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私「鳥とは観念とか超越的存在、魚は本能や無意識、といったとらえ方で合ってますか?」
押井守監督「まあ、そうだね」
これは、映画「イノセンス」(2004年)公開直前に押井監督にインタビューした時のやりとり。「今回の映画は、隠喩というレベルを超えて『犬・鳥・魚』がバンバン出てくるので興奮しました」なんて感想をお話ししました。
さて押井作品に頻出する三大象徴「犬・鳥・魚」は何を意味するのか? 私の頭の中で出来上がった分類表はこんな感じです。
〈鳥〉=言語、精神、神、天使、少女、子ども
〈犬〉=仲間・主人を求める者、さすらう者、男
〈魚〉=本能、夢、無意識、性欲、身体、衝動、暴力、女、母、妻
この分類を基に押井作品を見直すと、〈鳥〉と〈魚〉が結びついて危機に陥った世界に〈犬〉が現れ〈鳥〉と〈魚〉を分離(除去)して平安を取り戻そうとする、という基本構造が浮かび上がってきます。それが端的な描写として現れたのが、前回の本欄で指摘した「堕胎モチーフ」であり、その陰にはある時期の押井監督が抱えていた家族問題が――ていうかぶっちゃけ「アパートで自分を待つ妻と娘から逃げたい」という願望が塗り込められているんじゃないか、というのが私の妄想的解釈なのです(あーあ、言っちゃった)。
〈鳥〉と〈魚〉が結びついた存在、というのは押井作品にたくさん出てきます。そしてそれは不吉で不穏な匂いを放っています。例えば「天使のたまご」(1985年)のタマゴを腹に抱く少女。少女でありながら「母」です。不吉です。方舟で暮らす少女がさまよう、暗くてジメジメして巨大魚の影がうごめく世界は子宮です。〈犬〉である青年がやってきてタマゴを割り、その結果、少女は子宮的世界を脱して昇天します(天は鳥の世界)。少女がタマゴをはらみ、子宮が少女をはらんでいた状態が解消され、地(=犬の世界)に平和が戻ります。
観念的で難解で退屈、とも評される「天使のたまご」ですが、実はとてもシンプルで官能的、エロティックなフィルムです。序盤、タマゴを抱く少女が空のガラス瓶に水を満たすと、それは空のタマゴが満たされる連想につながります。子宮をイメージするこの世界が、丸い瓶に閉じ込められたように映ると、この瓶もまた子宮であり、この世界も瓶のように満たされるのを待っている――すなわち、受胎がこれから行われる――という予感が生まれます。
そして少女の前に、男根を突き出すような形の戦車が現れ、そこから銃を持った青年が降り立ちます(銃も男根的イメージ)。少女が妙に生々しいしぐさでなめる真っ赤なジャムは初潮を暗示し、その後の放尿シーンは女性器を連想させ、そして再び現れた青年はタマゴを差し出し、少女はスカートをまくり上げてこれを受け入れます。宗教画の受胎告知のような構図を用いて、青年によって少女が懐胎したことが示されます。魚を狩ろうとする(すなわち堕胎しようとする)男たちに少女はおびえ、青年にすがりつきますが、実は彼こそが最も危険な存在であることを少女も(そして私たちも)知っているのです。ドキドキしますねえ(しない?)。
方舟が少女をはらみ、少女がタマゴをはらみ、という入れ子構造と堕胎モチーフは、前回の本欄をお読みになった方なら気づくでしょうけど、映画「機動警察パトレイバー」(89年)に重なります。押井監督は「ロマンアルバム イノセンス 押井守の世界 PERSONA増補改訂版」(徳間書店)所収のインタビューでこう語っています。「この映画は、実は『天使のたまご』のパート2だ」。2作がどうつながるかは、語ってませんけど。
さて〈鳥〉と〈魚〉の結びつきに話を戻しましょう。「トワイライトQ2 迷宮物件FILE538」(87年)冒頭では、旅客機がニシキゴイに変化する異変が起こります(実は神様のイタズラ)。旅客機が〈鳥〉属性であることを、わざわざ尾翼の鶴マークを映したカットをはさむことで強調しています。〈鳥〉が〈魚〉になる。不吉です。そして主な舞台となるアパートの一室では、女の子(正体は神様)がニシキゴイと添い寝しています。〈鳥〉と〈魚〉です。アパートに住む父娘を調査するよう依頼された主人公の探偵(=犬)は、いつの間にか前任者と入れ替わってアパートにつなぎとめられ父を演じることに。〈犬〉は〈鳥〉と〈魚〉の分離(除去)に失敗し取り込まれたようです。
