家族を処刑されたカンボジアの少年を導いた「光」 マイストーリー
アジアをはじめ世界各地を取材し続けるジャーナリスト、舟越美夏さん。30年以上追いかける「現場」を通して感じたこと、今に至るまでをつづってもらいました。

アジアをはじめ世界各地を取材し続けるジャーナリスト、舟越美夏さん。30年以上追いかける「現場」を通して感じたこと、今に至るまでをつづってもらいました。
with Planetは、地球上の様々な課題の「いま」を伝え、「これから」を考えます。その現場を取材し、私たちとともに考える4人のジャーナリストが、これまでどんな道を歩み、なぜ今ここにいるのか、自らの言葉で語ります。
子どもの頃、産炭地だった福岡・筑豊の故郷が嫌いでした。おびただしい犠牲を払いながら大地を掘り、戦争と、戦後の復興の日々を支えた人々の誇りは、高度成長期のエネルギー政策の転換で打ち捨てられ、大人たちはぼうぜんとしているように見えました。社会は政争と暴力、貧困、薬物と理不尽さに満ち、助けを呼んでも誰にも届かないような気がしていました。私は小学校の教室の窓から、負の遺産に転落したボタ山や立坑(たてこう。地表と坑内深部を結ぶ垂直に掘った坑道)跡を眺めては、「ここではないどこか」に行く日を夢見ていました。
それでもひとつだけ、確かに思えるものがありました。この荒れ地には「生きるとはどういうことか」を知っている大人や子どもがいたことです。世界の誰も知らなくても、私は彼らのすごさを知っている。今思えば、そう感じることが私の誇りでした。この感覚を失わなければ、未来を見通せなくてもどこまでも歩いていけるのではないか。漠然とした予感もありました。
大学を卒業し通信社の記者になりましたが、私はその感覚に触れるものに魅了され続けていたと思います。2000年代にはカンボジア、ベトナム、フィリピンの各支局を拠点に、西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの間に横たわるアジアの国々を巡りました。東京本社に戻ってからはアフリカや中東、旧ソ連邦、欧州各国や米国も歩くことができました。
因習を破り自転車で村を駆け抜けたアフガニスタンの少女の勇気、激しい戦闘が繰り広げられる中でも、医師の倫理を貫き、敵味方の関係なく負傷者を治療し続けたロシア・チェチェン共和国の医師。少年時代に処刑執行人の任務を負わされた男性が心に秘めてきた愛情への渇望。テロ事件で娘を亡くした深い悲しみを「敵の立場にある人々さえも味わうことがありませんように」と祈るロシアの母親。米軍施設で15年近く拘束されていたモーリタニアの男性は、自分を殴る若い米兵の将来を気にかけていた。「人を拷問した経験に彼は一生苦しむだろう」。人々の言葉からうかがえる人間の奥深さに、私は夢中になり、同時に問いを突きつけられていました。
究極の立場に立たされた時に、私は彼らのように人間の尊厳を貫き、他者を思いやる気持ちを持てるだろうか。私の中にもある残虐性を制御して生きていくことができるだろうか。
初めてその問いを突きつけられたカンボジアは忘れ難い場所です。特派員として赴任した2001年、この国には、1970年代後半、約200万人の国民を死に追いやったとして世界から糾弾されていたポル・ポト派の最高幹部たちがまだ生きていました。彼らと直接話をし、悲劇が起きた理由を探りたいという私の願いはかない、最高幹部らと何度も会いました。が、彼らとの対話よりも衝撃的だったのは、プノンペン支局スタッフのS君の言葉でした。
「私の家族があなた方に行った残虐な行為について謝ります」。ポル・ポト派ナンバー2、ヌオン・チア(元人民代表議会議長、2019年に死去)に初めて会った時、S君は開口一番こう言いました。
S君は「被害者」です。ポル・ポト派政権下で両親と妹が処刑された時、彼は11歳。その後の地獄のような日々を一人で生き抜きました。しかし彼は、祖国の悲劇に自分の家族も責任があるのではないかと考えていたのです。
S君の祖父は元首相、父はアメリカの支持を得た政府軍の司令官としてポル・ポト派と戦った人でした。子どもながら彼が目撃したのは、ポル・ポト派兵士の恐ろしさだけではありません。ポル・ポト派兵を拷問する父の軍。アメリカ軍の爆撃。敗走するポル・ポト派兵の腹を切り裂いた市民。
