方舟・2011

稲葉真弓

わたしのパソコンのモニターに

ひとつ加わった水色のファイル=「方舟」

九ミリ四方のちいさな箱に

あの日からの言葉を乗せて

海原のようなきょうという日を漕(こ)いでいく

塩に耐えた半年が

ついに終わったと知った朝

新聞から乗り移ってきた立ち枯れの松一本

津波に爪を立てていた

犬や牛の見開かれた黒い目

呼びかわされた名前や ほどかれてしまった手の

残像がひしめく

方舟に そう わたしのそばに

 航海図なんかなくても 行き先はわかっていた

 ファイルのなかの海は穏やか

 犬はいつもの犬小屋で 猫は猫のかたちで眠りなおす

 魚はゆるやかな回遊をとりもどし

 鶏舎では鶏がコッコ コケッ コ

 花豆が煮えている台所

 わたしたちは

 春の午後のよろこびに手をかざす

 

 そうだったらいいのに……ほんとうにそうであったら

きょうも訪れたひとりの死者

死者だって いとしいものをさがすのだ

――いませんか うちの子はいませんか?

声と気配がざわめいて

わたしのファイルは静まらない

三月が また 方舟の上を通りすぎる

幻の雪は降りつづいているが

水仙のにおいだけはあって

そのとき だれもがいっせいに思うのだ

新しい時間と理性がすぐそこにあること

この世とあの世が

いますぐ春の糸に結ばれることを

気づかなかったものが見えてきた

わたしたちの目のもどかしい速度についても

 

水色の方舟の

行き先はもうわかっていた

わかりすぎるほどわかっていた

始まったばかりの

海原のようなきょうという日を漕いでいく

死者たちと同じ舟に乗る

稲葉真弓さんインタビュー

二〇一二年三月三日掲載

 ――震災について、どう受け止めていますか。

 「ものすごく恥ずかしいんですが、これほど原発が負の影響を及ぼすものとは思っていなかった。私は若い頃、高度成長の恩恵を受けた。会社員として働いていたころ、お給料がどんどん上がっていきますし、上昇気流のまっただなかにいた。日本が太って、力をえていくのを目の当たりにし、そのど真ん中にいた。いま、何ともいえない複雑な気分です。あれでよかったのか、と。ものすごい虚飾の世界にいたのではないか、と。日本を支えてきた女性パワーの一人のような錯覚をしていたけれども、実際は、電気やエネルギーを使い放題に使って、(原発の持つ)負の部分に加担していた(と震災後に気がつき)、愕然(がくぜん)としました」

 ――朗読した作品の解説をお願いします。

 「タイトルの『方舟』というのは私のパソコン上のファイル名でもあるんです。そのファイルのなかに、3・11後に書いたもの、書き留めておきたい震災関係の思いを集めている。そのファイルの中には、死者たちの思いも入れている、というイメージなんです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の列車に死者のカムパネルラと生者のジョバンニが一緒に乗っていたように、津波で亡くなった方たちと、私も同じ舟に乗っています、という思いです」

 ――震災後の世界で、どんな思いで詩を書いていますか。

 「詩は、感情や出来事を凝縮された表現で伝えることができる。散文と違って、説明が削(そ)ぎ落とされた裸の言葉。ぐちゃぐちゃ説明がある言葉よりも、遠くに飛ぶのではないか、と思っている」

 「セシウムが降り注いだ大地がいつ浄化されるのかわからない。未来のことはもう想像がつかない。奇形の動物が出てくるかもしれないし、稲などの農作物にも恐ろしい影響が出てくるかもしれない。そんな未知の世界の入り口に私たちはいる。20年後、30年後の子どもたちは、どう生きていくのか。私たちは、生まれたばかりの子どもたちへの想像力を鍛えないといけない」

 「震災について書かれた文学を『時局の花』と呼ぶ人もいる。いつかしぼむものだ、という批判。私はそんな時局の花のような作品は書きたくない、と思う。あるいは、震災をいわゆる『ネタ』にして創作をすることへの後ろめたさもある。でも、自分ができることは何なのか、というと、ほかにできることはない。震災後、過去に書かれた詩がずいぶん読み直された。未来の子どもたちによい作品はきっと届く。そう信じています」

(聞き手・赤田康和)

稲葉真弓

いなば・まゆみ 1950年年愛知県生まれ。23歳で女流新人賞を受賞して上京。92年の「エンドレス・ワルツ」で女流文学賞を受賞。08年に「海松」で川端康成文学賞。11年、東京生活を捨てて志摩半島で過ごす女性を描いた「半島へ」で谷崎潤一郎賞。14年に紫綬褒章。同年8月、64歳で死去