生死の際にある人間の強さ。写真が伝える内なる声 マイストーリー
戦場写真家に憧れて歩み出した道は、「生と死」に直面する現場へと続いていました。アフリカで、神戸で、福島で、写真家・渋谷敦志さんが出会った「まなざし」とはーー。

戦場写真家に憧れて歩み出した道は、「生と死」に直面する現場へと続いていました。アフリカで、神戸で、福島で、写真家・渋谷敦志さんが出会った「まなざし」とはーー。
with Planetは、地球上の様々な課題の「いま」を伝え、「これから」を考えます。その現場を取材し、私たちとともに考える4人のジャーナリストが、これまでどんな道を歩み、なぜ今ここにいるのか、自らの言葉で語ります。
「渋谷さんって戦場カメラマンだった?」
2022年の年の瀬、ウクライナ取材を終えてポーランドにたどり着いた時、友人からそう問いかけられた。
写真を始めて30年になるが、自分の現場は必ずしも「戦場」ではなかった。だから友人は不思議に思ったのだろう。実は30年もたって、駆け出しの頃に抱いた戦場へのこだわりがわきあがったことに一番驚いたのは、他でもなく自分だった。
今から思えば思い上がりもいいところだが、この道に進んだそもそもの始まりは、「戦場への憧れ」だった。17歳の時だ。内戦下のカンボジアで命を落とした若き戦場写真家・一ノ瀬泰造の『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読み、「写真家になる」と決めた。
ジャーナリズムに強い関心があったわけではなかった。どちらかといえば、未知の世界と出会うことへの憧れや、ヒリヒリする現実に触れてみたいという冒険心の方が強かった。その時、たまたま手元にカメラがあった。「これをもって世界に飛び出せ」と、促されたようだった。カメラは自分にとって世界に通じるパスポートであり、それさえあれば世界のどこにでも行くことができる。そんな無限の可能性に、根拠も恐れもなく、自分を賭けてみようと、写真を独学した。
当初は写真に携わるのは、せいぜい10年ほどという想定だった。「少なくとも一ノ瀬泰造が死んだ26歳までは、がむしゃらに挑戦してみよう」、というぐらいの考えだったのに、30年が過ぎた。生活に行き詰まる度に、別の仕事をしようと思った。それでも写真で伝える仕事を続けた原動力はなんだったのか。目を閉じると、まぶたの裏の印画紙に浮かび上がってくるのは、これまでに出会ってきた一人ひとりの顔と姿だった。
特に、生と死のはざまにあった人たちのまなざしは、記憶の奥深くに痛みとともに焼き付いている。「人間はこんな目に遭ってはいけない」。そう思わせるような苦難に耐え、今を懸命に生きていた。弱い存在だが、その姿は強い。その目に宿った生命のともしびから目を背けてはいけない。そんな思いが、30年ものあいだ、僕を駆り立ててきた気がする。
僕の転機になった三つのまなざしとの出会いについて書きたい。
1995年、大学1年生だったときに阪神・淡路大震災が起きた。大阪に住んでいた僕は、「被災地を自分の目で見てみたい」と、兵庫県の西宮から神戸まで歩いた。無論、ただ見るためだけではない。カメラと白黒フィルム5本を抱え、「すごい写真を撮って世に認められたい」という思いも忍ばせていた。
国道2号に沿って西へと歩く。倒壊して押しつぶされた家屋やビル、横倒しになった阪神高速の高架橋が目に飛び込んでくる。通りのがれきは片付けられていたものの、地震の傷痕はまだまだ生々しかった。テレビ画面から伝わってくるのとは違う震災のリアルに言葉を失った。被災した住宅に分け入り、がれきを片付ける人や、自転車で避難生活のための物資を運ぶ人たちを何度も見た。ボランティア活動をしている人たちの姿もあった。何人かと目が合い、そのまなざしが僕に突き刺さった。こちらのあさましい心が見透かされているようで、声もかけられなかった。写真を撮るなんてとんでもない。リュックからカメラを取り出すことさえ、人としてしてはいけないことのように思えた。
