味合いの数値的な問題というのが1つ。もう1つ、リアルタイムで、記事がどう受けとめられているだろうかという点。結局、新聞をとってくれましたといっても、毎日毎日の新聞のどの記事を読んでいるかがわからないのです。ネットだと記事ごとにわかるわけです。
消費者、社会、世の中が具体的に何を読んだか、それを何らかのIT技術を用いてリアルタイムに把握できれば……それに迎合しろと言っているわけじゃなくて、例えばものすごく変な方向に世の中の人が動こうとしているなら、そうじゃないようにもっと頑張らなきゃいけないという使い方もできますし、あるいはそれを参考にしながら、自分たちの姿勢を変えるという、ある意味で価値中立的なリアルタイムマーケティングみたいなことができるのではないでしょうか。単にお客さんとして広告出してくれるかどうかのマーケティングだけではない意味において、「読者のモデル像」は、いわゆるカッコつきの「読者」なり社会の意識という、何かそういう概念ということでいいんでしょうか。
【社員】 ちょっと前に木村社長が、14版なくそうかみたいな話を出してきたけれど、何の裏づけがあるのかわからなかった。とにかくリストラをするという目的があって、みたいな。その話はなくなりましたけど、支局やいろいろな部署で人が減らされることになるんでしょう。裏づけが何もないまま、10年前とか15年前ぐらいの業務量をやれと言われ、みんな責任を感じているけど回らなくなっているようなところは多分にあると思います。そういうものの可視化というか、ちゃんとデータに基づいてとか、議論の結果として再生のプロセスに入っていくんだというのがないと、何となく理屈や総論はいいんだけど、各論としてはちょっと……。ちょっと不安を感じています。
【国広】 ビジネスモデルがネットの時代でものすごく変わってきて、新聞社にもマーケティングの概念が必要になってきました。ところが、ビジネスなんて下賤なものだ、要するに、論を正しくしていけばいいんだ…とまでは皆さんおっしゃらないけれども……。ビジネスモデル改革と編集の姿勢とか、読者であるとか、あるいは論とファクトの峻別みたいなものというのは、一応概念上は別のように見えるし別なんだろうけれども、連動しているような感じもします。再生策を考える場合、両者を連動させるようなアイデアなり切り口があればいいなぁというイメージを持っております。
【社員】 入社したときから貴賤があるのは感じていました。「ビジネス部門は格下だ」みたいな。当時は業務部門と言いましたけど。そこが結局マーケティングというものをとり入れるときに大きな障害になるのではないでしょうか。「まず社論(ジャーナリズム)があって、売れるか売れないかはどうでもええねん」と言う声がいっぱい出てくると思われます。ビジネスとしてやっていく部分の部門間での相互理解が必要だと思います。
【社員】 結局、収入を得て記事を出しているという考え方を主体にしなきゃいけないと思うんですね。商品を出していくということでいうと、いかに新聞を読んでもらうかが一番大事だと思っています。ということは、記事をどうやって読んでもらえるかを、まずは考えなきゃいけないと思うんです。例えば30、40代が集まって、編集局じゃなくて全社的に話し合いを持つ。それはマーケティングの視点も必要だと思いますし、今後ネットでどう読んでもらえるか、お金を払ってでも読みたい記事をいかに紙面化していくかという視点が大事だと思います。
【国広】 再生委員会には限界があって、一個一個の施策というよりは、若手であるとか、新しいネット時代とか、今後30年についてとか、そういうアイデアが実現するための装置をつくるのが我々の役目だと思うんです。それによって何をつくるかは僕らが決める話ではないし、委員や、年齢層の高い人たちが決める話でもありません。
【社員】 日産の再生プランを読みました。9つクロスファンクショナルチームができて、30、40代を中心に集まって案をつくり、それが社長に上がっていって再生プランになったと。社員全体がこういうことをしたいよねと考え、それがリンクする…。朝日も全社で30、40代とかで議論をして、そういうチームをつくって、意見がうまく反映されるような仕組みをつくって、となれば。
