現在位置:asahi.com>トラベル>愛の旅人> 記事

愛の旅人

「大観自叙伝」

横山大観と3人の妻

2008年01月26日

 冬の澄んだ日差しが、太平洋を照らす。海原はつながっていても、岸辺により大きく表情を変える。

写真

横山大観が岡倉天心とともに移り住んだ五浦海岸。夕暮れのさびしさは今も変わらない=茨城県北茨城市で

写真

大観の寄進した「龍」の天井画が残る下谷神社=東京都台東区で

写真

大観が療養中の直子と過ごした由比ガ浜。子どもが漁網の間で遊んでいた=神奈川県鎌倉市で

写真

横山大観と、3番目の妻、静子

写真

横山大観の2番目の妻、直子

写真

横山大観の最初の妻、文と長女初音

図

  

 画家・横山大観の足跡をたどり、荒々しい断崖(だんがい)を波が打つ茨城県北部の五浦(いづら)海岸を見た。数日をへて神奈川・鎌倉を訪ね、由比ガ浜で穏やかな潮騒を聞いた。

 それぞれ魅力的だが、保養地としては鎌倉に人気があった。大観が2人目の妻、直子の病気療養のため滞在した1912(大正元)年ごろ、すでにおよそ500戸の別荘があったという。ふたりは現在の江ノ島電鉄・由比ケ浜駅のそばに借家したと推測される。

 没後半世紀、大観は日本画の代表的な存在たり続けてきた。美術的な知識がない私でも、絵を見ればそのスケールと大衆性を感じ取れるように思う。

 だが、その私生活を知ると、同情の念を禁じ得ない。明治末から大正にかけて、家族が次々に倒れてゆく。

 1897(明治30)年、29歳で長野・上田の儒者の娘である文(ぶん)と結婚、31歳で長女初音をもうけるが、3年後に文は肺を病み他界する。さらにその3年後、幼い初音にまで病気で先立たれてしまう。

 試練はなお続く。翌1906年、東京・四谷の材木商の娘、直子をめとるが、すぐに師・岡倉天心の命で大観や菱田春草(ひしだしゅんそう)ら教え子たちは五浦に活動の拠点を移さねばならなかった。

 五浦時代には絵も売れず、飯のおかずに魚を釣ってしのぐような貧しさ。この数年のうちに、父と妹が相次いで病没。直子も肺を病む。栄養状態の悪さが影響したのではなかろうか。

 大観の住居跡には今、温泉のわくホテルが立つ。近くにある茨城県天心記念五浦美術館や天心の残した六角堂と合わせて観光地をなしている。海から日が昇る荘厳さは比類がないという。

 しかし、大観にとっては苦い記憶の地だった。孫の横山隆さん(74)は、晩年の大観が五浦時代を振り返って「絵の上でも精神的にも自分のためになっていない」と語るのを聞いた。

 2度目の妻まで失いたくはない――豊かでない暮らしのなか、直子を鎌倉で療養させた大観の心情だったろう。

 大観や春草らを支援した千葉・流山のしょうゆ醸造家の俳人、秋元洒汀(しゃてい)に鎌倉から出したはがきが残る。「家内の病気も昨今軽快に相成り候」と喜びが伝わるが、まもなく直子は世を去る。「私の家庭はあまりに悲惨であった」。『大観自叙伝』は痛切に記す。

 それでも、大観は強靱(きょうじん)な生命力の持ち主であった。直子をみとって1年足らず、45歳で判事の娘である静子と3度目の結婚。私生活の苦闘をバネに、賢夫人の誉れ高い静子の内助を得て、第一人者へと歩みを進めてゆく。

 このように書いて間違いないはずだが、大観という存在を捕らえきれないもどかしさを感じる。矛盾を内蔵した複雑な大きさがこの人にはあるのだ。

「普通の瓦」 常に自己革新

 妻に2度も先立たれるという家庭の不幸と辛苦が人間的にも画家としても横山大観を成長させた、という私の先入観は、的はずれではないにしても、やや皮相的に過ぎるようだ。

 東京美術学校(現東京芸大)の校長を追われた師の岡倉天心に従って、職を辞して日本美術院の創設に参加し、「都落ち」と揶揄(やゆ)されても天心の思いつきにつきあって茨城・五浦に(内心では嫌々かもしれないが)移住する反骨と純情が大観にはあった。

