一兵卒の戦場 - ノモンハン 大戦の起点と終止符 - プレミアムA:朝日新聞デジタル

ノモンハン 大戦の起点と終止符

 ノモンハン事件は、日本軍が初めて直面した近代戦だったとされる。東京・陸軍参謀本部の制止をよそに戦線を拡大した関東軍は、重砲と戦車で装備を固めたソ連の機甲師団との戦いを余儀なくされる。  精強をうたう関東軍は、拠点のハイラルからノモンハンまで、重い背囊(はいのう)を担ぎ、約1週間がかりで徒歩で移動した。近代戦の最前線で兵士は何を見たのか──。

証言者:稲田正純/参謀本部作戦課長 大佐南カリフォルニア大・東アジア図書館提供

だから鉄量ですね、結局。鉄量というのは弾だけじゃない。
戦車も。大砲もそうなんだな。そういうね、量でくる戦争ですね。
魂ではどうにもならんです。それの実情を見せつけられたわけです。

第2章一兵卒の戦場

 日本兵は勇敢だと思う。それは事実だ。いつもギリギリの絶体絶命の戦闘ばかりさせられてきたから、勇敢にならざるを得なかったのだ。戦車に銃剣だけで突撃する。それをやらなければこっちがやられる。やっても死ぬ。同じ死ぬならやるだけやって死のうと、勇敢にならざるを得ないではないか。 ──日本軍の作戦はいつも、兵を死地に放り込んで絶体絶命の戦闘ばかりさせていたように思う 川畑博信/歩兵第64連隊第3大隊 上等兵

日本軍、精神主義で
物量の劣勢を補う

 国土が狭く、資源に乏しい日本。工業力も当時は、欧米のレベルには達していなかった。そんな日本軍がよりどころにしたのは、将兵らの「不屈の精神力」だった。

歩兵の平均的な装備の重量計30kg超

  • 三八式歩兵銃

    4.8kg

  • 銃剣

    0.7kg

  • 弾薬120発

    約3kg

  • 手榴弾2発

    約1kg

  • ベルト、弾薬盒

    約1kg

  • 鉄兜

    1.2kg

  • 水筒(水800cc)

    1kg

  • ガスマスク

    1.5kg

  • 雑嚢、私物等

    1.5kg

  • 背嚢

    1.5kg

  • 飯盒、米4合

    1kg

  • 外套

    1.5kg

  • 雨衣

    0.5kg

  • 携帯スコップ

    1kg

  • 地下足袋(夜襲用)

    0.5kg

  • 携帯天幕

    1kg

  • 予備弾薬120発

    約3kg

  • その他

    約6kg

 「歩兵は戦闘の主兵として戦場に於(お)いて常に主要の任務を負担し、戦闘に最終の決を与ふるものなり」。日露戦争を経て1909(明治42)年に改訂された、歩兵の行動規範などを定めた“歩兵操典”は冒頭でこううたう。  日本陸軍にとって建軍以来、攻撃の主軸はあくまで歩兵の突撃だった。兵は自らの足で前線に向かい、戦闘しながら単独でも行動できるよう、重い装備を背負わされた。

日ソ両軍の兵器・輸送力砲は、火砲、迫撃砲/擲弾筒、対戦車砲

  • ソ連

  • 輸送トラック 5854

  • 戦車 438

  • 装甲車 385

  • 重・軽機関銃 2155

  • 953

 欧米には「戦争のプロは兵站(へいたん)を語り、素人は戦略を語る」という格言がある。一方、日本では「輜重(しちょう=軍需物資)輸卒(輸送兵)が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょ)とんぼも鳥のうち」と、補給や輸送を軽視する風潮が続いていた。

歩兵の後ろには、2両の戦車が
砲口をこちらに向けていた。
火炎瓶も携帯地雷もなく、あるのは
銃剣と2個の手榴弾だけだった。
仕方ない。来たら飛び乗って
手榴弾を中へ叩き込んでやろう。

川畑博信/歩兵第64連隊第3大隊 上等兵

動員された日本軍の兵器

 長い行軍の末、草原でソ連軍の機械化師団と相対した日本兵たち。その武器は物量に大きな差があり、性能や運用面でも遅れた部分が目立った。こうした差を埋めるため、兵士らは精神力に頼った攻撃を余儀なくされる。

戦車・装甲車

向こうにとって戦車は消耗品。
弾と同じ。
撃っても撃っても来る。
こっちのはいっぺん
攻撃したら
つぶれちゃって、役に立たない。

稲田正純/参謀本部作戦課長 大佐

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  • 投入した車両装甲車等含む

    84輌(ソ連 823輌以上)

     日本軍がノモンハンに戦車連隊を投入したのは1939年7月中旬まで。関東軍にとっては「虎の子」だったが、7月の戦闘で約半数が損害を受け、部隊の再編成を機に前線から引き揚げられた。そのため、ソ連軍の総攻撃があった8月下旬、日本軍の戦車は数台だけだった。