【国広】 ガス抜きじゃなくてね。
【社員】 今おっしゃったことは、上が変わらないと結局できないんじゃないですか。こけた、転んだという表現がありましたけれども、「信頼回復と再生のための委員会」の位置づけは、転んだことをきっかけにきっと再生しようということだと思うんです。でも、「信頼回復」と「再生」って切り離せないとは思うんですが、ちょっと違うと思うんですよね。そこが常にごっちゃになっています。今までおかしいと思っていた朝日新聞の立ち位置、良識の問題のところ、誰に向かって書いているのか、社内的な構造的な問題、縦割り…、そういうことが噴出しているんですけれども、それを読者の方あるいは世間一般の方が聞いたとして、何%が理解できるかなと思うんです。
彼らからすると、それはお任せでいいと。例えば牛乳。つくり方はこれがこうでこうでって、もちろんそれは公表していくことは大事だけれども、詳しいことはよくわからないけれども、信頼していて飲んでいた。だけど公表されていたことが結局うそだったと。しかも何年も何年も…何でこんなに時間がかかったのか、というのがやっぱり一番引っかかるところだったんですね。外敵から身を守るがために隠してしまうという体質がずっと続いてきたんじゃないかと。それが遂に露呈してしまったので、今まで自分が飲んでいた牛乳に毒が入っていた、みたいに思われた。そういうことだと思うんですよね。
だから、そこのところを回復するのと、経営をよくするということは違います。トップの方々にとっては一緒の問題かもしれないませんけど。
新聞がどうあるべきかとか、メディアがどうあるべきかとか、ジャーナリズムがどうあるべきかという話は永久的にしないといけない話ですよね。これらは転んだからする話じゃないですよね。だから、それはちょっと別に考えていただきたいなと思います。構造改革と、読者がどう朝日を見ているかという自分を鏡に映して見るということは、切り分けて考えた方がいいと思うんです。
【国広】 この「信頼回復と再生のための委員会」の名前がこれでいいのか、という点も相当文句を言ったんですけれども、押し切られちゃいましてね。まざっているんですよね。
【社員】 そう、まざっている。
【国広】 しかも委員会が3つあって、ぐちゃぐちゃでしょう。
【社員】 今まで読んでくれていた方とか、朝日って嫌いだけど影響力あるじゃんと思っていた人たちも、「今回はちょっと痛いよね」「相当迷走している」と言う。好敵手だと思っていた人たちも、「あれ?」みたいな感じで見ています。本当に悔しいです。今の特別顧問の話も、「やっぱり変わるつもりはないんですね」と見られていると思います。それこそ数値的に、どう思われますか?というアンケートをとったら結構おもしろい結果が出るんじゃないかなと思います。そこまで真剣に変わりたいと思っているのかどうか、今やっていることからは何も見えてこないというのが、現場の一社員として思ったことです。
【社員】 私、1年目で、会社のことをそこまで知っているかと言われると…例えば就職活動生としての目線とか、うちはずっと朝日新聞をとっていたので、読者からの目線ならあると思うんですけれど…。今後私は、役員の人たちと違って数十年間はお世話になる予定ですので、期待したいのは、中長期的に、社内の中でも外部からでもいいので、自己検証される仕組みができることです。定期的にあることを望んでいます。
メディアについて誤報はつきものなんでしょうけども、その都度その都度、反省しよう反省しようと言っておきながらも、結局のど元過ぎればまた問題がバーンと出る。自分も入社1年目でこれから頑張ろうというときに、あれ? となって…。今、「うちの会社でこんなことを言う羽目になると思わなかったけど、やめないでね」と、販売の同期たちが言われています。今後また5年とか10年とかたてば、また自分もそのとき入ってきた後輩に「やめないでね」と言うような状況になるのかなって、率直に思っています。こういった会合が、社員の全員で考える機会があることが、すごく望ましいと思っています。
