生きる、未来へ 東日本大震災10年

大沼勇治さん

45歳。福島県双葉町出身。双葉町にあった原発のPR看板に掲げられていた標語「原子力明るい未来のエネルギー」の考案者。原発事故後は茨城県古河市に避難し、原発反対の立場から講演などを行う

1988年3月

12歳

小学校の宿題で標語を提出。優秀賞に選ばれる

1991年

15歳

標語が原子力のPR看板に掲げられる

2011年3月

35歳

原発事故で妻と愛知県の借り上げ住宅に避難する(14年5月に古河市へ)

2011年6月

35歳

長男の勇誠くんが生まれる

2013年6月

37歳

次男の勇勝くんが生まれる

望んでいたのはこんな未来じゃなかった

「へえ、ここがお父さんのふるさとか」

 人影のない、真新しい駅前広場に、小学生2人の元気な声が響き渡った。

 昨年9月19日、福島県双葉町のJR双葉駅前。

 茨城県古河市で避難生活を送る自営業の大沼勇治さん(45)が長男の勇誠くん(9)と次男の勇勝くん(7)を連れて、自宅のある双葉町を訪れた。

写真・図版2020年9月19日

 町では昨春、JR常磐線の全線が運転再開し、双葉駅前を含む一部の帰還困難区域の立ち入り制限が緩和され、立ち入れるようになった。震災後に生まれた兄弟にとって、初めての「帰郷」だった。

 翌20日には、町内に震災や原発事故の教訓を伝える目的の県の「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館する。大沼さんは伝承館に息子たちを連れて行く前に、故郷の現状をしっかりと見せたいと考えた。

 「見てごらん」

 双葉駅の改札口へと続く階段の上で、大沼さんが約100メートル先の建物を指さした。2005年に新築したかつての自宅。

 急ぎ足で向かい、慎重に放射線量を測って入った。部屋の中は9年半前に慌てて避難した当時のままだ。テーブルの食器も、布団も、予定の書き込まれたカレンダーも。

写真・図版2020年9月19日

 「全然変わってないな」と大沼さんが部屋を見渡した。「原発事故が起きたとき、勇誠はお母さんのおなかの中にいたね。勇勝は避難先で生まれた。できれば、この家で2人を育てたかった」

 「どうして?」と兄弟が聞いた。

 「だって……」と大沼さんは少し言葉を詰まらせた。「ここは……お父さんとお母さんの家だったし、ここでずっと暮らせると思っていたから……」

 自宅の周囲には草に埋もれて屋根が崩れ落ちた家々、野生動物に店の壁を破られた商店街……。

 そしてその先にはかつて、全長16メートルの大きな看板があった。

 

 

 

 《原子力 明るい未来のエネルギー》

 かつて町の中心部の通りに、原発をPRする看板が設置されていた。その標語を考えたのが、当時、双葉北小学校の6年生だった大沼さんだった。

 原発を推進する標語を「三つ考えてくるように」と宿題が出され、「仙台のような大都会になればいい」と考えて出したところ、看板の標語に選ばれた。自分が考案した標語の下を多くの人が行き来するのが子ども心に誇らしかった。

写真・図版福島県双葉町の岩本忠夫町長(当時)から表彰を受ける大沼勇治さん(右)=1988年3月25日

 しかし、11年3月、原発が冷却用の電源をすべて失って水素爆発した。

 震災後、テレビのニュースで双葉町の現状やその看板が映し出される度に、大沼さんは複雑な気持ちになった。多くの町民が故郷を奪われた。標語を考案したことで、自分も国の誤った原子力政策に加担してしまったのではないか。

 「望んでいたのは、こんな未来じゃなかった」。大沼さんは事故の翌年から全国各地の集会に参加し、経験を話すようになった。

 15年に町が老朽化などを理由に看板撤去の方針を示すと、約7千筆の署名を集めて保存を要求。町は将来の展示に向けて保存することに決めた。

 大沼さんが期待を寄せていたのが、地元で開館する伝承館だった。「展示にぴったりだと思うんです。震災前、行政がどのように原発と向き合っていたか。それを物語るのがPR看板ですから」

