スターリンの策略 - ノモンハン 大戦の起点と終止符 - プレミアムA:朝日新聞デジタル

ノモンハン 大戦の起点と終止符

 ノモンハン事件は、大草原を流れるハルハ河一帯の国境線をめぐり、日本・満州国軍とソ連・モンゴル軍が衝突した国境紛争だった。 ソ連のスターリンはドイツのヒトラーと不可侵条約を結ぶ一方、〝背後の敵〟日本にノモンハンで打撃を与え、1939年9月16日に停戦が成立。この間に第2次世界大戦が始まり、戦乱の舞台は欧州へと移る。だが、始まりの地ともいえるモンゴル東部では、満州への進攻をにらみ、輸送力の強化と兵力を蓄える巨大陣地の建設がひそかに進んでいた。

第3章スターリンの策略

 日本人をぐっすりと眠らせておく。ソ連最高指導者 スターリン  ──1945年7月、米・トルーマン大統領に、日本から和平の仲介を求められたと明かした上で、ソ連が和平に向けて動いてくれると、日本に信じさせることが望ましいと説いた(長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」から)

ノモンハン事件と大戦の終結、結んだ舞台

 2009年、〝ノモンハン事件日蒙共同調査団〟により、モンゴル東部・タムスクの大草原に巨大な陣地跡が確認された。幅約8メートルの多角形の対戦車壕(ごう)で囲まれ、東西は差し渡し13キロ、南北は同約10キロ、外周は39キロに及ぶ。 巨大陣地の地表から、1940年代初頭の刻印をもつ薬莢(やっきょう)が多数見つかった。ソ連軍が40年代初頭に使っていた航空機の機体や、同じ頃に米軍が供与した車両の部品の残骸も残されたまま。この巨大陣地は、ノモンハン事件の後に使われた軍事施設と判明した。

 タムスクの巨大陣地は、北側を走る満州国との国境から約40キロの位置に作られていた。国境線が満州国側へ突き出ているモンゴル東部で、東方へ進攻する際には〝出撃拠点〟として適した位置にある。 対戦車壕に囲まれた内側の面積は70.8平方キロで、東京・山手線をのみ込む広さだ。内部には、攻撃を受けた際の防戦用とみられる連絡壕やトーチカ(コンクリートで固めた銃座)が多数あり、兵舎や物資貯蔵用とみられる楕円(だえん)形の壕が並んでいた。陣地の南側には飛行場跡も確認された。

 陣地内にコンクリート製建造物が6棟あるのが確認された。中心部に残っていたのは、特に念入りな装飾が施され、れんがとセメント造りの外壁が厚さが76センチにも及ぶ立派な建物だった。
 モンゴルを代表する戦争記録画家、バトムンフ氏(1931~2015)が一帯を取材して描いた作品のなかに「将軍ジューコフの宿舎」(1989年)という絵がある。絵の間取りや壁の割れ目までが、この建物と一致しており、ジューコフの居館だった可能性が高いと調査団は結論づけた。
 ジューコフはノモンハン事件の停戦後の40年5月に現地を去ったが、その後もソ連軍の司令部として使われたとみられている。

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 さらに調査団は2014年、マタットとサンベース(現チョイバルサン)にも巨大な陣地跡があるのを、衛星画像の解析と現地調査から確認した。
 マタット陣地はタムスク陣地とほぼ同じ大きさ。サンベース陣地はこれらの2倍以上で、市街地を大きく取り巻くように配置されていた。飛行機や戦車の残骸、遊牧民の証言から、三つの巨大陣地は第2次大戦末期、ソ連の満州攻略に使われたことが判明した。

バトムンフ氏の水彩画「将軍ジューコフの宿舎」(1989年)。絵画と同じ構図で撮影した建物(2014年)

独ソ戦の背後に巨大陣地

 三つの巨大陣地はいずれも幅8~10メートル、深さ数メートルの対戦車壕で囲まれている。外周の形状はジグザグの多角形となっており、壕を越えようとする敵を複数方向から狙い撃てるようにするためとみられている。三つとも内部に複雑な連絡壕も掘られていた。

 ノモンハンからタムスク陣地は、西南西へ140キロ、マタットはタムスクからほぼ真西へ180キロ、サンベースはマタットから北西へ160キロの地点にある。それぞれの位置関係を日本地図に落とし込み、ノモンハンを名古屋に置くと、タムスクは大阪、マタットは岡山、サンベースは松江あたりとなる。

 1941年6月から4年間近くに及んだ独ソ戦。その最中にこれらの陣地は欧州の激戦地へ送り込まれる新兵らの演習に使われていた──。2016年にシベリアを訪れた調査団員らに、元兵士らはこう証言した。
 三つの巨大陣地の間には、兵力の移動を加速させるための軍用鉄道の建設も進んでいたことが近年、明らかになった。

