生きる、未来へ 東日本大震災10年

佐々木慶一さん

佐々木慶一さん

59歳。岩手県大槌町安渡出身。製鉄会社勤務時、東日本大震災の津波で自宅を流される。2014年、町内会長。15年から町議。19年末に自宅を再建、関連会社に移籍

佐々木香苗さん

佐々木香苗さん

28歳。岩手県大槌町安渡出身。慶一さんの次女。2011年、自宅を離れ看護短大に進学、14年に看護師に。千葉の病院に5年間勤務後、19年から県立釜石病院勤務。コロナ感染者など対応

2011年3月

香苗さん18歳、慶一さん49歳

東日本大震災で自宅が流出

奈苗さんは故郷を離れ看護短大へ。慶一さんは避難所の代表に

2014年4月

香苗さん21歳、慶一さん52歳

奈苗さんは看護師に。慶一さんは町内会長に

2015年8月

慶一さん54歳

慶一さんが町議会議員に当選

2019年4月

香苗さん26歳

香苗さん、帰郷し県立病院勤務。復活した地元手踊りに参加

2019年12月

香苗さん27歳、慶一さん58歳

自宅再建。その1カ月前に慶一さんの母静子さん死去

目の前で家や人が流された

 10年後にまさかこんな光景が目の前に広がっているなんて。佐々木慶一さん(59)は、あの日が来るまで想像していなかった。

 岩手県大槌(おおつち)町の漁師町、安渡(あんど)。高台の「大徳院」に通じる「寺通り」と呼ばれた道沿いには、20軒の家や店舗が並んでいた。今は盛り土の上に佐々木家がぽつんと1軒あるだけだ。

 20軒とも津波に押し流され4人が犠牲になり、残った住民も町内外に移った。

 津波は予想されてはいた。ただ、自宅から、避難場所になっている大徳院へは石段を40段上らねばならず、車いすや足の不自由なお年寄りにはつらい。慶一さんら町内会で2010年8月、「避難道を整備してもらえないか」と町に要望した。ただ、町幹部に「今は堤防があるから」と追い返されたという。実際、造るにも町には予算がなかった。

 翌11年、恐れていた事態は、現実となった。

写真・図版2011年3月11日

 当時、慶一さんは母の静子さんと妻の美代子さん(60)、次女の奈苗さん(28)、三女の郁実さん(24)の5人で暮らしていた。

 3月11日午後2時46分。自宅には、美代子さんと当時中学生だった郁実さんの2人がいた。強い揺れの後、美代子さんはおびえる郁実さんを先に石段の上に避難させた。しばらくして、心配になって様子を見に石段を上った。その途端、眼下に津波が押し寄せた。

 「家がふわっと浮いて、膨らんではじけるように、潰されて流れていった」

 石段の下には、車椅子や手押し車で逃げてきたお年寄りが何人もいたが、たちまち津波にさらわれた。

 2千人近くが住んでいた安渡地区は、1割を超す216人が犠牲になった。家族を目の前で津波に流された住民が「えーい(くそっ)」と大槌弁で嘆く声が、美代子さんは今も耳から離れない。美代子さんは、すすり泣く郁実さんをこう言って励ました。

 「しっかりしろ。家族全員、生きてること(が一番)だ」

 ほかの家族は地震時、隣の釜石市にいたが全員無事だった。

 そのまま8月まで、大徳院は、家を失った住民の避難所になった。慶一さんは、その代表を務めた。避難者は、風呂や簡易水道、げた箱、釜のふたまで手作りした。

 次女の奈苗さんは、車で2時間以上かかる内陸の看護短大に進学が決まっていた。自宅は津波で流されたが、2階の一部だけが原形をとどめていた。奈苗さんは、津波でぬれた白衣と制服、布団一組だけを取り出し、短大近くの下宿に向かった。

写真・図版2011年3月13日

 家を失った安渡の住民たちは、町内48カ所にできた仮設住宅団地でばらばらに住むことになった。安渡は、リアス式海岸の地形で、仮設住宅を建てる場所が限られ、多くは安渡を出ざるを得なかった。

 ただ住民には、離れても戻れる日までつながりを持ち続けたいという人は多かった。町内会が盆踊りや新年会などを開いては、集まった。16年には廃れていた郷土芸能「安渡手踊り」も復活した。

