約65年前、広島を撮った写真家は福島を「最後の仕事」に選んだ。被爆者や「軍事大国・日本」を克明に写した報道写真家・福島菊次郎さん(90)が東日本大震災で被災した福島県を取材し、「遺作集」を作る準備をしている。福島さんの姿を追った映画の制作も進んでいる。
福島さんは震災前から「原発と原爆は同義語。事故が起きれば核戦争にも匹敵する被害が出る恐れがある」と、著書「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘(うそ)」などで警鐘を鳴らしてきた。
これまでに胃がんや前立腺がんを病み、体重は37キロ。その体で9月、約半世紀使い込んだニコンFなど2台のカメラを持ち、津波に押し流された墓石が集められた南相馬市を、何度も転びながら撮影した。福島さんと25年来の交流があり、被災地で取材を続ける写真家の山本宗補さん(58)が道案内をした。
原発事故の後、牛を殺処分し、仲間を自殺で失った飯舘村の酪農家、長谷川健一さん(58)も訪ねた。「美しくすがすがしい山や森が、一転して放射能におびえる絶望的な光景になったことにショックを受けました」。全てを失っても、村の将来を真剣に考える姿に心を打たれた。
9月には、大江健三郎さんらが呼びかけ、主催者側発表で6万人が参加した東京での「さようなら原発集会」も取材。3日間で36枚撮り白黒フィルム30本を使い切り、疲労で地面にしゃがみ込んだ。
福島を取材したのは、「日本は『安全・安心』だとうそを重ねて原発を造り、事故を起こした。広島の原爆慰霊碑に『過ちは繰返しませぬから』と刻みながら、朝鮮戦争やベトナム戦争に加担したことと僕の中で重なる。ぜひ取材したいと思った」からという。
1945年には広島の部隊に所属していたが、原爆投下直前に県外に移動し難を逃れた。翌年から広島に通い、61年に被爆者の闘病や貧苦を追った写真集「ピカドン」を出版。自衛隊や日本の兵器産業の内部に入り込み、その実態を明らかにする写真を雑誌に発表した。暴漢に襲われ、家が不審火で焼ける経験もした。
それでも取材をやめなかった。「あったことを隠してはいけない」と、より深く取材し、「不正を告発する」道を選んだという。
「僕が写した戦後史から消えていった悲劇の人たちに比べれば、僕は飯を食い、子どもを大学に上げて、いわば無傷でいる」。そのことがトラウマになっているという。「今回の大震災でも、自分だけが生き残ったことを責め、苦しみを抱え込んでいる人が多いのではないでしょうか」
この取材を「写らなかった戦後4 ヒロシマからフクシマへ」にまとめ、逝きたいという。
そんな福島さんの姿を2年余り追った映画の制作も進む。「ニッポンの嘘〜報道写真家 福島菊次郎90歳〜」(仮題、ドキュメンタリージャパン)で、来年1月に完成の予定だ。(高波淳)