三角みづ紀
背後にひろがる
景色が声あげた
残されたものものは
とうに発していた
きちんと見せてね、と
子らがのぞむなら
うしなった真昼において
発せられた憧憬が
決して、たやすくない
ならば息をする
それ以上の意味があるだろうか
幼いお前が息をする
それ以上の意味はあるか
背後にひろがる
景色が声をあげ
その数々を
すくいとり
丁寧にならべ
しゃがみこんだまま
残されたものものが
残されている
覆う手のひらが
ほころびて
目前にして
その時
はるか遠くの汽笛が響いてそれを汽笛だとおもう
その間、思考は必要なかった
残された記憶に耳澄ます
三角みづ紀さんインタビュー
二〇一二年二月二七日掲載
――作品「音紋」の自作解説をお願いします。
「タイトルの『音紋』は、人の指紋が一つしかないように、様々な音というのも、それぞれ一つしか存在していない(同じものはない)という意味で、そういう言葉を考えました」
「震災が起きた瞬間は、たぶん、いろんな音がしたんだろうと思ったんです。叫び声や、地鳴り、津波による音……。そんな中から見つけたい音がある。たとえば津波から逃げながら自分の子どもを探している方が、それらの音が一緒くたになっているなかで、耳を澄ませて、自分の子どもの声を探す。そんなこと(唯一無二の音を探すという状況)も考えて音紋というタイトルにしました」
「つらい経験とか悲惨なことというのは、あまり直視できない。『背後に広がる景色』としたのはそういう思いからです。家屋などが残っていない、何もない土地にも、残されているものたち、(別の言葉でいえば、)記憶があって、それは震災の後も前も、(声を)発しているのではないかと」
「この詩の中で一番伝えたかったのは、生きているということを上回る意味(価値あるもの)は何もない、ということ。命がある以上に、それ以上に何を望むんだ、ということを(難病を患った)自分に対しても、よく思うんです。詩の中では『幼いお前が息をする それ以上の意味はあるか』と書きました」
――20歳のころ、全身性エリテマトーデスという難病の療養中に詩作を本格化されたのですよね。
「長く入院していて、文字を書くとか本を読むとか、そういうことにしか時間を使えなかった。そこで詩を書くことを選んだ。自分の中の作業を見つけたかったんだと思います。退院後も、毎朝5時に起きて30分間詩を書くということを続けてきた。いつ死ぬか、いつ死ぬか、ということをずっと考えています。病気ゆえに『風邪を引いたら死ぬ』ともいわれているので。だから、全力で書かないといけないと思っています。あした死んだときに後悔したらいやなので」
――震災で、詩作にあたっての考え方はどんな影響を受けましたか。
「地震でたくさんの人が亡くなってしまうということや原発についての問題について、震災が起きるまでは考えもしなかった。そういうことが(自分の思考の中に)なかったこと自体が、『何も考えずに生きてきたのか』という恥ずかしさがある。震災前までは悲しさや楽しさやうれしいこと、腹が立つことを主に詩として書いていました。自分の中から出てきた情景や意味や経験などを書くことがとても多かった」
「震災で変わったのは『伝えること』がとても大きいことになった、ということ。震災後は、自分の姉の子ども、おいっ子やめいっ子に伝える詩が書ければ、と。子どもたちが大きくなったときに『どうしてこうなったの』『これはこうなの』というやりとりをするときに、渡せる詩が書ければいいなあ、と思っています」
――詩人として今後は。
「震災の前後で、詩人のもつ力、詩人ができることはあまり変わらない。詩人の和合亮一さんがインターネット上で、詩を福島から発信されたことはとても大きいことだと思いますし、続けていってほしいと勝手に思っています。多くの詩人や作家さんや歌人や俳人の方も、震災をテーマにしたプロジェクトがたくさんある。震災をどう伝え、どう表現していくか。詩人ができることなんて、詩を書くことしかない。どう伝え、どう忘れないでいくか。『もう一年たった』とかではなく、忘れてはいけない震災という『とき』があった、ということをずっと書いていきたいと思います」
(聞き手・赤田康和)
みすみ・みづき 1981年生まれ。病気療養中の20歳ごろ、詩作を本格化し、第1詩集「オウバアキル」で中原中也賞。音楽などのステージ活動も。今回は、打楽器奏者・井谷享志氏の伴奏のもとで朗読。14年、「隣人のいない部屋」で萩原朔太郎賞を最年少受賞