with Planetは、地球上の様々な課題の「いま」を伝え、「これから」を考えます。その現場を取材し、私たちとともに考える4人のジャーナリストが、これまでどんな道を歩み、なぜ今ここにいるのか、自らの言葉で語ります。

私が写真やジャーナリズムの分野で活動を始めるきっかけになったのは、2006年に西アフリカのガンビア共和国を訪れたことでした。当時大学で、国際政治学、紛争解決・平和学を専攻しており、国際協力や開発に関わる仕事を目指していたのですが、たまたまアフリカ政治を担当していた教授が募集していた西アフリカへの研修に参加することになりました。

当時ガンビアはヤヤ・ジャメ大統領による独裁政権下にあり、言論の自由・報道の自由がありませんでした。研修中、人権問題に関するアフリカ連合の会議を傍聴していたところ、ガンビア人ジャーナリストがメディアの窮状を訴える場面を目撃したこともありました。

研修は3週間という短いものでしたが、私は帰国せずに現地に残り、地元の独立系新聞社を訪れました。その頃、私は写真家や記者を目指していたわけではありませんでしたが、ガンビアではまだソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)がほとんど使われておらず、ネットやテレビなどで得られる情報は限られていました。新聞社で働くことでこの国のことを深く知ることができるのではないか、と思ったのです。大学生だった私には記者や写真家としての経験は全くありませんでした。それでもカメラは持参していたので、「写真だったら撮れます」と当時の編集長に伝えると、「では写真を撮ってください」と、雇ってくれることになったのです。

ガンビアの記者たちは報道規制の中、政権の脅迫にもひるまず、命懸けで取材活動を行っていました。政府の意向に反する記事を書いた記者は国外追放や投獄されるなどの弾圧を受けていたのにもかかわらず、必死に報道を続けていたのです。

友人のある記者は、国内で発表できない記事をアメリカのオンライン新聞に寄稿していました。彼はパソコンが苦手なので、手書きの記事をパソコンに打ち込む手伝いをしたり、アメリカに発信する記事をメールに添付できない時には、インターネットカフェで手伝ったりすることもありました。この記者は2008年に政治難民としてドイツへ渡りました(彼とは2016年にドイツの難民施設で再会しました)。もう1 人、お世話になった友人のハビブ記者は、政府に批判的な記事の発表をした直後に自宅で亡くなっているのが発見されました。

ガンビアでのこうした経験の中で、私は自然にメディアのあり方や伝えることの意義について考えるようになりました。そして大学卒業間近には、現場で記録し、伝えていく仕事をしたいという思いが強くなりました。そして、個人的に関心を持ったテーマを私自身のペースで記録したいという思いと、ガンビアでの経験を通して「写真」をツールにしたいという思いが強くなり、組織ジャーナリズムではなく、フリーランスの道を選びました。

以降、パキスタンでは、結婚の申し出を断ったり、交際を絶ったりした結果、または家庭内暴力の延長で、男性から硫酸をかけられ被害を受けた女性たちを取材し、キルギスでは誘拐婚といわれる「アラ・カチュー」により、合意のない結婚を強いられた女性たちが自らの人生にどのように向き合ってきたかを記録しました。

パキスタンで発生した洪水の被災地を取材中に村人たちと=2010年、パキスタン、パンジャブ州

イラクでは、過激派組織「イスラム国」(IS)の攻撃により故郷を追われた少数民族ヤズディの人々の取材をしました。この事件では、数千人ものヤズディの男性や高齢女性たちが殺害され、約6千人の若い女性たちが拉致され、戦闘員による人身売買の被害に遭っています。この事件は大きなニュースとして世界中のメディアを通して伝えられましたが、私は、ISの攻撃によって故郷を去ることを余儀なくされ、イラク各地、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地へ散って行った、ヤズディの人々を追い、それぞれが故郷の村から持ち出した「モノ」や「家族写真」を軸に、彼ら個人の記憶をたどる取材をしました。

シリアやトルコなどから国境を超えてイラク入りし、ISとの戦闘を担ったクルド人女性兵士たちと=2015年、イラク北西部シンガル山で

2013年からは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に暮らす「日本人妻」についての長期的なプロジェクトを続けています。1959年から1984年までの間に行われた、在日朝鮮人らの帰国事業では、日本で朝鮮人と結婚した約1800人の日本人女性が、夫と共に北朝鮮に渡りました。それから約60年、故郷である日本への強い思いを秘め、過去に折り合いをつけながら年を重ねてきた女性たちの存在と、生きてきた証しを残したいと思っています。高齢となった日本人女性たちが暮らす北朝鮮と、日本各地の彼女たちの故郷との間を、私自身が往復を重ねながら、個々の断片的な記憶を少しずつ紡ぎ合わせ、再構築していくというプロジェクトです。

この10年、日本と北朝鮮を往復しながら、個人や家族の軌跡に様々な形で触れる経験は、日本と朝鮮半島の過去と現在、その歴史の中に自分がどう存在しているのかという、私自身のアイデンティティーに向き合うという個人的な経験でもありました。

熊本県出身の日本人妻、中本愛子さんが子どもの頃に遊んだ神社を撮影しターポリン素材に印刷。北朝鮮へ運び、咸興市郊外の海岸に設置し、故郷の写真を眺める愛子さんを撮影=2019年、北朝鮮・咸興市

私にはガンビアでの経験から始まった、ジャーナリズムのバックグラウンドが強くありますが、取材を重ねる中で、表現方法やアプローチは変化してきていると思います。現在続けている北朝鮮の「日本人妻」のプロジェクトは、ジャーナリスティックなアプローチで歴史的な出来事を扱うということではなく、一人ひとりの、そして私自身の内面にも踏み込むような、極めてパーソナルなライフワークとしてのプロジェクトになっています。

今は、遠い国で暮らす人々でも、自身の日常の様子や感情を切り取った写真や動画を、SNSなどを通して発信し、それらがリアルタイムで私たちの携帯電話やパソコンの画面を通して表示される時代になりました。ウクライナの戦場など、物理的には触れることのできない異国の出来事であっても、画面を通した独特な距離感で、一瞬にして私たちの日常に入り込んできている感覚さえあります。

ただ、入り込んできた情報で「他者」の物語が共有されたとしても、そこにたとえ小さくとも感情的な共感が生まれなければ、伝えられた出来事に想像力を持って向き合うことはできないのではないか、と思います。そこに生きる人々の複雑な感情を伝える過程で、どのように共感を生み出すことができるか。現場での感覚を大切に、どのように伝えるかを模索しながら取材をしていきたいと思います。

〈はやし・のりこ〉

ドキュメンタリー写真家。国際紛争学・平和構築学を専攻していた大学時代に西アフリカのガンビア共和国の地元新聞社で写真を撮りはじめ、以降国内外で取材活動を行う。フランス世界報道写真祭「ビザ・プール・リマージュ」金賞、NPPA全米報道写真家協会賞1位など受賞。
写真集に「キルギスの誘拐結婚」(日経ナショナルジオグラフィック社2014)、「ヤズディの祈り」(赤々舎2016)、主な著書に「フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳」(岩波新書2014)、「フォト・ドキュメンタリー 朝鮮に渡った日本人妻 60年の記憶」(岩波新書2019-韓国の出版社정은문고より韓国語翻訳版刊行2020)。米ナショナルジオグラフィック誌、ニューヨークタイムズ紙、英文芸誌GRANTA誌、独Stern誌、英ガーディアンなどに写真や記事を寄稿。

アルゼンチン取材中に撮影