【国広】 年内にピリオドを打って新しい年を迎えたいという気持ちが強く感じられるんですよ。それはそれでわからんではない。企業なんでね。でも、そこでなかったことにするとか終わりにするとかじゃダメ。忘れちゃダメ。当然ある種のモニタリングが必要なんだけれども、基本的には例えばこういう会を装置として置いといて、常に批判的に検討するのがよいと思う。逆に皆さん側にも持続する志が必要になってくると思うんだけれども、そういう装置も必要な気がするんですよね。
それは同じ部門の中ではなくて、営業も記者もみんな一緒になって、しかも、「果たしてこれ、我々は再生ができているのか」みたいなところを、定期的に横断的なチームでやっていくというような。それも再生委員会が1回結論を出したので、3カ月に1回ずつ会合やって有識者のご意見を伺いながら我々の再生を検証します、じゃダメです。やっぱり俺たちは本当に再生できているのかと、あるいはこういう施策をとるべきじゃないか、みたいなことを繰り返さないといけないでしょうね。忙しいからそれはもう今年限りで、みたいになっちゃ、多分5年後に同じことが起こるような気がしますね。
【社員】 提言として社員から出ていますが、社外取締役の設置は切実な問題だと思っていて、今回定款だけでも変更するのかなと、個人的に見ていたんですけれども、定款すら変更しない上に、社長が特別顧問になるというのは…。やっぱり変わる気がないんだなと思いました。
これまで報道姿勢として、いわゆる社会正義みたいなものを私自身も記者として持っていましたし、厳しいペンをとってきたことも事実です。そのことで他部局にご迷惑をおかけしてきたことも事実なんですけれども、やっぱりそうやってきた会社だけに、今のままだと社外に対して示しがつかないなと思っています。
今回、仮に社内の論理が優先されて緊急避難的にこういうボードの位置づけになるとしても、やっぱり早期に社外取締役を置くべきです。会社としてホールディングスを指向しているのは目に見えていますから。こういう会社にしたいというのをある程度、社員とボードで共有できればやっぱり前に進めると思います。今のままだと何となく無借金の大船には乗っているけれどもいつ死ぬかわからないみたいな、漠然とした不安があります。
【社員】 私はこのたびの件で誰かを非難とか誹謗したりする気もないし、今の役員に対しても申し上げることはありません。こういうことになって、これからの会社のありようとか組織体系とか形について皆さんがいろいろ意見をしていますが、それをきちんと僕らが実現していかないといけないと思います。
議事録にいろいろなヒントが実は隠されています。やっぱりそれを僕らは直視しないといけないのかなと。上がやるとかやらないとかじゃなくて、本当の意味で僕らはやらんといかんのかなと。そういう気持ちでいます。
【社員】 社員集会のときにも提案したんですけれども、すぐに明日からでも始められる改革案として、訂正記事のやり方の変更があります。今、訂正記事って、そこに、申しわけありませんとか、お詫びして訂正しますとか、そのお詫びの姿勢が全く入っていないというのに前から違和感を持っていました。
実際に記者たちは本当に謝るのが嫌いなのかと、そんなに謝りたがらない人種なのかと思っていました。しかし総局で2年間記者をやりまして、そのときに訂正記事のやり方を間近で見ました。そうか、こういうふうにやっているのか、訂正申し立てが回っているのか…と。そのときにみんな、書いた記者は「本当すみません」とデスクに謝っているし、校閲に当たった記者も「僕も気づかずすいません」、デスクも総局長に謝って、総局長も局長室に「申しわけない。二度とないようにします」と言っていました。それだけ謝っているのに、紙面ではごめんなさいが全然出てきません。
そこがやっぱり最初に国広さんおっしゃったように、まず読者を見ているのか、まず読者が誰なのかと。間違いの対象になった人に対してその記者が、「本当にすみませんでした。今度、訂正載せますので、申しわけありませんでした」と言ったとしても、記事を読まされている大勢の人には謝っていない。これはやっぱりすぐにでも改めるべきじゃないかなと。たかが、「お詫びして」の5文字が増えるだけの話なんですよね。