ループ構造の部分で多数見つかった犬釘。軍用鉄道跡の脇に杭のように打ち込まれていたレールは、大きさから狭軌鉄道だったとみられる=2015年4月28日、モンゴル東部、永井靖二撮影

 モンゴル東部の大草原に立つと360度、水平な地平線に取り囲まれる。その大草原を突っ切るように、高さ1メートル足らず、幅数メートルのなだらかな〝土手〟が地平線まで続いていた。土手の上に多数散乱していたのは、線路を枕木に固定する犬釘。土手は軍用鉄道の線路の跡だ。数十キロに1軒あるかないかの遊牧民のテントで、短く切断された線路が建材や牧畜用の杭として使われていた。

マタット陣地東部の戦車壕跡と軍用鉄道跡=2019年5月28日、モンゴル、小型無人機で撮影

 欧州戦線で〝絶滅戦争〟とも呼ばれ、苛烈(かれつ)を極めた独ソ戦を戦いながら、スターリンは背後の極東で対日作戦への布石も忘れていなかった。その思惑が三つの巨大陣地と、それぞれを結ぶ軍用鉄道の跡から浮かび上がってくる。それらはどのように造られ、そして使われたのか。近年の調査と研究から、その一端が明らかになってきた。

1通の極秘文書

 ソ連は1930年代末、政治犯らを送り込んだ収容所から労働力を動員し、シベリア鉄道の複線化を完成させていた。さらにノモンハン事件があった39年には、モンゴルとの国境に近いボルジャからサンベースまで324キロの区間で、シベリア鉄道と同じ広軌(鉄道幅1524ミリ)の支線を建設。この支線は、ノモンハン事件停戦から約2カ月後の同年11月7日に完成したとされる。

 そして独ソ戦さなかの1942年6月6日付で、スターリンは1通の極秘文書を発出する。バヤントゥーメン(サンベースの旧名)―タムサグブラグ(タムスク)―ハマルダワー(旧満州との国境=ノモンハン戦域)を結ぶ鉄道路線の計画作りと現地調査を、年内に終えるよう命じたものだった。

モンゴル国内の鉄道の延伸に関するスターリン秘密命令書。鉄道計画の作成と1942年内完成の指示、モンゴルへ支払う金額などについて書かれている。提供:麻田雅文・岩手大学准教
史料番号:РГАСПИ. Ф. 644. Оп. 1. Д. 39. Л. 44

 極秘文書が発出されたのは、独軍の奇襲〝バルバロッサ作戦〟による独ソ戦の始まりからちょうど1年の時期。モスクワ近郊まで進攻した独軍を辛くも食い止めたものの、南方のスターリングラード(現ボルゴグラード)では戦闘が激しさを増しつつあった。独ソ戦の行方がまだ見えない中でも、スターリンは背後にあたるモンゴル東部での警戒を緩めていなかったことがわかる。

タムスク(上)へと向かう軍用鉄道の盛り土跡=2019年5月28日、モンゴル、小型無人機で撮影

 軍用鉄道は、サンベースからタムスクまで建設された。シベリア鉄道と比べると半分しかない幅750ミリの狭軌鉄道で、維持や補修が容易だった。南にあった炭鉱への支線も含めて約400キロに及んだ。その線路幅ゆえに、万一奪取されても敵が到達できるのはサンベースまで。〝大動脈〟のシベリア鉄道には直行できない点も考慮したとみられる。

 一方、独ソ戦が始まり独軍がモスクワへと迫っていた41年夏に日本軍は、シベリアへの進攻をうかがい演習の名目で70万以上の兵力を満州に集中させた(関特演)。だが9月初頭に、石油や天然ゴムなどの資源を求め、インドシナ半島などの南方地域を確保しようとする〝南進政策〟の方針が決まる。この決断には、ノモンハン事件で受けた痛手が影響したとみられている。南進政策で米英との対立は決定的に。日本軍は同年12月8日、ハワイの真珠湾、マレー半島に奇襲をかけ、太平洋戦争が始まる。そして戦局の悪化とともに、満州の軍事力も低下していく。

スターリンの策略

 1941年4月に日ソ中立条約を結んだスターリンが対日参戦に言及したのは、定説によれば43年10月、クレムリンで開かれた第3回モスクワ外相会談。最終日の晩餐(ばんさん)会の席上、スターリンは米国のハル国務長官の耳元でささやくように、ドイツを撃破した後での対日参戦を伝えたとされる。モンゴル東部で軍用鉄道の計画作りを命じたのは、それより15カ月以上も前だった。 強烈な猜疑(さいぎ)心の持ち主で、意に沿わない党や軍の幹部らを次々粛清したスターリン。独ソ戦で首都モスクワが危機に直面したさなかですら、敵視していた日本への注意を怠らなかった。

