第2回 手塚治虫文化賞 1998

マンガ大賞

マンガ大賞「坊っちゃん」の時代

関川夏央さん、谷口ジローさん

「坊っちゃん」の時代

あらすじ

 明治38年、東京帝国大学文科大学講師の夏目金之助は、ロンドン留学以来の神経症に悩んでいた。治療のために、小説を書き続ける夏目。物語は「坊っちゃん」の完成するまでを淡々と描く。

 折しも日露戦争終了直後の日本は「近代」というかつてない大きな曲がり角を迎えようとしていた。

 週刊「漫画アクション」に1986年から連載。関川氏のシナリオを谷口氏が演出、作画した。単行本全5巻は双葉社から刊行されている。

受賞コメント/関川夏央氏

 80年代なかば、冬のある午後だった。旧知の編集者に、マンガ作品を発想してくれないかといわれたとき、私は小考ののち、「日本近代とは何か」という主題でなら、と答えた。断られるだろうと思ったのに、彼は案に相違して諒(りょう)とした。それから12年あまり、いくたびかの中断をはさみながら谷口ジローと私はその仕事をつづけた。

 私は年来日本近代について考えてきた。ただしその表現については、評論、小説、評伝、あえて多岐にわたりたいとひそかに意図していた。また私は、散文の優位性を必ずしも信じていなかった。マンガは日本近代思想の物語を盛るに足る器であるという見通しと、共作を実験することへの興味が、当時ふたつながら私にはあった。

 物語マンガというジャンルを確立し、Mangaという言葉を世界的なものとした偉大な先達・手塚治虫の名を冠した賞を受けることは、そのような私にとって、まさに喜ばしい限りである。

(1998年の贈賞式小冊子から)

受賞コメント/谷口ジロー氏

 偉大な先達の名を冠した賞を受賞できたことを、とてもうれしく思っています。正直なところ望外の受賞に実感が湧かず、戸惑いも感じていますが、関川夏央さんとの共作である『「坊っちゃん」の時代』で受賞できたことは、私にとって大きな喜びです。

 思えば20年前の関川さんとの出逢(であ)いが、私の幸運の始まりであり、また、漫画表現の新たな道を模索するという私たちふたりの無謀な冒険のスタートでした。

 なかでも受賞作は、関川さんの脚本と格闘する過程で、様々な方法の実験を試み、修練を重ねながら、私がそれまで描いたことのない表現方法をいささかなりとも紡ぎだすことができたと思っています。

 さらに、簡潔で鮮やかな装丁が、「坊っちゃんの時代」という明治を一層際立たせる造本となったこともまた、私にとって大きな幸せでありました。本当にありがとうございました。

(1998年の贈賞式小冊子から)

作者に聞く/関川夏央氏

 「『坊っちゃん』の時代」は、当初5年で5巻を終える予定だったのですが、結局13年近くかかってしまいました。

 日露戦争直後の明治39年から43年にかけての5年間が主な舞台になっていますが、この時期は、いろいろな意味で「市民」というものが日本に生まれた時代だったと思います。

 日露戦争に関していえば、戦争を早くやめたがっていたのは軍部や政治家で、逆に継続を望んだのが「市民」たちでした。それは彼らが払った犠牲に見合うだけのものをロシアから獲得できなかったからだと思います。「市民」は気分の上では、帝国主義に完全におかされていたわけです。ちょうど今の常識と逆ですね。

 司馬遼太郎ふうに言うと、それまでは「坂の上の雲」をめざしてみんな一緒に坂を上ってきた。個人的な自我と国家的な自我とが一致していたわけです。ところが、日露戦争の終末を機に、それが分離し始める。その意味でも近代の原点といえるでしょうね。

 4人の主な登場人物の中では、石川啄木と夏目漱石のキャスティングが印象に残っています。

 たとえば石川啄木は、これまで生活苦にあえぐ悲劇の歌人として描かれることが多かった。でも、調べてみると、普通に暮らせば足りるだけの給料はもらっていたようなのです。

 じゃあ、なんであんなに貧乏かというと、彼には浪費癖があった。彼の歌は、月末の借金の支払いや原稿の締め切りに苦しんだ時に、自然に出てきてしまうものだったんです。

 無責任で、明るくて、生意気で、身勝手で、自己嫌悪癖があって……。おまけに甘えん坊。まさに現代人そのものですよね。でもなぜか、そういう見方はされてこなかった。

 私はマンガの命は、ユーモアと抽象化だと思っています。この場合のユーモアというのは、教養からにじみ出る常識というようなもので、ギャグではありません。また、ものごとを集約して、単純化するという作業が非常に重要です。それから、スピードと展開ですね。

 個人的には、人が読んで笑ってくれる作品が一番いいと思っています。難しい顔をして「興味深いですね」とか言われたって、つまりよくわからないってことですからね。

(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

作者に聞く/谷口ジロー氏

 「手塚治虫」という名前のついた賞をもらってうれしく思っています。小さいころから作品を読んできて、私にとっては「雲の上の人」という感じでしたから。作品自体が客観的な評価を受けたことも、すごくうれしいです。