テレビのニュースでも、間違ったら、アナウンサーが「先ほどの表現をお詫びして訂正します」と言います。まずそういうところから、まず我々はどこを見て謝るのか、なのです。ちゃんと読者に対して謝るということ、これを若い記者のうちからやっていれば、今回のような慰安婦の記事を取り消すといっても、明確に謝っていないというようなことは起こらなかったんじゃないかなと思っています。
【社員】 それは始めようとしていて、現場レベルでは明日にも、と言っているんですけど、結局成功体験を持っているおじさんたちが壁になっています。訂正記事は紙面を汚すもんだという長年の観念が消えないのです。一番下の目立たないところで、しかも通常行間で流せばいいのに、なるべく行間を詰めて目立たないようにって。百何十年新聞を出してきている中で、なかなかそれは変えられません。本当はそこから変えなきゃいけないんですけれど。
【国広】 断固としてやりたいと私は思っています。訂正をこっそり出しても、何をどう変えたかわからない。まだ確定ではないけれども、訂正欄というものをしっかり設けることです。間違いの理由とか経緯もできる限り出して、一覧性のあるものにするというのは、ほんとうにすぐにでもやるべきことだと思います。
再生委員会の答申が12月に出てから実行します、みたいな感じだけど、本気でやろうと思ったら、それは来週からやりますとやった方が、「おっ、朝日もいいよね」と思われるはずなのに、やっぱり……。
【社員】 何となく全ての基準が1日1日からになっている。
【国広】 そうそう。
【社員】 販売、広告、その他の局も、年が明けたら反転攻勢だ!みたいな雰囲気に今なっているんですけれども……。
【国広】 訂正欄をつくるって、準備が1カ月ぐらいかかるんですか。
【社員】 いやいや、作る作業自体はすぐできます。
【社員】 さっきから朝日のおじさんという言葉が出ています。特に編集局の人はみんな記者、若手、現場は良識を持ってやっているはずだと言っています。良識を持った記者から、デスクになって、部長になって、局長になって、編集局から社長が出て、ボードメンバーの大半も編集局出身で占められています。では良識のある人たちからどの時点で、朝日の困ったおじさんになってしまうのでしょうか。すごく気になるので、ぜひこの委員会でも、例えば管理職、部長、局長だけとか、あるいは経営陣だけというグループでこの会をまたやっていただいて、どんな発言が出るのか聞いて公表してもらいたいと思います。
【社員】 社員何千人に声を聞いていても、多分私たちの意見とそんなに変わらないと思うんです。じゃあ、みんなが責めているおじさんというのは何なのか。だって、私たちはだんだん、おじさんだかおばさんだかになっていくはずです。私たちは頑張っているけど、上の人たちがおかしいと言うんじゃなくて、私たちもその一員かもしれないというちゃんと自覚を持たないといけないんじゃないかと思うんです。
経営のセンスがある人がボードメンバーになっているかというと、やっぱり危機管理ができていない。8月の時点で、部数が大いに減ったりとかクレームが大量に来たりということは十分予想されました。誰が考えても予想されることだったと思うのに、それに備えてこういうキャンペーンを用意しましょうとか、そういった指示は、私の知る限りでは現場には一切なかったですよね。例えば部数をキープするためにこういう対策をしましょうとか、そういうことは一切下の方には降りてこなくて、突然きょう記者発表があるらしいというのを当日社員たちは知って、そこから、じゃあ何をするのかって。
その後も、イベントをやる部署は、来場するお客様に危害がありそうだったら通報しましょうみたいな、それぐらいの対策くらいしかできていないので、それでいいのかなという問題意識があります。だから、経営陣の人たちが本当に部数をキープして売り上げを増やしたいと思っているのか、それとも、やっぱり紙面だけでジャーナリズムとして信頼を回復しようとしているのかというところを、ちゃんと行動指針を示してほしいと思いますね。