写真・図版2016年6月6日

 「これ、どういうことですかねえ?」。伝承館開館1カ月前の昨年8月下旬、ネット上の朝日新聞の記事を読んだ大沼さんが、記者に電話をかけてきた。

 記事には伝承館の展示資料を選ぶ県の有識者委員会が非公開で、議事録も公開されていないことが書かれていた。

 「やはり実物の看板の展示は難しいということでしょうか」「でも、おかしいですよね。県が税金でつくる施設で、事故を後世にどうやって伝えていくのか。その展示内容を決める過程が非公開だなんて。これじゃあ、市民が意見を言いたくたって言えない」

 数日後、大沼さんは許可を得て町役場に行った。撤去された看板のうち、90センチ四方の文字パネルは内陸部の会津若松市にある県立博物館に保管されたが、土台部分は役場脇に置かれている。

 大沼さんはブルーシートにくるまれた土台を前に、「これ、『保管』って言わないですよね。何というか、『ゴミ』というか」と頭を振った。「僕はただ、『ありのままの姿』を展示してほしいだけなんです。同じ過ちを繰り返さないように。本物がここにあるんですから」

写真・図版2016年8月14日

あれから10年

 伝承館が開館した昨年9月20日。大沼さんらは入場者の列に並んだ。敷地面積約3万5千平方メートルで、事業費約53億円。

 県は原発のPR看板について、大きさを理由に「実物の展示は難しい」と判断し、館内に写真を展示することを決めていた。

 「プロローグ」が上映される巨大な円筒状のシアター。床を含めた7面のスクリーンが、現在までの福島県浜通りの状況を映し出す。地震や津波による被災の映像は白黒だ。妻と一緒に避難した日々が、スクリーン上ではなぜか色を失っている。

写真・図版2020年9月5日

 展示ブースに入ると、目の前に縦2.6メートル、横3.7メートルの原発のPR看板の写真が現れた。

 係員が声を張り上げた。「当時の小学生が応募して採用された標語です。原子力は本当に明るい未来のエネルギーになったのか、そんなことも含めまして展示をご覧頂きたいです」

写真・図版2020年9月5日

 44歳になった「当時の小学生」は唇をかみ、うんと小さくうなずき、その前で家族と写真を撮った。

 伝承館を出た後、大沼さんは報道陣に囲まれた。

 ――今の感想は?

 「正直、大事なものが伝えられていないという感じです。事故がなぜ起きたのか、国や県は原発をどういうふうに推進してきたのか。そういう展示がもっと必要だと思いました」

 ――標語の写真を見て、どう思いましたか?

 「私はありのままを伝えて欲しいです。実物を展示した方が、事実が伝わると思います」

 取材の間、息子たちは背後にある荒野を見ていた。

 伝承館は津波で壊滅した地域にあり、周囲には除染で生じた汚染土を詰めた黒色の袋が積まれていた。

 「こんな光景、見たことないよね」と大沼さん。「町は今、至る所で工事ばかり。本当は建物がどんどんできていくことを『復興』と言うけど、この町では建物をどんどん壊していくことを『復興』と呼んでいる。なぜだかわかる?」

 兄の勇誠くんが「放射能があるから?」と答え、弟の勇勝くんは「ウイルス?」と聞いた。

 大沼さんは笑った。

 「やっぱり連れてきて良かった。今のこの町の姿を見た方がずっと勉強になる。覚えておいてほしい。考えてほしい。お父さんのふるさとがどうしてこんな風になってしまったのか」

写真・図版2020年9月19日

 大沼さんは伝承館が開館した後も、県にメールで「現物を展示して欲しい」との要望を続けた。県は1月、時期など詳細は未定だが、実物を展示する方針を明らかにした。

 大沼さんは「設置が決まったことは素直にうれしい」と話す。そして、この10年をこう振り返る。

 「遺産に『負』がつくかどうかで行政の対応が全然違う。津波に被害を受けたパトカーや学校であれば、展示は早い。しかし、原発や国策の失敗といった『負』の遺産になると、急に行政の視線が冷たくなる。原発事故がなぜ起きたのか。原発を推進する人たちも、『負』の遺産を見て考えてほしい」

写真・図版2020年9月19日

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