 「『坊っちゃん』の時代」で苦労したのは、やはり明治という時代の空気感の表現だったと思います。当時の写真をみると、街や人物が非常に暗く映っている。そのままの陰影で描くと息苦しく、見た人に限定したイメージを与えてしまいかねない。

 視覚の効果というのは、非常に有効な半面、怖い部分がありますからね。それに写真のパース(透視図)と人間の生の視点とは違いますから、写真をもとに空間をデフォルメして、視覚的に余裕を感じられるように描くことを心がけました。

 ただ、私自身、明治という時代に生きていたわけではありませんし、明治生まれの人が見たら驚く間違いがあるかもしれません。

 登場人物についても同様です。主な登場人物の写真は残っているのですが、写真をそのまま引き写しても、全然表情が出ない。最初にキャラクターをつくるのが大変でした。

 描いてみて、「どうだろうか?」と考え、またやり直す。つくったキャラクターがよく動くかどうかが、悩みの種でした。その意味で成功したのは石川啄木でしたね。啄木のあっけらかんとして明るいキャラクター……。あれができて、作業が自然に進みました。

 逆に森鷗外や、大逆事件の幸徳秋水は、思ったようには、うまく動いてくれませんでした。少し悔いが残っています。

 作業自体は、非常に楽しかったです。新しいものを描いているという感じは常にありましたし、実験できるおもしろさもありました。芝居の演出法をイメージして、従来のマンガのスピード感を抑えたコマ割りで構成したり、パースを固定したままストーリーをすすめたり……。また、何でもないシーンに大ゴマを使ってみたりと、いろいろな手法を試すことができましたから。毎回の扉絵を描くのも楽しみでした。

 この作品を描くことを通じて、絵柄もかなり変わり、ようやく自分のスタイルみたいなものをつかめたと思っています。私にとっていろいろな意味で、転機になった作品ですね。

(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

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「坊っちゃん」の時代©関川夏央・谷口ジロー/双葉社

関川夏央関川夏央さん1949年、新潟県生まれ。出版社勤務を経て作家となる。84年の「ソウルの練習問題」や「海峡を越えたホームラン」で日本と韓国の文化衝突をルポし、第7回講談社ノンフィクション賞を受賞した。小説、評論、エッセー、マンガの共作と幅広い活動を続けている。(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

谷口ジロー谷口ジローさん1947年、鳥取県生まれ。72年に「嗄(しわが)れた部屋」でデビューした。ハードボイルドや動物ものに優れ、「犬を飼う」で92年に小学館漫画賞を受賞。「サムライ・ノングラータ」(矢作俊彦)「餓狼伝」(夢枕獏)「事件屋稼業」(関川夏央)など共作の作品も多い。(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

マンガ優秀賞

マンガ優秀賞ナニワ金融道青木雄二さん

ナニワ金融道

あらすじ

 勤め先の社長が夜逃げをしたために、失業した灰原達之。なんとか再就職した先は、ヤクザっぽい雰囲気のある大阪の街金融だった。ゼニをめぐって渦巻く市民の欲望と、返済に行き詰まって転落していく人々の後ろ姿、そして非情なまでに取り立てる金融のプロたち……。灰原は人間らしさと、目指す仕事像のはざまで揺れながら、一歩一歩成長していく。

受賞コメント

 『ナニワ金融道』は、第16回講談社漫画賞を、今から6年前の、6月23日に、東京会館にて頂いておりますので、もう過去の作品とばかり思っていたのに、また第2回手塚治虫文化賞、「マンガ優秀賞」に選ばれまして、本当に「しぶとい」作品だと思っております。思えば、今は亡き、手塚先生との唯一の接点は、25歳の時、小学館、「第7回ビッグコミック賞」で、『屋台』という作品が佳作に選ばれた時、「民衆の立場で描いているムードは貴重」と、評価していただいたことであります。あれから28年の歳月が流れたわけでありますが、僕もその間、様々な職業に手を染め、45歳にして、やっと『ナニワ金融道』で連載にこぎつけることが出来たわけですが、『ナニワ金融道』の本当のところの狙いは、「民衆の側に立って描く姿勢」だったのであります。ちなみに、6月9日は、僕の53回目の誕生日でもあります。

 皆様どうも本当にありがとうございました。

(1998年の贈賞式小冊子から)

作者に聞く

 受賞の知らせを聞いたときは「政治的な授賞なんやないか」と思いました。朝日新聞の家庭面にコラムを書いてるから、くれるんかなと。

 そうではないようなので、お受けしました。

 贈呈式のある6月9日、53歳の誕生日なんですわ。思えば誕生日って何もいいことなかった。いつも「今日も結局、何もないな」と思って暮れていって。今回は忘れられない誕生日になるんやないかな。