「誰の中にも、残虐さはあるんだ」と、S君はつぶやきました。「憎しみの連鎖を断ち切れって、どんな宗教でも説くじゃないか。僕の息子には平和な時代を生きて欲しい。だから謝った」。どれほどの年月と苦しみを越え、S君はその結論にたどり着いたのでしょうか。私と同年代の彼が、とてつもなく大きく見えました。
カンボジアの悲劇の歴史にかかわったフランスや日本、アメリカや中国が、自らの責任を認めることはありません。カンボジアは「正義のあやうさ」を考える場でもありました。
ロシアの首都モスクワにある「グラーグ(強制収容所)歴史博物館」のロマノフ館長も忘れられない人です。取材した2016年当時、彼は34歳。博物館は、スターリン政権が大粛清と政治弾圧を行った1930年代から1950年代の記憶を刻むものです。ソ連時代、全土に設置された収容所に、2000万人に上る市民や日本人ら戦時捕虜・抑留者が送られました。しかしこれは「公然の秘密」で、ソ連崩壊後も公に議論されることはなく、ロマノフ館長も20代後半まで、明確には知らなかったといいます。弾圧の犠牲者で、歴史家だった博物館創設者の遺志を継ぎ、ロマノフ館長は2015年、博物館をリニューアルオープン。マルチメディアを駆使したスタイリッシュなデザインの内装と斬新な展示方法で、10代や20代を引きつけました。
「沈黙したり密告したりすることで、市民も独裁体制を支えたのです。それを理解してもらい、悲劇が起きた理由を考える場にしたい。歴史をつくるのは私たち自身なのだから」と、ロマノフ館長は言います。博物館はスターリンを再評価する人たちに度々、嫌がらせを受けていましたが、そんなことを物ともしない若き館長の鉄の意志と覚悟に、私は身震いさえしたのを覚えています。現在、ウクライナへの侵攻で、弾圧の記憶を伝えるこの博物館は政治的に厳しい状況に置かれているに違いありません。しかし活動は続いています。
私は今、故郷で再び暮らしています。子どもの頃は目を背けていた、故郷の栄光と闇をもっと知りたいと思うようになりました。そしてまた、新たな旅に出てみようとも思っています。世界は、重大な局面にあります。環境やエネルギーの問題、それに絡む食糧や水、貧困。次世代のために知恵を絞らなければならないのに、私たちは今も戦争や虐殺を防ぐすべを知りません。
最近、気にかかるのは、2021年2月に国軍がクーデターを起こしたミャンマーの若者たちです。2022年に現地やその周辺で出会ったのは、市民を虐殺する国軍に対峙(たいじ)し、次世代のために力を尽くそうと覚悟を決めた10代や20代でした。40代、50代の大人たちは若い世代について「私たちよりも意志が固く勇気があり、良い教育も受けている」と、評価していました。「人生これから」という世代が、命をかけて戦う姿には胸が痛みます。アジアの国々は、歴史的、政治経済的にも日本と深い関係があります。沈黙や無関心という形で悲劇に加担すれば、私たちはその報いを、いつか何らかの形で受けることになるはずです。
最後にもう一度、カンボジアのS君の話を紹介させてください。S君は家族が処刑されたと知った後、ジャングルに逃げ込み2週間ほどさまよいます。昼間は茂みの中や木の上でじっと身を隠し、歩くのは夜でした。
「みんな知らないと思うけど」と彼は言います。「夜のジャングルは明るいんだよ」。月明かりが優しく進む道を照らし、動物たちが遠巻きに彼を見つめています。「生きろ」という体の奥から聞こえる言葉に押されながら、S君は歩き続けたのでした。
夜のジャングルは真っ暗ではないのです。
〈ふなこし・みか〉
福岡県生まれ。上智大学ロシア語学科卒。1989年共同通信社入社。秋田、福岡、北九州の各支社局を経て、本社金融証券部、経済部。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラ各支局長。2019年7月退社。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社、平和協働・ジャーナリスト基金奨励賞)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」、「その虐殺は皆で見なかったことにした」(ともに河出書房新社)龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員