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志摩・答志島 幕府が恐れた九鬼水軍

2009年8月6日10時25分

写真:九鬼嘉隆の胴塚を説明する鳥羽市文化財専門員の豊田祥三さん=鳥羽市答志町、斉藤写す拡大九鬼嘉隆の胴塚を説明する鳥羽市文化財専門員の豊田祥三さん=鳥羽市答志町、斉藤写す

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 伊勢・志摩(三重県)の戦国大名を、もう一人取り上げる。織田信長の水軍大将として名をはせた九鬼嘉隆(よしたか)だ。

 嘉隆は志摩半島の先端部、波切(なきり)(志摩市)の小さな豪族だったが、信長と接近したことで頭角を現す。天正6(1578)年、現在の大阪湾で毛利水軍を破った第2次木津川口(きづがわぐち)海戦は特に有名だ。

 その海戦で嘉隆が使ったのが6隻の大型船だった。太田牛一の「信長公記」(中川太古訳)は「六艘(そう)の船には大砲が何門もあった。敵船を間近に引き付け、大将の船とおぼしきものへ大砲を撃ち込み、大破させた。(略)敵船数百艘を木津の河口へ追い込んで撃破した」と嘉隆の戦いぶりを絶賛している。

 どんな船だったのか?

 日本にいた宣教師オルガンチノは「日本国中最も大きく又華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり(略)日本に於(おい)て此(こ)の如(ごと)き物を造ることに驚きたり」(耶蘇会士日本通信)と記す。興福寺の「多聞院日記」天正6年7月20日には「鉄ノ船也、テツハウ(鉄砲)トヲラヌ用意、事々敷(ことごとしき)儀也」とある。

 当時の技術で鋼鉄製の船ができるはずがないので、ところどころに鉄板を打ちつけた船と考えられているが、具体的な史料はない。鳥羽市教育委員会文化財専門員の豊田祥三さんは「その6隻は伊勢でつくられ、海戦後は本拠地であった鳥羽港に戻ったはず。設計図などが出てくれば大発見なのですが」と話す。

 嘉隆はこれらの功績によって志摩国などを領し、大隅守に任官し、後に鳥羽城を築城する。信長が本能寺の変で死んだ後は最終的に豊臣秀吉に帰順。小田原攻めや朝鮮出兵に水軍大将として出陣した。

 慶長5(1600)年9月の関ケ原の戦いで後継ぎの守隆は勝った東軍についたが、嘉隆は敗れた西軍についた。同年10月、その責任をとって切腹したのが鳥羽沖に浮かぶ答志島(とうしじま)だ。

 鳥羽港から約20分。和具(わぐ)港から歩いてすぐのところにあった「洞泉庵(とうせんあん)」で自害したとされる。現在はその跡地近くに胴塚が、また少し離れた山の頂に首塚がある。「自分がつくった鳥羽城が見えるようにと遺言したため、首塚は山頂に建てられたと伝えられています」と豊田さん。

 九鬼家は守隆の子良隆の跡目をめぐるお家騒動で、摂津・三田(兵庫県三田市)と丹波・綾部(京都府綾部市)に分藩・移封される。ともに内陸で、九鬼水軍は羽根をもがれた鳥のようになった。

 「それほどに江戸幕府が九鬼水軍を恐れたということでしょう。だから鳥羽は九鬼水軍で有名ですが、史料はあまり残っていません」。豊田さんの解説だ。(斉藤勝寿)

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