アサヒ・コムの仕事に携わって以来、2007年7月の新潟県中越沖地震や2008年6月の岩手・宮城内陸地震などいくつかの地震に遭遇した。その時々にネットニュースにできることは何かを考えたが、2011年3月11日の東日本大震災は、規模が事前の想像をはるかに超えていた。インターネットが本格的に普及した後、はじめて遭遇した大規模災害だった。

 当時アサヒ・コムが取り組んだことを振り返ってみたい。

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2011年3月12日未明のasahi.comトップページ。緊急に立ち上げられた特集へのリンクが並ぶ

 当日、地震の発生は14時46分。新聞社では夕刊の編集作業完了後の遅い昼食時間を終えて、午後の仕事が動き始めた後だった。天井のパネルがところどころ外れ、オフィスの備品やテレビが倒れかねないほど動く。あわてて手で押さえる間にも揺れは長く続き、地震の規模がこれまでになく大きなものであることはすぐに分かった。Twitterで地震関係のツイートを探すと、ひび割れた道路や倒壊した建物の写真が次々とあらわれた。

 「宮城県栗原市で震度7」「新幹線が運転を見合わせた」「岩手・宮城・福島沿岸で大津波警報」「日経平均が急落」「都心部でも被害 火災や事故」。ぽつぽつと速報記事が入ってくる。被害が広範囲に及んでいること。津波が発生していること。交通機関の混乱。

 トップページに煙が上がる東京湾のコンビナートを望遠でとらえた写真を入れ、震災対応が始まった。

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 まず最初にアクセスが集中したのはJR、地下鉄などの交通機関の運行状況を伝えるニュース。東京では多くの会社員たちが都心から帰れなくなり「帰宅難民」と化していた。

 次に多くの読者が必要としたのが、電気やガス、水道などライフラインに関する情報だった。被災地のライフラインは壊滅的状態で、さらに東日本各地でも停電や断水などが起きた。いつ復旧するのか、給水はどこに行けば受けられるのか、といった情報が切実に求められていた。給水時間のお知らせなど、地域ごとの詳細な情報はTwitterを活用した情報提供が役に立った。ライフライン情報へのアクセスに拍車をかけたのは「計画停電」だ。日々予定が更新され、実施されるかどうかが判然としない停電に読者もわれわれも振り回された。

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2011年3月18日付朝刊に掲載されたインフォグラフィック「福島第一原発3号機の構造と放水作戦」

 震災翌日以降、被災地発の情報で多くのアクセスが集まったのは安否情報だった。避難所ごとの名簿は、まずは紙面に掲載された一覧を転載。その後、氏名による検索機能を付け加えた。さらにGoogleが立ち上げた避難者名簿の検索サイトにもデータを提供し、名簿を共有することにした。「亡くなられた方々」の名簿にも多くのアクセスがあった。

 そして地震後、長く関心を集めたのが福島第一原発に関する情報だ。

 水素爆発、注水作業など目に見える出来事を解説した記事も読まれたが、原子炉の構造や発電所のどの部分でどんなトラブルが発生しているのかを図解したインフォグラフィックには、極めて高い注目が集まった。

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首都大学東京の渡邉英徳准教授研究室と共同で制作した「東日本大震災アーカイブ」。震災発生1年に合わせて公開された。各地の被災者の声をマッピングして紹介している

 震災直後に必要とされたのは「交通機関」「ライフライン」「安否確認」などの正確な1次情報だった。だが、ネットなどのインフラが壊滅状態にある被災地への情報提供は非常に困難だった。ネットはどこでもいかなるときでも必ず繋がっているわけではない、ということは教訓として記憶されるべきだろう。

 緊急時に何をどう伝えるか、とるべき各種の手順やインフラ面の整備、スタッフの訓練など、そのための備えを詳細に想定・実施しておくことの大事さを改めて思う。