日本、対戦車戦を想定せず

 ノモンハン事件まで、日本軍の戦車は比較的軽装備な蔣介石の中国軍などとの交戦に使われ、トーチカ(コンクリートで固めた小型陣地)の攻撃など歩兵の支援を主目的としていた。対戦車戦を想定しない思想は、性能や運用に表れた。
 日本軍の八九式中戦車は特に速度が遅く、総合能力では九五式軽戦車よりも劣った。
 ソ連軍の戦車は艦船から流用した45ミリ砲を搭載。日本の戦車砲に比べて砲弾の初速が約2倍もあり、高い貫通力を持っていた。

兵士の練度で対抗したが

 日本の戦車部隊は高い練度を誇っていた。小隊の3両が連携して同一目標に次々と集中射を浴びせ、7月上旬のハルハ河東岸の戦闘ではソ連軍に大きな打撃を与えている。
 だが要所で歩兵の支援がなかった。突撃した際に敵陣に張られたピアノ線に引っかかって集中砲火を浴びるなどし、日本の戦車部隊は一時の優勢を生かし切れなかった。半数に近い損害を受け、前線を退くことになる。

火砲

敵の方が射程が非常に長い。
敵の方は安心してどんどん撃ってくる。
日本軍の弾は向こうへ行かないで
途中で落ちてしまう。
だからたちまち撃つのをやめてしまった。

金井塚勇吉/第64連隊第3大隊長 少佐

  • 投入した火砲速射砲・歩兵砲等含む

    302門(ソ連 953門)

    砲弾消費量

    推計 66,000発(ソ連 430,000発)

     日本軍は全砲弾の3割程度を7月下旬の砲撃戦で消費。8月下旬のソ連の総攻撃の際、砲弾使用量の差は10倍に達したとみられる。

速射砲、対戦車で威力を発揮

 近年の戦史研究から、日本軍がソ連戦車に与えた損害の8割近くが対戦車砲(速射砲)によるものだったことが判明した。当時のBT戦車の装甲は13~15ミリで、日本の戦車と同程度。ソ連側の戦記も「優秀な兵器である……徹甲弾は中距離(1キロ)でわが戦車の装甲を撃破貫通している。砲は非常に軽量で、対戦車戦の発見困難な機動兵器である」(コロミーエツ『ノモンハン戦車戦』)と評価する。

ソ連軍戦車撃破割合

速射砲

75~80%

野砲

15~20%

火炎瓶

5~10%

航空機

2~3%

地雷・手榴弾

2~3%

重砲の運用、稚拙に終わる

 だが、重砲の物量と性能差に加え、砲兵の熟練度の差も大きかった。公刊戦史によれば、日本の38式12センチ榴弾砲の最大射程は5.6キロ、最遠を狙えた92式10センチ加農砲で18.2キロ。
 一方、ソ連の31年式122ミリ加農砲は20.8キロ、新制式155ミリ加農砲は30キロあり、使った砲弾の推定量は6倍以上に達する。日本軍は重砲を集め7月下旬に砲撃戦を挑んだが、砲弾の多くは敵陣の手前に落ち、居場所を敵に知らせる結果に終わった。
 前線の日本軍の将兵は、最大十数キロ先からの絶え間ない砲撃にさらされた。

高台に展開
狙いをつけやすく
観測されにくい

砲撃が揃わず、
敵陣地外に着弾

着弾

ハルハ河

ソ連陣地変更を頻繁に実施
射撃すると直ちに後退

射撃陣地の変更をせず
機動力を欠く

火炎瓶

空き瓶にガソリンを詰め、
各人だいたい3~4本ずつ
持たせた。
肉薄攻撃班という。
戦車には弾を撃てない死角がある。
その死角にシャッと入っちゃう。

小野塚吉平/第23師団71連隊 大尉

  • なぜ火炎瓶が使われるようになったのか

     対戦車攻撃に火炎瓶が使われたのは、スペイン内戦が最初とされる。1936年10月29日、ソ連がスペインの共和国政府に供与した戦車15台の隊列を反乱軍側のモロッコ植民地兵らが火炎瓶で攻撃し、3台を炎上させた。火炎瓶は強い火力を持たない者が対抗する数少ない手段だった。

生身の兵隊、戦車に立ち向かう

 ノモンハンの激戦地跡には、おびただしい砲弾の破片とともに、サイダー瓶やその破片が多数見つかる。  銃剣突撃を戦闘の主軸に位置づけ、前線の兵士らに豪胆さと沈着さを求めた日本陸軍には、極限の精神力を必要とする攻撃方法があった。重量十数トンの鋼鉄の戦車に生身の歩兵が挑む、火炎瓶攻撃だ。日本兵らは地面に伏せて待ち、戦車が近づくと砲や機関銃の死角に飛び込み、過熱したエンジン部分にガソリンが入ったサイダー瓶をぶつけた。「肉薄攻撃」と呼ばれた。  ノモンハン事件でこの戦法が大きな効果を上げた局面がある。1939年7月初頭、ハルハ河を渡河した日本軍がソ連軍の戦車部隊と遭遇した際の戦闘だった。

