伊藤比呂美
大震災だ、大津波だ
人が死んだあっという間に
それから原発事故だ
長い恐怖が襲ってきた
東京にいくたび
そこは
薄暗くむし暑く
ぴりぴりしていた
東京の人たちは
みんな怯(おび)えていた
みんな怒っていた
E元は三十年来の親友だ
料理をするのが仕事である
夢をみた、とE元がいった
セコイヤの巨木群を見にいった帰りだった
わたしが運転し
隣でねくたれていたE元がふと目をさまし
話しはじめた、若い頃に
夢を見た
自分で生んだあかんぼがいる
あかんぼがそこにいるのに
乳をやれない
目の前であかんぼが死んでいくのに
乳をやれない
そういう夢だった
もしかしたら
それは前世で
それが因果で
今もこうして
昼も夜も料理して
他人の子を
やしなっているんじゃないか、と
E元はいま
「にこまるクッキー」というのをやっている
最初は東京で
東京で孤独で
孤独で不安で
いたたまれない思いをしている女たちに呼びかけて
東京でみんなで
クッキーをみんなで
作って売って
売り上げを被災地に送った
それから被災地の人たちが
作ったのを東京に
持ってきて売るというふうに移行した
E元本人は身を粉にして
スタッフをやとって
被災地に通って
料理している
E元は町に出て
署名集めも始めている
一日何十品も料理して
親の介護もあるってのに
身が
粉々になってるというのに
動きまわる、危機には
料理するしかない料理
することでしか人に手を差し伸べる
方法がない
料理せずにはいられない
で、粉々になる、それを
あたしはみつめている
非力で役立たずのまま
E元に
爪のアカをくれといったらちょっとくれた
煎じて飲んだら
甘酸っぱかった
詩人たちは詩をかいた
思いがダダ漏れに漏れて
とまらない詩が
たくさんかかれた
金子みすゞみたい
金子みすゞよりもっとわかりやすい
ブザマだった
つまらなかった
でも読まれた
人は読んで泣いたそうだ
そんな話をいっぱい聞いた
泣くな
かくな
かかされるな、そう
いうそばから
否定できない
かくことしかできない
詩人が
かくというのを
否定できない
かくことでしか
関われない
否定したら
いけない
読まれなくては
いけない
きのうJフリーが
アメリカの詩人某が震災の詩をかいたから
日本語訳を手伝ってくれ、と
詩を読んでみたら陳腐だった
某さんは
日本にいたわけではない
写真を見てかいた詩だ
陳腐だった
でも某さんは震災の写真を見た
見て心を
揺さぶられて
かかずにはいられなくなり
伝えようとした、陳腐なことを陳腐に
陳腐だった、でも、いい詩だった
あたしはかけなかった
なにしろ住んでいるのが
カリフォルニアと熊本だ
揺れないし
放射能もとどかない
アメリカの某さんみたいな
陳腐な詩は
かきたくない
かけなかった
なんにもできなかった
やったことといえば
「方丈記」の第二段を訳して朗読しただけだ
鎌倉時代の
地震を
津波を
まざまざと描いた古文を
自分の声にして
その声を外に出した、こんなふうに
また、同じ頃のことである、ものすごい大地震に襲われた、
未曾有(みぞう)のことであった、
山は崩れて、川を埋めた、
海は傾いて、陸地を浸した、
土が裂けて、水が湧き出でた、
大岩が割れて、谷に転がり落ちた、
渚(なぎさ)をこぐ船は、浪にただよった、
道ゆく馬は、立っているのもおぼつかなかった、
都の一帯は、どこもかしこも、どんな建物も、
無事ではすまず、崩れ、あるいは倒れて、
塵(ちり)や灰が煙のようにもうもうと立ちのぼった、
大地の動く音も、家の壊れる音も、
とどろく雷鳴とそっくりであった、
家の中にいれば、その場で潰された、
走り出れば、大地が割れて裂けた、中略
激しい揺れは、ひとしきり揺れて、止(や)んだ、
余震はしばらくつづいた、ふつうなら驚くほどの揺れが、
日に二、三十度もあった、毎日のことであった、
十日過ぎ、二十日過ぎて、やっと間遠になった、
日に四、五度になり、二、三度になり、
一日おきになり、二、三日おきになった、
余震が三月ばかりもつづいた、
こうやって
地震が
津波が
(少しだけ)自分の身体に入ってきた
それから仏典を読んだ、たとえば
法華経だ、わたしはいつも自分に
問いかけておるのだ、どうしたら
生きているものたちに真理をわからせ、
ブッダのおしえをわかちあうことができるのか
阿弥陀経だ、〈幸せいっぱいの土地〉に
生まれたいと願ったもの、いつか願うもの、
今まさに願おうとしているもの、その人たちは
みな真理に目ざめる、迷いのなかに
もどってしまうことはない
涅槃経(ねはんきょう)だ、ありとあらゆる生きものたちが
ことごとくブッダの心をもつのである
そうだ、必死で読んだ、わかろうがわかるまいが
自分が真理をつかむ
それに汲々(きゅうきゅう)としていた当時の仏教に
「違う
全然違う
まず人を助けるんだ、
ボサツとはそういうことだ」と
ハッキリつきつけたのが大乗仏教だ
鎌倉時代の地震と津波しか経験してないわたしが
自分自身の言葉で
傷ついたこの
傷ついて
怯えて
震えている社会に
なにかをとどけられるとしたら
