70年代に一世を風靡(ふうび)したバレエマンガ「アラベスク」を完成させた後、「しばらくバレエのことを忘れていた」と山岸凉子さん。それが、89年にローザンヌ国際バレエコンクールで熊川哲也が日本人初の金賞を受賞したのを見て、「これでまた、バレエのマンガを描ける」とひらめいた。
山岸さん自身、小学校時代の6年間、バレエを習っていた。費用もかかるから、母親に「やめなさい」と言われ、好きでたまらなかったのにバレエをやめてしまった。それでも「アラベスク」を描いた当時はバレエ経験が有利に働いたが、もう小学生時代の感覚は通じない。
バレエ教室に何度も足を運び、びっくりするようなスタイルの少女が当たり前のように踊っていることを目の当たりにし、日本人の少女を主人公にすることを決めた。山岸さん自身もバレエを再開しており、今では180度の開脚まであとほんの一歩のところまで柔軟性を取り戻している。
股関節の硬さに悩む主人公の六花(ゆき)、その姉で努力により天分を開花させた千花(ちか)、さらには六花の同級生で少年のようなダンサー空美(くみ)。厳しい母に優しい先生、児童虐待やいじめも絡み、少女マンガの王道とも言える成長物語を、手足の筋肉を伸びやかにとらえた繊細な線で描ききった。
「体が出来上がらなければ何一つできないのがバレエ。バレエを知らない人にも、実際のバレエってこうなんだと納得させたい」と山岸さん。
踊りだけでなく、バレエを取り巻く今の経済状況や最新の指導法などもふんだんに盛り込み、選考委員会でも大賞への異論はほとんど出なかった。
六花の成長と同時に起こった悲劇の後の第2部は、今年秋にも連載される予定だ。
(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)
今、世界に急発進しているMANGAは手塚先生なくしてはありえなかったわけで、その先生の名を冠した賞をいただけるというのはマンガ家のはしくれとして本当にありがたく嬉(うれ)しいことです。
継続は力なりと言いますが……私はただただマンガを描くことしかできず、いやも応もなくここまで来てしまいました。
それしかできないということは悲しくもあり……。そして嬉(うれ)しくもありなのです。こんな私を編集部の皆さんはじめ周りの方々がバックアップしてくださったことに感謝の気持ちでいっぱいです。
(2007年の贈賞式小冊子から)
山岸凉子札幌市生まれ。69年にマンガ家デビュー。初の本格的なバレエマンガ「アラベスク」で注目を集め、83年に聖徳太子を主人公とする「日出処の天子」で第7回講談社漫画賞を受賞。「舞姫 テレプシコーラ」は、第1部が00~06年に、第2部が07~10年に雑誌「ダ・ヴィンチ」で連載された。「週刊モーニング」で「レベレーション ―啓示―」を連載中。
(2016年1月20日現在)
のぞゑのぶひささん(作画)岩田和博さん(企画・脚色)
軍隊生活を描いた重厚な原作を、精緻な作画により異色のマンガとして完成させた業績に対して
大西巨人さんが四半世紀かけて完成させた戦後文学の傑作「神聖喜劇」。その大ファンだという岩田和博さんが「どうしてもビジュアル化したい」と考え、以前の仕事仲間、のぞゑのぶひささんに話を持ちかけたのが始まりだった。
大西さんもマンガ化を承諾。さっそく取りかかったものの、帝大を中退した日本陸軍の2等兵、東堂太郎が圧倒的な記憶力を武器に軍隊生活に挑む重層的な人間ドラマは、セリフを一コマにおさめるだけでも大変な作業だった。
岩田さんは「かつて自分が味わった感動を損なわないためにも、原作に忠実であること」にとにかくこだわった。「絵になりやすい部分をもらさず描いても、七三分けの隊長がいるはずがないと直されたり、仕上げも大変だった」と、のぞゑさん。
わかりやすくするために時制を入れ替えたりはせず、セリフの縮小も最小限に抑えた。連載による雑誌編集者の介在をおそれ、自費出版も覚悟に、10年かけて書き下ろした。
空白を埋め尽くすかのようにびっしり描き込まれたセリフや文章に、「労作だけれども、原作そのままで、マンガとして独立した表現になっていない」などの意見も出て、選考委員会では評価が割れた。
「このマンガをきっかけに、原作を読んでほしい。それが一番の願いです」と岩田さんは話す。
(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)
近年小説や漫画原作の映画作品やテレビドラマ化されるなか、日本を代表する最高傑作と評価される小説「神聖喜劇」。映画化の話題にはなるものの今だ現実を見ない今、映像表現の困難なこの小説は漫画なら表現可能ではないかと思い手描き始め、漫画表現としての制約のなかで、出来る限り原作に忠実に表現することに心がけ、長い時間をかけ漫画「神聖喜劇」は昨年5月に発売開始され、今年1月末に完結することが出来ました。これは小説「神聖喜劇」への視覚化への挑戦でもありました。今思うと私としては満足の行く漫画表現が出来たとしても、娯楽、エンターテインメントの漫画としての出来には満足出来る物ではありませんでした。しかし、この漫画を高く評価し、支持して頂いて、あの少年時代心ときめかせた「鉄腕アトム」の手塚治虫、その手塚治虫文化賞新生賞を頂ける事になり、私にとっておおきな励みになります。