「お前は何をしに来たんだ」という問いが、歩きながら自分の中で延々と繰り返される。勇気を持って現場に飛び込みさえすれば、写真なんて撮れると思っていた自分は、なんとあさはかだったことか。困難を乗り越えようと生きる人間にカメラを向け、シャッターを切る。たったそれだけのことが、いかに難しい行為なのかと初めて思い知らされた。
「写真よりも他にやるべきことがあるのではないか」。強くそう感じていたにもかかわらず、僕は結局、何もしなかった。傍観者としてただ見ただけで、その場に背を向けて逃げた。あのまなざしの人と、せめて1分でも2分でも関われなかったか。28年も前のあの時の悔しさを忘れたことはない。
2000年と2002年には、アフリカ南西部のアンゴラを訪れた。
アンゴラは1975年の独立以来、四半世紀にわたって、政府軍と反政府武装勢力が激しい内戦を繰り広げていた。アンゴラ政府は「領土の9割以上は統制下にあり、国情は正常」と宣言していたが、実際には国内に、国連機関や人道支援団体が近づけない「空白地帯」が多く残っていた。見せかけの平和の陰で、何百万もの人びとが難民と化し、「飢餓前線」をさまよっていた。
そんな現場で僕が撮りたいとイメージしていたのは、「ハゲワシと少女」という有名な写真だ。南アフリカ出身の写真家ケビン・カーターが1993年に撮った写真だ。1990年代にスーダン南部で起きていた深刻な飢餓を象徴的に伝えたとして、ピュリツァー賞を受賞した。写真は後に大きな議論を巻き起こすが、当時の僕は、あのように、「一枚で千の言葉に値する写真を撮りたい」と意気込んで取材に臨んだ。しかし思うようには撮れずに、失意の底に沈んでいた時間ばかりが思い出される。
アンゴラの現場には、至るところに僕が「撮りたい」と求めていた非人間的な状況が広がっていた。地雷で太ももから下をふきとばされた瀕死(ひんし)の女性。ゲリラに協力しなかった見せしめに腕を切断され、精神を病んだ男性。すでに息をしていない子どもを抱えて、「この子を救って」と泣きさけぶ母親。極度の栄養失調で地面にへたりこみ、まとわりつくハエを追いはらう力もない子どもたち。どれも目を覆いたくなる残酷さだったが、それは「撮りたい」と求めていた光景でもあった。しかし、いざ彼らにカメラを向けると、胸が痛んだ。心が「ノー」と言って、シャッターを切る指にブレーキがかかる。子どもたちの目が「お前に写真を撮らせるためにここにいるのではない」と迫ってくるようで恐ろしくなる。それでも無理やりシャッターを切った。「ごめんな」と心の中で謝りながら写真を撮るのは、アクセルとブレーキを両方踏んでいるような心持ちで、どうにもやりきれなかった。
「自分は写真で何がやりたいのか」。僕の中で、この仕事を続ける意味が押しつぶされそうになっていた時にジョゼフィーナ・ディンガさんという当時23歳の女性と出会った。彼女は、7歳のトーマス君と8カ月のジョゼ君という2人の息子ともに、重度の栄養失調に苦しんでいた。
「具合はどう?」と声をかけると、ジョゼフィーナさんは手ぶりで母乳が出ないことを訴えた。腕の中のジョゼ君はそれでもおっぱいに吸いついていた。「死」に直面する母と子。しかし、その姿から僕が感じたのは強烈な「生」だった。人間の「弱さ」ではなく、「強さ」だった。広角レンズでぐいっと進み寄り、迷わずシャッターを切った。その時、人間の命の尊さ、あるいはそれに似た何かに触れた気がした。
写真に記録されるのは、外側から見える過酷な「状況」などではなく、その人の内なる声、言葉にならない感情なのではないかと思った。それは、写真家が撮ろうと意図して撮れるものではなく、カメラの前の人と、悶々(もんもん)と向き合う時間の中で、その人からふっと分け与えられる贈り物のようなものなのかもしれない。そんなことを、僕はあの母と子のまなざしから学んだ。