「御先祖様万々歳!」(89年)は、ヒロインの麿子がとある人物にとって自分の娘であると同時に自分を生んだ母親でもあるという、のろわれた関係が明らかになります。娘であり母。こわいこわい。
「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」(95年)の主人公・素子は大人の女であり、大きな窓のある部屋(水槽のように見える)で暮らし、趣味はダイビングなので〈魚〉。一方、主人公なので〈犬〉の役割も担うところがねじれているというかユニークですが。で、彼女と融合を果たす「人形使い」は天使の姿で降臨します。人形使い=プログラム=言語なので属性は〈鳥〉。天使の姿も、聖書の言葉を素子に送るのも、「犬・鳥・魚」理論からは当然といえます。その後、素子にあてがわれたのは少女の義体。しかし声は大人の女。〈魚〉と〈鳥〉の融合体にふさわしいキャラと言えるでしょう。
「イノセンス」は、その〈鳥・魚〉融合体に犬(バトー)が振り回され救われもするお話。やはり今回も彼女は少女型アンドロイド(ガイノイド)の姿で現れ、声は大人の女。バトーは「今の自分を幸福だと感じるか?」なんて尋ねたりして未練がましいのですが、もう元の「女」には戻らない素子は「今の私に葛藤は存在しないわ」と素っ気ないこと。
この作品の冒頭、ジメジメした暗い通路の奥(子宮的世界)でガイノイドが警官の生首を赤子のように抱えていた理由は、もうお分かりでしょう。ガイノイドが〈鳥=少女〉と〈魚=母〉の両面を持った不吉な存在であることの表現です。だから〈犬=男〉は、それを排除し平和を取り戻さなくてはならないのです。やがてこのガイノイドは性的奉仕をするセクサロイドだと判明します。少女なのにオンナ。やはり不吉です。
「攻殻」も「イノセンス」も、最後に〈鳥・魚〉融合体は犬(バトー)の前から去っていくので、地に平穏が訪れたはずなのですが、「イノセンス」はもの悲しい余韻を残します。覚えていますか、ラストカットを。犬を抱いたバトーが複雑な面持ちで何を見つめていたかを。同僚のトグサと、彼の抱く娘と、娘の抱く人形。少しヒネった表象になっていますが、この密着した三者は「男と女とその娘」とも見えます。とするとこのラストカットは「犬と暮らしている自分」が「妻と娘と暮らしている自分」を見つめているのでは? 違う選択をすればあり得たかも知れない別の人生を思う、そのもの悲しさがあのラストに刻印されているのだと私は読みました。「今の自分を幸福だと感じるか?」とは、彼自身への問いかけでもあるのです。人生の曲がり角には、誰しも「別の人生があったかも」などという夢想にとらわれるのかも知れません。来ては去っていく無敵のヒロインとは、監督が人生を捧げてきた「映画」のメタファーではないか、そんなうがった見方も頭をよぎります。
で、集大成的な「イノセンス」の後、別れて暮らしてきた娘と二十何年ぶりかで再会し「その娘も結婚し、ガブ(愛犬)が死に、自分の人生がひと巡りした気分。この作品で、僕も生き直したい」という覚悟で取り組んだ「スカイ・クロラ」(2008年)のヒロイン草薙水素も、見かけは少女で実は子持ち。不吉ですね。なんたって、若いパイロット(=犬)が彼女のところに来ては死に、来ては死に、を繰り返しているそうですから。
おっといけない。押井作品でよくガラスが割れる意味とは?とか、「カメ」と「飛行船」の共通性とは?といった前回ふったネタに行き着かないうちに、こんな長さになっちゃいました。そうですねえ、では「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984年)でラムは夢邪鬼と会う時なぜポンチョ姿だったのか?なんてこともいろいろ語りたいので、すみません、続きは次回ということで(まだやるんかい)。
1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。2010年10月から名古屋報道センター文化グループ次長。