 ソ連軍のBT戦車は最高時速52キロ。近づく戦車を、日本軍はまず速射砲で狙い、脇には2~3人ずつの肉薄攻撃班が結成された。彼らは壕を掘るか地面に伏せ、速射砲をかいくぐって突進してくる戦車を待ち伏せた。

サイダー瓶
20cm程度

布をねじ込んで
栓に

ガソリンは
6分程度の量

 戦車の死角は前後8メートル、左右4メートル以内とされていた。戦車が近づくと、肉薄攻撃班の兵士らは飛び出して履帯の間近へと回り込み、車体後部のエンジン周辺をめがけて火炎瓶を投げつけた。

 ソ連の主力戦車の中でも、BT-5型中戦車はエンジン部分が過熱しやすかった。火炎瓶が当たると、火種がなくても飛び散ったガソリンが発火。炎は空冷式の車内へ吸い込まれて戦車は内側から黒煙を上げ、文字どおり火の車となったまま30メートル余り走って止まった。

 さらに砲塔に飛び乗り、扉をこじ開けて車内へ手榴弾を投げ込む剛の者もいた。外へ逃げる戦車兵もいたが、銃剣で突き殺されるか、撃ち殺された。車内の砲弾の誘爆により、戦車は4~5時間にわたって燃え続けた。

 火炎瓶攻撃を指揮した歩兵第71連隊の小野塚吉平大尉は「戦車にひかれることは、覚悟の上」「ずいぶん原始的だけれど、もうそれより方法はなかった」と戦後、米国の戦史研究者に語った。

 時に華々しく語られる火炎瓶攻撃だが、実際の戦果は破壊した戦車の5~10%を占める程度だったと、近年の研究は示している。ソ連軍は8月の大攻勢では、排気筒部分が炎上しにくいBT-7型戦車を増やし、BT-5型も火炎瓶よけに金網の装着を徹底するなど対策を立てた。日本兵の捨て身の攻撃も、7月の戦闘のような効果は上げられなかった。

日ソ両軍の兵器・輸送力砲は、火砲、迫撃砲/擲弾筒、対戦車砲

  • ソ連

  • 輸送トラック 5854

  • 戦車 438

  • 装甲車 385

  • 重・軽機関銃 2155

  • 953

“精神力”信奉の果てに

 ノモンハン事件は、東京・参謀本部との内紛から暴走を重ねた関東軍が、欧州情勢をにらんだソ連の国家意思と衝突した紛争だったといえる。精神力を信奉した関東軍。鉄の戦車に火炎瓶で立ち向かう勇敢さや厳しい訓練を積み重ねた戦車兵の練度の高さにより、局面によっては優勢に立つことがあったが、独裁国家が動員する圧倒的な物量差は覆せなかった。

こっちが撃ったら、その数倍
向こうに撃ちまくられた。
手も足も出なかった。結局、物量。
足を自動車にせにゃ、
人間の足で走ってちゃ駄目だと、
嫌というほど見せつけられた

稲田正純/参謀本部作戦課長 大佐

師団をしてこのような運命に
遇(あ)わせたことに対し、

限りなき責任を感じ、一刻も早く
新京に帰って
第二期作戦の
準備をしなければならぬと思った

辻著「ノモンハン」 辻政信/関東軍参謀

 ノモンハン事件の動員兵力や損害については日満軍、ソ蒙軍とも複数のデータがあるが、ここでは最新の研究を中心におおむね定説とされる数字をあげた。特にソ連軍の損害は、大きな変動を経てきた。

  • ソ連
  • 日本
  • 兵員
  • 51950
  • 30000

  • 死者
  • 9703
  • 8741
  • 負傷者
  • 15952
  • 11027

 ジューコフによる報告書(39年11月)は死傷者を計9284人としたが、これは圧勝ぶりを誇示して被害を過小にみせた数字とみられ、冷戦終結後に公開された文書に依拠した近年の研究は、死傷者、行方不明を合わせて2万5655人とする。これは日本側の死傷者1万9768人を上回るが、戦争の目的であるハルハ河一帯の係争地域の奪取を果たしたソ連側の勝利は、やはり動かないといえる。  一人の兵士を小銃ではなく野砲で狙い撃ったソ連軍を目の当たりにし、上等兵だった川畑博信氏は生前、「近代戦は大和魂だけでは戦えない」と嘆いていた。だが、補給を軽視して最前線に過重な負担を強制し、作戦立案者の行き当たりばったりのツケを現場に回す体質は、改まらなかった。(編集委員・永井靖二)

銃のない者、鉄帽のない者、
裸足の者……、
まさに敗残兵である。
持ち帰ったものは
ただ命だけであった。

川畑博信/歩兵第64連隊第3大隊 上等兵

 「ノモンハン 大戦の起点と終止符」第2章は、過酷な精神論の下で戦うことを命じられた兵士の視点で戦闘を振り返ります。また主要な戦闘をすべて生き抜いた元兵士の「従軍記」を、生前のインタビューも交えて再構成します。


弾痕とみられる穴が空いていたソ連軍のヘルメット=2019年5月26日、モンゴル、水野義則撮影