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ふるさと、故国と信じたところを、石もて追われるとは。それでもなお、アフリカにとどまるとは。
ジンバブエから逃れて今はザンビアを故国と呼ぶジェームズ・チャンスさんに聞きたいのは、つまるところそのことだった。「生まれ育ち、パスポートもジンバブエ。自分はジンバブエ人だと思っていた。でも周りはジンバブエ人と思っていなかったのだろう」
独立闘争の旧軍人たちが、白人の農場を勝手に占拠し始めたのを追認する形で、ムガベ大統領による農地改革は2000年代に急速に進められた。植民地時代に略取された土地を、土地のない黒人に取り戻すという理屈だった。
もっと前の世代と違い、チャンスさんは自分たちに黒人を差別する心はないと思う。この問題が持ち上がるまで仲良く過ごしていた。でも、相手の心の奥底にわだかまりが潜んでいたことを、農場を占拠されて思い知ることになる。
ジンバブエには老いた両親が残った。やはり残った兄は10年、何者かに殺された。姉は南アフリカに落ち着いた。一家離散のなかで、ザンビアは国外からの移住と投資を受け入れてくれた。生活の落ち着いたいま、チャンスさんはザンビアを故国と呼ぶ。
取材を申し込んだ時、趣旨も尋ねず歓迎してくれた。くぐった辛酸を思うと、この開けっぴろげさは何だろうと思った。「ジンバブエでは、自分たちのことしか考えないごうつくな金持ちとレッテルを張られた。そうではないことを知ってもらわないと」。色んな形で周囲の小規模農家にも手を貸している。
結局はよそ者として故国を追われ、なぜまだアフリカなのか。でも、そんな風に尋ねられて、すぐに答えられるものでもない。「アフリカがホームなんだよ」とチャンスさんは言った。さらに重ねて聞くと「広さかな。ここには先進国にある束縛がない。川でボートに乗るのにライセンスをとらないといけない、みたいな。ここには自由がある」と話した。
赤っぽく乾燥した土の畑と、丸い葉をつけた緑鮮やかなタバコの苗はいま別々にされている。来週に植えるのだという。収穫は11月ごろ。ほかにも時期をずらして植える苗が育てられていた。
タバコの葉はJTの関連会社に売る。細る一方だけど、この葉が日本で紫煙となるのか。水利ダムでは白黒のワシが魚を狙う。1840ヘクタールもの土地を10年の間に独力で開発する力と意思の強さを感じる。
でも、チャンスさんはタバコ農家にこだわっているわけではない。
中学生の息子は、南アフリカの学校に寄宿している。「息子の選択ではあるけれど、できれば農家は継がせたくない。息子には先進国で銀行員とか、手堅い仕事に就いてほしい」
「私たちは咬(か)まれたからね、手ひどく。それに責任の重さはすごい。毎朝、目覚めて120人もの人間を動かさなくてはならないというのは重圧だ。もし、土地ごとを買ってくれる会社があるなら、技術も惜しみなく提供する」
チャンス家の白塗りの母屋は広大な畑の割にはぽつんと建つ。木立が乾いた風から守っている。夜はとてつもなく静かになるんだとチャンスさんは話した。
61年生まれ。社会部をへて00年代、ナイロビ、ニューヨーク支局に勤務。バルカン半島、中東、アフリカ各地の紛争取材を経験しつつ、小心さは変わらない。動作が緩慢でのんきに見えるが、気は短い。趣味は散歩。しばしば二日酔い。だめトラファン。