きっとそこだ
そこならいい
と
念じる
でないと
方角さえも
見つけられない
詩人の良心を信じたい
伊藤比呂美さんインタビュー
二〇一二年二月二八日掲載
――米国と熊本を往復する生活。震災のことはどんなふうに受け止めていますか。
「東日本大震災の2日後に日本に来たんですよ。(生活の拠点である)熊本に来て、朗読会をしたんです、お金集めの。一晩で30何万円集まった。(観客には)すでに避難してきた被災者も、いました。九州でもできることやろうよ、と声をかけて、あっちこっちで朗読会をした」
「でも、揺れも経験しておらず、(震災後の世界と)関われない、というフラストレーションはずっとありました。東京の人たちの、イライラした、いつも怒っている状態は共感できなかった。一生懸命、想像はするんですけど。右の手が痛いと言っているのに、左の手は何も感じていない。一緒に感じるべきだという負い目を抱き続けてきた」
――震災後、ずっと詩を書けなかったんですよね。
「正直なことをいってしまうと、詩人たちが一生懸命に書いている詩を読んで、みっともないなあ、と思っちゃった。ああいうのは嫌だなあ、ああいうのは書きたくない、と」
「しかし、今は違う考えです。あの時点で詩人たちが書かざるを得なかったという気持ちはすごくよくわかる。詩人というのはおそらくいにしえの昔だったら社会とか王権に依頼されて、『特殊能力をもっているんだから、それを使え』というふうに、巫女(みこ)と同様に、言葉を発するのが詩人の能力で、役割だった」
「高橋睦郎さんが書いた『詩心二千年』によると、額田王も柿本人麻呂も、宮廷詩人で、王権が書いてほしいことを代わりに書いていたと。すごく納得して、私たちも本当はそうなんだと思った。近代以降の詩は、声に出すものじゃなくて、紙に書くものになり、個人的なことを書くようになってきた。でも、もともとの詩人の役割からいうと、社会の要請みたいなものを空気から感じとって思わず書いてしまう、というのが素直なんじゃないかと。そこで反省したわけです、『我』というものにとらわれて、書けなかった自分に」
「一方で、詩人たちが戦争に協力したという記憶をひきずっていますから、戦争協力の詩を書くようなことはしてはいけない、ということも思っていた。(3・11後の詩人たちも)みんなそれになりかけているのではないか、という不安もありました。書けたら気持ちいいだろうなあ、と思いつつ、書いちゃだめだと、どこかで自分にストップがかかった」
――戦争時の状況と似ていると。
「社会の要請を受けて、自分の声というよりも、社会の声を代弁する形で書いていく、という点で似ている。今回、相手があめつちだったから、みんな身構えずに、ぱらぱらぱらと詩を出しちゃった。戦争の時も、みんなが政府にいわれて(戦争協力の)詩を書いてしまった。戦争が終わって、詩人たちは強く反省し、その後はそういうものに近づかないようにしてきた。ストッパーをみんな持っている。それでも、まあ、地震じゃなければ、書かないだろう、とも思う。そういう意味では、私は楽天的に、詩人の良心を信じています」
――朗読については「詩人の自己満足」だと荒川洋治さんが批判する文章を発表しました。
「近代以降の、書くだけ、出版するだけの詩は大変つまらないと思います。詩はもともと声だったはずで、私がやる詩はそこに戻りたい。荒川さんがそこまで朗読を毛嫌いするのはよくわからない。昔の人は、音読なんてしなかった。書き文字すらなかった」
「今のわたしたちはテレビもコンピューターもカフカもフロイトも知っている。その人たちに、書き文字がなかったころの昔と、同じような詩は書けない。それでも声の時代にもどって、私は人に伝えたい。朗読には、言葉で人の心を動かし、お財布を開かせてお金を出させる力もある。震災後、私が売れる一番のものが朗読だった。自己満足というなら、詩を出版することも自己満足ということになってしまう」
――死に向き合ったリアルな強い言葉が流通している震災後の世界で、現場にいない詩人がリアルな言葉に負けない言葉を発することができるのでしょうか。
「できます。私たちの創造の言葉はすごいですから。詩歌の歴史はそれこそ何千年もある。どこの国にもある。リアルな言葉は今は、強いかもしれないけど、そのうちに、そのリアルな言葉を取り入れて、誰かが必ず作っていく。絶対そういう才能が出てくると思うし、詩人は書かなきゃうそだと思う」
「詩の言葉、創造の言葉は、私たちが考えていても、自分で気がついていない真実を代弁してくれる。無意識の世界にあることを描き出したり、20年後には一般的になるであろう価値観とかを書いたりしてきた。詩人がブログやツイッターで、普通の人と同じようなことを書いていたら、社会は発展しない」
(聞き手・赤田康和)
いとう・ひろみ 1955年東京都生まれ。セックスや出産など日常生活に素材をとりながら、自由な表現で詩の可能性を広げてきた。詩集「河原荒草」で高見順賞、親の介護を描いた長編詩「とげ抜き新巣鴨地蔵縁起」で紫式部文学賞、萩原朔太郎賞。米国カリフォルニア州と熊本市の両方に生活の拠点がある