♪  ♪  ♪

 一方で、昭和に入り大家と呼ばれるようになってからは、政治に絡んだ動きが多いという批判を受けた。しかし弟子は持たず、派閥を作ろうとすることもなかったという。

 戦時中は大作「海に因(ちな)む十題 山に因む十題」(いわゆる海山十題)の売上金を軍に献納するなど国威発揚に積極的に協力し、敗戦後はすぐ米国の著名な美術愛好家を招いて「京都、奈良を爆撃からお守りくださってありがたい」と述べたと伝えられるような変わり身の早さも、一部でひんしゅくを買ったらしい。

 気難しさも有名だった。戦前から戦後にかけて「大観に人が集まるのは、奥さんができた人だから」と美術関係者はうわさした。3人目の妻で大観より20以上年下だった静子は、気分屋で人の好き嫌いの激しい大観を上手に働かせた。

 嫌な相手の来訪や気に入らない人からの注文なら、平気で門前払いにする大観だったが、そんな時は静子が丁寧に頭を下げて、交際を絶たないようにした。絵の注文と代金を細かく書き留めた帳面も残っている。大観が悠々とした晩年を送れたのは、静子の力が大きい。

 孫の横山隆さんによると、大観は静子に「しいちゃん」とご機嫌を取るようにたびたび話しかけていた。「私の秘書役です」。そんな言い方をして、娘ほどに若い妻をねぎらっていた。

 欠点とも見られそうな人間くささを聞いても、かえって大観が大きく見えてくる。星の数ほどいる画家と画家志望者の中で、なぜ日本画の代表者となったのか。そんなことを考えながら、東京・上野の不忍池に面した横山大観記念館から、上野公園を通って東京芸大まで歩いた。

 上野の森は紙芝居を見せる人、歌う人、踊る人、慈善活動の食事提供への行列などにぎやかだ。それでいて東京らしからぬどこかのんびりした空気が漂う。大観もこの地を特に気に入り、明治末に池之端に家を構えてから手放さず、終(つい)のすみかとした。

 東京芸大准教授の古田亮さん(43)を訪ね、大観の魅力の源泉を聞いた。

 「明治、大正、昭和と90年近い人生の中で、それぞれの時代に表れた精神や感情が敏感に絵に反映されている、いわば日本人の記憶とでもいうべき作品になったことでしょう」

♪  ♪  ♪

 写実的な技術の巧拙だけを言えば、大観はむしろ「下手の部類」という見方もあるそうだ。しかし、師である天心の考え方を最もよく継ぎ、意思や精神を強く絵で表す努力を続けながら長く一線で描き続けたことで、「国民的画家」の地位を得たという。

 そうした消息は大観自身がよく自覚していた。苦楽を共にした無二の親友・菱田春草の早世を惜しんで「あれこそ天才、磨くほど光る金の瓦だった。おれなんかは普通の瓦だよ」と語っていたという。

 「普通の瓦」という意識があればこそ、マンネリに陥らないように手法や題材で変化を恐れない柔軟さを持っていた。古田さんも「画家はスタイルを決めるとそれにこだわってしまうものだが、大観は画風を変えて、自己革新を怠らなかった」と分析する。

 かくして大観の名は巨大になった。それにつれて模倣者が続出し、贋作(がんさく)も横行した。大観作と伝えられた作品で、隆さんが鑑定したものは約8000点にのぼるが、真筆と判定できるものは1割弱しかなかった。

 大観の没後20年近く生きた静子は、先妻2人について語ることはなかったが、一度だけ「初音ちゃんは気の毒なことをした」ともらしたのを隆さんは覚えている。幼くして亡くなった初音のほかに、3人の妻との間に子は生まれず、静子の弟の善信を養子にした。

♪  ♪  ♪

 一昨年、隆さんは母(善信の妻)の七回忌を機に、東京都荒川区内の寺にあった戦前の横山家の墓を整理して、谷中霊園(台東区)にある大観と静子の墓所に統合した。

 最初の妻・文と2番目の妻・直子のお骨は、およそ1世紀をへて形はなく、わずかな土が残っているだけだった。「土に帰るって本当なんだな」と隆さんは思ったという。

〈ふたり〉

 横山大観(本名・秀麿)は水戸藩士の子に生まれ、東京美術学校(現東京芸大)に1回生として入学。校長となる岡倉天心に師事する。同校助教授になって文と結婚するが、内紛から天心が辞任。大観も辞職して天心の日本美術院設立に参加する。その後に文が病没、娘の初音も夭折(ようせつ)、再婚した直子も病気で失い、静子と3度目の結婚をする。大正から昭和初期にかけて精力的に活動し、代表的な日本画家に。1930(昭和5)年、ローマで開かれた日本美術展に出品、静子とともに参加。37年の第1回文化勲章の受章者となる。静子の弟善信を養子にし、その息子の隆さんが横山大観記念館の館長。

このページのトップに戻る