 子供のころは赤胴鈴之助とか鉄腕アトムとかをまねて書いてましたけど、高校までは野球選手になりたかったんです。人が良かったので、キャッチャーなんかやらされましたけどね。

 キャバレーのボーイとかデザイン会社の経営とか、いろいろな仕事しましたけど、今思えば「社会の裏を徹底的に見てやろう」って思いもあったかもしれません。マンガ家になったとき役立つんやないか、と。

 人間観察の目も水商売で学んだ面が大きい。例えばホステスがけんかする理由って必ず客の取り合いです。おカネが絡んでる。世の中、土台は欲ですわ。

 僕のマンガは、それをストレートに書いた。体裁なんか繕わず。「夢を与えろなんて言われても、どこに夢なんてあるんや」っていう思いがありました。

 実は手塚さんの作品、ほとんど読んでないんです。僕はSFとか「世の中にあるわけないもの」は読まんかった。つげ義春とか「ガロ」系の不条理なマンガには引かれましたけどね。

 「ナニワ金融道」が当たったのは「人間は知ることを欲する動物だ」ってことでしょうな。実際、保証人と連帯保証人の違いも知らない人が多かったから。人間、自分の知っとる世界いうのは読みまへんで。

 マンガが人気だって言われますけど、僕は活字離れが心配です。学者が難しく書いた教科書ばかり読まされているから、しょうがないけど。もしみんなが活字で社会を理解してたら、「ナニワ金融道」は売れなかったでしょうな。

 今回「ナニワ金融道」って、しぶとい作品やなと思いました。(講談社漫画賞に続いて)2回も100万円をもらったらいかんのじゃないか、と思います。でもまあ、当たらん作品を何本も書くよりは効率はよかった。人生、一発当てたら、ええんじゃないですか。

(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

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ナニワ金融道©青木雄二プロ講談社・全19巻、(講談社文庫全10巻)

青木雄二青木雄二さん1945年、京都府生まれ。電鉄会社や町役場勤務などを経て、75年にデザイン事務所を設立。90年から「コミックモーニング」誌で「ナニワ金融道」を連載する。97年、同作品の連載を終えてマンガ家卒業を宣言。2003年に死去。

特別賞

特別賞石ノ森章太郎さん

マンガとマンガ界への長年の貢献に対して

石ノ森章太郎さん 石ノ森章太郎さん

石ノ森氏の妻・利子さんコメント

 今回、石ノ森が尊敬しておりました手塚先生ゆかりの賞をいただけましたことは、大変光栄なことと思っております。できれば主人が生きておりましたら、どんなにか励みになったことでございましょう。

 マンガにまつわることで、特に思い出に残っているのは、新婚当初のことです。当時、主人は「おかしなおかしなエッちゃん」というマンガを連載していて、自宅で仕事をしていました。その時、「やってみるか」といわれて、黒い髪の毛の部分のベタ塗りを手伝ったのですが、失敗してしまい、あとから直したのを覚えています。

 一番、仕事の上で活力があったのは、1963年ごろからの10年間でしょうか。とにかく非常に忙しい時期で、編集者の人が大勢、原稿ができあがるまで庭で待っていたりしました。一日20時間以上も働いていた時もあったと思います。

 主人の場合、自宅に仕事場を持っていましたので、基本的に家をあけるということはありませんでした。

 何しろマンガが趣味のような人でしたので、マンガ以外の家の中の雑事や、会社運営のための心配をさせることなどには、気をつかわせないよう心がけてきたつもりです。でも、どんなに忙しい時でも、食事の時間などは私たち家族とあわせてくれる。そんなやさしい人でした。怒られたことはもちろん、大きな声を出された覚えはありません。

 元気なうちは、「仕事ばっかり」と思った時期もありましたが、700点を超えるすばらしい作品をこの世に残してくれたことを思えば、それも無理はなかった、よく頑張ってくれたと心から感謝しています。

(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)

  • サイボーグ009

サイボーグ009©石森プロ

石ノ森章太郎石ノ森章太郎さん本名・小野寺章太郎。1938年、宮城県生まれ。51年、毎日中学生新聞に4コママンガを初めて投稿し、入選。高校時代には「漫画少年」誌に「二級天使」を連載し、卒業と同時に上京。赤塚不二夫らとともにアパート「トキワ荘」に住んだ。SF、ギャグ、情報マンガ、詩などのさまざまなジャンルで、新しいアイデアをもとに実験を試み、多くの新分野を開拓した。67年に「サイボーグ009」で第7回講談社漫画賞、68年に「佐武と市捕物控」で第13回小学館漫画賞を受賞。88年には「マンガ日本経済入門」で日本漫画家協会賞大賞。日本漫画家協会常務理事、マンガジャパン世話人代表などもつとめ、マンガ界の顔としても活躍した。98年1月28日逝去。(1998年5月30日付、朝日新聞朝刊)