【社員】 仮に部数が50万とか60万と減ると、それは工場1つ2つ必要ないというぐらいの部数になります。ということになると、我々の働く場がなくなるというところで、すごく危機感を持っています。
前々から何かできないかというのはずっと考えていて、いろいろな取り組みを進めてはいるが、なかなかいいビジネスモデルが立たない、立てられないというのが正直なところです。
先ほどどなたかが言われたと思うんですけれども、情報をとる部門があって、それを売る部門があって、いろいろな方が集まっているのが新聞社だと思います。今回の再生プランでも、いろいろな方が集まって新たな仕事をつくっていく場を設けていただければな、と思っています。
工場の人間は、次どこに異動になるか、自分の工場がなくなるんじゃないかと不安に思っています。ある程度覚悟はしているんですけれども、最近の変化は急激過ぎて、正直、自分の人生設計がみえなくなってきているのが実情です。再生委員の方々及び経営陣には今後どうやっていくか、明確に道をつくっていただきたいと思います。
【社員】 私は生産工程の管理をする職場におる者です。紙面が降版されてから印刷工場で印刷をしてASA、朝日サービスアンカーに届くまでを管理している部門なんですが、商売柄、現読者の方に対して約束された時間に新聞がきちんと届くことによって、我々はお客様との間で信頼を構築してきたと思っております。
先ほどからずっと、読者概念の再定義から始まって、社会全体へどう貢献したらいいか、そしてどう信頼を勝ち取ったらいいかと話が来ましたが、そこから少しずれて、私はやっぱり現在の読者の信頼をどう回復させていくか、もうそれだけで頭がいっぱいです。ですから、社会全体への貢献、信頼回復とともに、ぜひとも現読者とどういった絆を深めていくのかを、社員全員自分にどういうことができるのか自問自答しながら、考え直す機会を与えていただきたいと思っております。
【国広】 読者を多層的に粒々で見る場合、あるいは現読者で見る場合、あるいは想定したあるべき読者、一般の読者とか、どれか1つじゃなくて、いろいろな場面場面で、今この意味で使っているんだよって認識することが必要だと思います。
【社員】 僕、編集に行って、朝日新聞の名刺の威力ってすごいなと思ったんですよ。その名刺の威力で、何十年もやっていると感覚が狂ってくるんじゃないかなと思うんですね。人事交流はいい仕組みなので、もう少し広げて全員やるのはどうでしょうか。やっぱり販売部門とかビジネス系の部分に1回記者の方が来てみて、逆にビジネス系の部門も少しだけ編集記者になってみて、お互いのよさとか、お互いのすごさとか、お互いの違いとかをすごく認識すると思うんですね。同じ会社には思えないぐらい違うと僕は思ったんです。
国広さんの本を読みました。『修羅場の経営責任』です。危機管理の専門家である国広さんにお聞きしたいのが、週刊誌にうち情報がぽろぽろ出るというこの状況はどうなんだ、というところです。
【国広】 こんなに社内の情報がダダ漏れする会社も珍しいですね、率直に言って。それは何なんだろうかというのはよくわからないんですけれども…。統制が効いていないから自由だといういい面が濫用されているという好意的な物の見方もできるけれど、やっぱり鬱憤が溜まっていて、俺は本当はもっと高く評価されていいはずなのに、それがわからない経営陣のバカタレ!みたいな感じも…。これ、いろいろだと思います。
これは全然わかりませんけれども、他紙は逆に統制がきいていて、そんなことやったら殺されちまうみたいな恐怖感があるのかも。それがないところが僕は朝日新聞のいいところだとは思うけれども、やっぱり隠すのはいかんという話と、ダダ漏れでもいいという話は全然違う話だろうなと。