 海軍などが主張する南進政策の背景にあったのは、日中戦争が泥沼化するなか、米英が蔣介石軍を支援するための輸送路〝援蔣ルート〟を断ち、あわせて南方の石油資源などを確保したいという思惑だった。 一方、演習名目で満州に70万以上(20数個師団相当)の兵力を集中させた陸軍は、極東のソ連軍(約30個師団)が対独戦に戦力を割かれ、半数以下になったら攻め込もうという「熟柿(じゅくし)主義」をとっていた。だが、ソ連軍の欧州戦線への移動は小規模にとどまったこともあり、シベリアから攻め込む北進政策は立ち消えとなった。 1941年9月6日の御前会議で、南進に軸足を置いた「帝国国策遂行要領」が決定された。この情報は、東京にいたスパイ、リヒャルト・ゾルゲらによってスターリンに伝えられた。これを受け、ソ連はシベリアにいた師団の約半分をモスクワ攻防戦に投入することを決断した。 同年12月8日、太平洋戦争開戦。このころモンゴル東部の三つの巨大陣地でも新兵らを訓練し、モスクワへと次々送り出していた。実際の兵力は減少していたが、延々と続く訓練により、シベリアの兵力減をうかがっていた日本軍は欺かれた。

ドイツ軍の降伏や、ソ連の宣戦布告について当時の様子を伝える朝日新聞紙面

 太平洋戦争の序盤は破竹の勢いだった日本軍だが、1942年6月のミッドウェー海戦を機に敗色は深まっていく。物資も兵力も次第に欠乏し、満州にいた関東軍の兵力は南方へと割かれ、〝張り子の虎〟と化していった。 一方、ジューコフが指揮したスターリングラードの攻防戦でソ連軍は攻勢に転じた。そして1945年4~5月、すでに無条件降伏していたイタリアではムソリーニが捕らえられて処刑され、ドイツではヒトラーが自殺し、同国も無条件降伏。日本も同7月、ソ連に終戦の仲介を依頼するが、拒否される。ソ連は8月8日、日本に宣戦布告。終戦まで、あと1週間に迫っていた。

打たれた終止符

 1945年8月9日、ソ連軍は満州になだれ込んだ。総数174万。最大の兵力は、モンゴル東部から進攻したザバイカル方面軍だった。三つの巨大陣地とそれらを結ぶ軍用鉄道が拠点として使われた。日本は同15日、ポツダム宣言の受諾を表明。ノモンハン事件を発火点として始まった第2次世界大戦は、同じモンゴル東部で終止符が打たれたことになる。 関東軍は国境付近の少数の部隊を除き、朝鮮との境界に近い通化地区に撤退。開拓団や一般住民は置き去りに。ソ連軍との戦闘と、その後の混乱や越冬などで死亡した人は、軍民合わせて推定24万5400人とされる。また、関東軍の将兵を中心に約57万5千人がシベリアで抑留され、強制労働を強いられた。

シベリア抑留の重労働の象徴とされる第2シベリア鉄道建設で、切り出した木材をトラックに積む日本人たち。終戦から数年以内の撮影とみられる

 末期的な戦況に追い打ちをかける形となったソ連の対日参戦。それに向けた布石は、通説よりも早い段階で打たれていた可能性が出てきた。大草原に残された巨大陣地や軍用鉄道などの遺構は、戦後75年を経ても謎が多い独裁者スターリンの策謀を解き明かす、鍵の一つと言える。***「ノモンハン 大戦の起点と終止符」第3章は、ノモンハン事件後もモンゴル東部で続けられた巨大陣地の建設などに焦点を当てます。スターリンは独ソ戦のさなかも満州への進攻に備えていたことが、現地調査などでわかってきました。


新たな視点の先に

ドキュメンタリー映像でたどるノモンハン事件

 日本的な縄張り意識と精神主義が、満州国とモンゴルの国境で起きた関東軍とソ連の機械化部隊との紛争を拡大させた。それは玉突きのように欧州情勢と連動し、結果的に第2次世界大戦の〝発火点〟になったといえる。 ホロコーストや原爆をはじめ、幾多の人命を奪った第2次大戦。当企画は、いまも進む現地調査と欧米で注目され始めた新たな視点を基に、史上最悪の戦禍の〝始まり〟と〝終わり〟に着目した。重大な史実は少なからず相互に関連し合い、時として〝なぜ起きたのか〟を見えにくくする。 戦後75年を経て、当時を知る人々は減り続けている。記録をもとに事実を積み上げ、教訓を語り継ぐことの重要性はこれまで以上に増している。


タムスク陣地の廃虚の上に広がる星空=2019年5月27日、モンゴル、水野義則撮影

タムスク陣地の平面図=山本達也さん作成