(2007年の贈賞式小冊子から)
漫画「神聖喜劇」最終巻のあとがきに私は次のように記した。「小説はもっと面白い 魂が震える」と題し、「戦後文学の最高傑作――と称される『神聖喜劇』は私が最も深い感銘と感動を持ち続けている長編小説である。――中略――漫画化にあたり私の心がけた事は、文章は限りなく原作の意に忠実に、であった。あとはのぞゑの画(か)いたものに文句と注文をつけるくらいのもので、画の労はすべて彼にある。――中略――今はなにより、原作未読の方に小説『神聖喜劇』の必読を願う、そして強く勧める。やむを得ず切り捨てた膨大な素晴らしい文章の数々は計り知れず、原作はまさに大自然の大河の流れであり、本作はせいぜい田に引く小川を手で掘ったくらいのものである。」――この思いは今も変わらない。
受賞はまるで優等生・鉄腕アトムから賞をもらうようで晴れがましくもあり、面映(は)ゆい気がする。ブロンズ像は一つ。レプリカを作って両方を半分に切り、合体させる事を許してもらえるだろうか。「半身がサイボーグ」というのも悪くないと思うのですが、ダメかなあ。
(2007年の贈賞式小冊子から)
このたび岩田和博・のぞゑのぶひさ両君が手塚治虫文化賞「新生賞」を受けたのは、両君の制作が初手から長年月所要覚悟・世俗的当て込み皆無の試みであっただけに、なおさら結構なことであり、それが両君の今後の仕事にたいする大きい激励を具象するのも、またたいそう結構なことである。
(2007年の贈賞式小冊子から)
のぞゑのぶひさ1949年、佐賀県生まれ。3歳の頃、関西に移り、京都や大阪で様々な職業を経験。「伏」や「木金堂主人」を発表。栃木県那須町で創作を続けている。(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)
岩田和博1947年、京都府生まれ。大学卒業後に会社員を経て、ファッションショーの演出や、京都の催事などをプロデュースしている。京都市在住。(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)
庶民を主人公にした心温まる人情ドラマの創作に対して
大阪の下町を舞台に、濃厚で多彩な男女が、泣かせる人情ドラマをいくつも展開する。
表題作の主役はヤンキーの中学生。ワシは死んだお父ちゃんの息子なのか、それともお父ちゃんが死んですぐに家に住み着いたおっちゃんの息子なのかとあれこれ悩む。性同一性障害に苦しむ男子小学生は、学校祭の劇でシンデレラを演じる。
作者の森下裕美さんは「大阪ハムレット」を描く前は、「少年アシベ」など4コママンガを中心に活躍していた。それが、いきなりストーリーマンガ家へと転身を果たした。
「40歳を過ぎてから急に生きる目的が見えなくなってしまったんです。マンガ家の人生はもう残り少ないのではないかと。どうしてもストーリーマンガを描きたいという衝動を止められなかった」と森下さん。
絵も思い切って変えた。外見をデフォルメし、目つきが鋭かったり骨格のいびつな人物を多数登場させた。
取材のために東京の仕事場を離れ、大好きな大阪の下町を歩き回ってスケッチを続けた。「5分ぐらい喫茶店に座っているだけで、ものすごい濃い話を聞けたりする。人間のエネルギーがすごい。マンガの背景は岸和田を中心に描きました」
いい人も悪い人もどっさり出てくるが、絶対悪がいる勧善懲悪の話にはならない。「本当に悪い人間を描きたくないんです。世の中、悪い人ばかりではないというのを知ってほしいから」
(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)
自分にしかできないモノを作りたい、という衝動から描き始めました。ほとんど20年ぶりのストーリーモノは、初心者同然で、精神的にも体力的にもキツかったです……。
皆様から思いもよらぬ過大な評価を頂き、自分自身でも驚いています。ひとえに周りの方の協力の賜物(たまもの)と感謝してます。今回、手塚治虫文化賞「短編賞」というモノスゴク大きな賞を頂き、ほんとうにうれしいです。ありがとうございました。
(2007年の贈賞式小冊子から)
森下裕美1962年、奈良県生まれ。「英語教師」で82年にヤングジャンプ青年漫画大賞準入選。4コマ漫画が中心となり、「少年アシベ」はテレビアニメにもなった。「大阪ハムレット」は漫画アクションに05、06年に掲載され、文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞した。夫はマンガ家の山科けいすけさん。(2007年5月10日付、朝日新聞朝刊)