だから、ダダ漏れがあるから、例えば情報の共有自体に制限をかけざるを得ないということに正当化の根拠を与えるようでは、非常にまずい。じゃ、どうすればいいのかはわからないんだけれども、危機管理がとてもやりにくい状況です。例えば大きなキャンペーンをやる場合に「もっと輪読」とか言うんだけど、そうすると「いや、漏れちゃうし」となる。だから、このダダ漏れ状況というのが本当にこれからの大きな足かせになりかねないなという危惧感は持っています。
【社員】 それに、社外の信頼を失う気がするんですよね、あそこの会社大丈夫なのかなと。取材に応じてくれる方たちから見ても、やっぱりそこまで漏れるのってどうなのと……。
【国広】 直ちに取材源の秘匿とは結びつかないけれども、でも、連想しちゃいますよね。
【社員】 例えば取材先が企業だったり、組織だったりすると、ちょっと信用できないんじゃないかと思われてしまうと思います、今の状況では。
【国広】 そうですね。
【社員】 私、隠すからこそ、みんなが言っちゃうと思うんですね。あまりにも情報がなくて、今回例えば9.11の記者会見も全く知らなかったんですよ。「今、社長が記者会見しております」なんていうメールがあったんですよ。でも普通は、前日なのか朝に、今回こういう形で社長が記者会見しますということを社員に知らせるべきだと思うんですよ。「おまえたちに言うと全部ばれるから知らせない」じゃ……。上は我々社員のことを全く信頼していないのでは。
【国広】 何か悪いスパイラルになっていますよね。
【社員】 信頼してもらえれば社外に漏らさないと思うんです、基本的には。あまりにもそこが、おっしゃるように負のスパイラルが来ているなと、本当に常々感じます。
【社員】 信頼回復再生委員会の中身については、プリントアウトできる方がいい。画面でずっと十何ページワードを見るのは目にも悪くて…。いい提言とか、ヒントになりそうなものがあるので……。
【国広】 今回、本当はビデオに撮ろうと僕は最初提案したんです。ただ、それはありがちな議論なんですけれども、ビデオに撮られると発言がしにくくなる人がいるということで、議事録形式になりました。
第三者委員会とは違うので、この取り組み自体の中で苦しんだり、いい意見が出たり、いいアイデアが出たり、だめな問題点が指摘されているということが共有されること自体も、再生のプロセスの1つだと思っています。ほかの委員会に比べて、この事務局は、総体的には一生懸命情報を出そうとはしているのかなと思いますけれども、若干スピード感に欠ける面がある印象です。ただ基本的には、速記録というか議事概要は出すようにしています。基本的には、固有名詞であるとか機密情報はもちろん落としますけれども、できるだけリアルな形で出すようにはしています。
それから、幾つかの部門を回るというのは、僕は大賛成です。いろいろな種類の人がいることによるダイバーシティと、いろいろな場面を体験することにより1人の人の中にダイバーシティ的な観点が出ていくという両方が必要だと思います。ただそれを言うと、人事制度を動かすのが大変だ大変だと言うだろうけれども、今後5年10年と考えるときには、営業系にとっても編集系にとってもものすごい力になっていくんじゃないのかなと、そんな感じがします。
【社員】 10年ぐらい前に、幹部になる人は必ず他社、他局、他本社を経験せよと言われていたんですよ。だけど、それが知らぬ間になくなってしまいました。評価基軸が定まっていない会社ですから、そういうキャリアプロセスを導入しても、またいずれなくなってしまう。現幹部がそういうプロセス踏んでいるのかといったら、ほとんど踏んでいませんので。
【国広】 問題が起こると必ずこの問題が出てきて、やろうと言って立ち消えになることの繰り返し。
【社員】 全く実施されていませんよ。やっている人がむしろ排除されたという感じですね。
【社員】 ほかを見てきた人はどちらかというと排除されて、純血主義者が上がっていくような印象です。すみません、客観性がないので、印象なんですけど。
【社員】 朝日の記者は大体全部、地方総局からスタートして、そこで「事実と論とストーリー」について教えられます。私もそういう教育を受けましたし、デスクのときも総局長のときもそうしてきました。今も、私、編集局離れて5年になりますが、今も多分やってくれているはずなんです。それがその後、問題のある形になっているのか、なっていないのかまではわかりません。