2011年には、日本でまた大きな災害が起きた。東日本大震災だ。
震災の発生直後、福島県南相馬市で8歳の長女と3歳の長男、両親を津波で失った上野敬幸さんに出会った。原発事故の影響で、福島県の沿岸部の多くは立ち入りが制限されていた。そんな状況でも津波の犠牲者はいる。上野さんは泥の中から長女を見つけ出し、自ら遺体安置所に運んだ。その後も、長男と父親を見つけるべく現地に残った上野さんは、地元の消防団員の仲間とともに行方不明者の捜索活動を続けていた。僕が、泥と砂とがれきで覆われた浜辺で上野さんに出会ったのはそんな頃だった。
「何してるって? 見りゃ分かるだろ。人を捜してんだよ」
拒絶するような剣幕で言われた。首から下げたカメラが、コミュニケーションを阻む黒い塊でしかないと、この時ほど感じたことはなかった。一言わびて引き下がろうとした、その時、上野さんは切り出した。「で、どっから来たの? 東京?」
「お前は何者なんだ」と、迫ってくる鋭い眼光。またしても出会ってしまった。阪神・淡路大震災の時の記憶が胸中に去来した。緊張で写真どころかメモも取れなかったが、あの射抜くようなまなざしから、もう逃げてはいけない、と思った。僕は終日、金魚のふんのように上野さんにつきまとった。「この人と向き合うことをあきらめて撤退するのなら、金輪際、写真を続ける意味はない」とすら感じていた。
その日の夕方、消防団員らが上野さんの自宅前に戻ってきた時、思いがけず上野さんから、「俺たちの集合写真撮ってよ。俺の家の前で」と、声をかけられた。真ん中に座り込んだ上野さんを囲むように自然とスクラムができあがっていく。僕は震える指でシャッターを切った。「何か」が写った。そんな手応えに、僕はまた身震いした。
こうして撮られた写真は、あの時あの場所で地獄を経験した男たちの唯一の記録となった。そして、この一枚の写真が縁となって、上野さんとの関わりが始まったのだが、何度も通って写真を撮れば撮るほど、そこに分かり得ない領域、越え難いボーダーの存在があることを思い知らされた。
それでも、僕はそのボーダーに踏みとどまり、もがいた。分からないことには、分からないまま、向き合い続ける。分からないから、と線を引いて遠ざけてしまわない。写真家として僕は、「分かる」と「分からない」の間に横たわるボーダーに、共に居られる足場のような場所(ランド)を開いていこう、と思った。
写真が、カメラがなければめぐり合うことはなかった人たちと心を通わせた時間こそ、僕を写真家にしてくれた。その恩に報いるために、写真で人とつながる「道」をどこまでも求めていく。そんな自分なりの「報道」のありようを、世界各地の様々な課題を取材しながら探求していきたいと思っている。
〈しぶや・あつし〉
1975年大阪生まれ。立命館大学産業社会学部、London College of Printing卒業。大学在学中に1年間、ブラジル・サンパウロの法律事務所で働きながら本格的に写真を撮りはじめる。大学卒業直後、ホームレス問題を取材したルポで国境なき医師団日本主催1999年MSFフォトジャーナリスト賞を受賞。それをきっかけにアフリカ、アジアへの取材をはじめる。著書に『僕らが学校に行く理由』(ポプラ社)、『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)、『まなざしが出会う場所へ——越境する写真家として生きる』(新泉社)、『回帰するブラジル』(瀬戸内人)、『希望のダンス——エイズで親をなくしたウガンダの子どもたち』(学研教育出版)。共著に『みんなたいせつ——世界人権宣言の絵本』(岩崎書店)などがある。2021年、笹本恒子写真賞を受賞。