 慶一さんは14年から安渡町内会長になった。「前よりいい安渡にしたい」。町などに次々と要望をした。

 「通過するだけだった鉄道に新駅をつくってくれないか」「スーパーを誘致できないか」。しかし、利用者が減っていくことも予想され、かなわなかった。

 それどころか、小学校も、保育所も廃止されてしまった。「特に小学校が廃校になったのは大きかった」という。学校は地域活動の拠点で、PTA活動を通じて親しくなった親たちが、町内会の主軸となる人材になるからだった。

 そこに、工事の人手不足や、事業の手続きの煩雑さなどが追い打ちをかけた。町が進める宅地整備や災害公営住宅の完成は1年、2年と遅れていった。他の場所で自宅を再建する人が続出し、安渡の人口は、震災前の3分の1、約700人に減ってしまった。

写真・図版2015年5月17日

 慶一さんらは震災後、釜石市の会社の寮で暮らしていたが、町が建てる災害公営住宅に入ろうと申し込んだ。抽選には当たったが、抽選会場で会った知り合いの家族が落ちた。「安渡から出ていってしまうと困る」と思い、権利を譲った。

 慶一さんは、町で再建する土地を探すことにした。「町全体の復興事業も遅れ、人口が3割減った。安渡だけでなく町全体で復興を考えなければ」。15年の夏、慶一さんは町議に立候補して当選した。

写真・図版2019年8月22日

あれから10年

 10年間で娘たちは成長し、それぞれに人生の節目を迎えた。震災時、福島の専門学校生だった長女の遥香さん(30)は、15年に結婚、1男1女をもうけた。震災後に看護短大に入学した奈苗さんと郁実さんはともに看護師になった。

 奈苗さんは千葉県の病院に5年間勤めた後、19年春にUターンし、釜石市の県立病院で働き始めた。そこで不思議な巡り合わせが起きた。

 その年の11月、介護施設にいた静子さんが担ぎ込まれた。奈苗さんはちょうどその日、夜勤で静子さんを担当した。すでに意識はなく、みるみる静子さんの呼吸は弱くなった。翌日未明、息を引き取った。

 奈苗さんは言う。「まるでおばあちゃんをみとるために帰ってきたみたいだった」。臨終後、美代子さんと一緒に化粧をした。葬儀では送る言葉を読んだ。

 「運動会の時に甘いゴマごはんを作ってくれましたね」「いつもおばあちゃんの周りはにぎやかでした」……。涙で言葉が詰まった。

 静子さんは自宅前の小さな菜園で、近所のおばあちゃんたちと野菜や花を育てるのが楽しみだった。

 佐々木家の新居は静子さんが亡くなった翌月に完成した。和室があり、家の前にも畑をつくることにしていた。慶一さんは「孫にみとられて満足しているだろう。でも、少しでいいから新しい家で過ごさせてあげたかった」と唇をかむ。

 

 

 

 奈苗さんは「目の前のことで精いっぱいだった。将来は考えられない」と話すが、「今は大槌町にいたい」という。

 帰郷後に通い始めた民謡教室に行くのが楽しい。「仕事場とは違う友達ができた。マスクをしていても耳の遠い患者さんに声が通るようになった」

 慶一さんは有志や研究者と、地区の歴史や震災後の10年間の記録のアーカイブ化を進めている。「次世代に残し、次の災害に備える参考にしてほしい」。すでに公民館などで10回の企画展を開き、今年の3月11日に向けて準備している。

 今年は、住民の避難場所になっている高台の公民館前に犠牲者の碑ができる。

 碑には、慶一さんの発案で半鐘がついている。消防団員の越田冨士夫さん(当時57)が屯所で半鐘をたたき続けて避難を呼びかけ、自身は犠牲になった。その記憶を永遠に刻み、二度と犠牲者を出さないように早期避難を誓ってつけた。今後、避難訓練の日には、弔鐘が町に鳴り響く。

写真・図版2011年4月11日

 慶一さんは、これからの町についてひざ詰めで話そうと、自宅の横にプレハブの小屋を建てた。内装は慶一さんの同級生たちがやってくれた。そこで酒を飲み、馬鹿話をしながら、明るく語り合うサロン的な場所にしようと考えた。

 「隣の地区と合同で住民運動会をしようか」「人が減ったし、震災を機に交流ができたからね」……。時には奈苗さんも加わり、そんな集まりを始めた矢先、コロナ禍が来てしまったが、いつか再開しようと思っている。

 この「ぽつんと一軒家」の周囲が、またにぎやかになることを思い描いて。

写真・図版2021年2月11日

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