もう1点は、新聞記者って請負仕事なんです。要は、大工と一緒で、テーマを任されたら、2人であれ3人であれ、完璧に請け負って、それを最後までやり遂げる。これはいい点もあるんですが、今回の福島第一をちょっと見ていますと、あまりにほかの仲間の大工たちが口出ししないので、そこはもうそろそろ変えたほうがいいかも。
なぜかというと、反朝日的な論調の人たちは確実に増えているから、脇を締めるなり、根拠をがっちりしていくことを考えたときには、完成前、施主に引き渡す前に、大工仲間でこの家はどうかときちんと話し合う、あるいは途中段階でもチェックするみたいな組織を編集局内部につくったほうがいい。デスク会は本来そういう役割なんですけど、そういう形では機能していないと思います。デスク会を離れて、テーマごとに5、6人のチームで取材内容をたたいていく、担当者以外に。そういう組織をつくるのが現場レベルでは必要かなと、そういう気がいたしました。
【社員】 いろいろあると思うんですが、やっぱり一番強く思うのは、今後、言いわけをせずにしっかり謙虚に向き合っていく気持ち忘れないということです。僕、9月12日の紙面、捨てられないんですよね。これをどこかにきちんと社内で残しておくべきだと思います。もしどうしても「個室の人」が残るんであれば、そのドアに貼っといてほしい(笑)。常に我々が謙虚さに立ち返るために、そういうところはお願いしたい。
【社員】 今回、読者の信頼も失っていますけれども、パートナー企業である、パートナー会社であるASAの信頼もすごく失っていると思うんですね。今回のことがあって大阪では、とにかくASAに1回行ってこいというので上から降りてきまして、私もこの間お菓子持って行って、やっぱりこんなに切実なのかと。ASAの人たちがこんなに頑張って回復しようと、読者を取り戻そうとしてくれるのに本当に頭が下がって、もうその帰りに泣いて帰りました。
そのときに、我々社員ってASAとどれだけかかわっているのかなと考えたんですね。販売の担当員がASAに行っているだけじゃなくて…。昔は購読券というのがあって、ASAの従業員の方が毎月取りに来てくれたんですよ。そのときにできるだけ話は聞くようにしていたんです。
でもあるとき、違うなと思って、半年に1回購読券が出ていたんですけれども、それを持ってASAに行こうと思ったんです。私、そこから毎年、年2回お菓子持ってASAに通ったんですね。行くと、やっぱりその地域でどれだけ朝日新聞をとってくれているのか、今どれだけ部数が減ったのかということを生の声が聞けました。読者からこんなことを言われているんですということを所長は教えてくださるんです。それってすごいいい体験だなと思っていたのが、購読券がなくなって、ASAに行くこともないし、ASAでいろいろ情報収集されている読者の声を聞くこともなくなってしまいました。
なので、やっぱり購読券は復活させて、新聞社の社員としてまず第一歩として、ASAに行って、ASAの所長と話をし、そこで地域の読者についての意見を聞くことも大事だなと思います。ぜひ管理本部にはそれを復活させていただきたい。皆さんの自宅へ配ってくれているASAってどこにあるのか知っていますかという問いと、そこに行ったことがありますかという問いと、そこで自分の地域の読者というのがどれだけいて、どういう人たちがいて、どういう意見がASAに寄せられているのかいうのを、社員みんなに投げかけたい。私もまた原点に戻りたいなと思っています。
【国広】 本当にありがとうございました。話し出すと尽きないと思いますし、せっかく貴重な提言、お話をいただいたので、皆さんからのご提言を1つでも多く実行していくことが、再生委員会と事務局の我々の務めだと思っています。きょうは本当になかなか話し切れなかった部分もあったかも思いますし、運営の不手際もあったと思いますが、お許しいただきたい。きょうは本当にありがとうございました。
以上