日本のODA、何のために? 激動の国際情勢と求められる役割
戦争、クーデター、大災害。政府の途上国援助(ODA)の持つ意味は、社会背景とともに変化します。何のための協力なのか。開発協力に詳しい玉懸光枝さんがつづります。

戦争、クーデター、大災害。政府の途上国援助(ODA)の持つ意味は、社会背景とともに変化します。何のための協力なのか。開発協力に詳しい玉懸光枝さんがつづります。
国際協力と聞くと、何をイメージしますか? 電車のつり広告で見かける青年海外協力隊の若者の笑顔? 現地の村やコミュニティーに根差して地道に活動する非政府組織(NGO)? 国連や外務省、国際協力機構(JICA)などの公的機関や、開発コンサルタントのような専門家集団を思い浮かべる方、さまざまな団体が呼び掛ける寄付やクラウドファンディングへの協力を思い浮かべる方もいるかもしれませんね。近年はビジネスを通じて現地の社会課題の解決を目指す社会起業家も注目されています。
また、少子高齢化による市場の縮小が深刻化する日本市場に危機感を募らせる民間企業が、新規市場の開拓の一環として、1世帯あたりの子どもの数が多く平均年齢が低い新興国や途上国に注目し、暮らしの向上と自社のビジネスの両立に挑む動きも広がっています。
人々がそれぞれの立場から、平和で安全、そして健やかな世界をつくろうと取り組む中、日本が国として公的な資金を使って1950年代半ばから世界の国々に対して行ってきた国際協力が、政府の途上国援助(ODA)です。
約70年にわたるODAの歴史を有する日本。では、なぜ日本が国際協力をするのか、皆さんは考えたことがありますか?
ご存じの通り、日本はアジア・太平洋戦(1941~45)で敗戦し、国土の大半が焼け野原となりました。そんな日本が復興したのは、世界からの支援があったからでした。例えば、米国の政府やNGO、国連児童基金(UNICEF)は、食料品や学用品、医薬品などの提供に加え、子どもたちの衛生改善も実施してくれました。また、東西を結ぶ大動脈となる東海道新幹線や東名・名神高速道路、産業振興にとって不可欠な電力を起こす黒部川第四発電所(黒四ダム)などは、自己資金に加え、世界銀行の融資も得て建設されました。
これらのインフラを起爆剤にして高度経済成長を実現し、「東洋の奇跡」と呼ばれるほど目覚ましい発展を遂げた日本は1954年、敗戦から10年を経ずしてODAを通じた国際協力を開始します。それは、戦後、世界から孤立していた日本が、国際社会に復帰し、責任ある行動をとっていく決意を示すための方策の一つであると同時に、戦後賠償の一環でもあったのです。
その後、日本企業の輸出振興策とあいまって援助量を拡大し続けた日本は、1989年には世界一の援助大国になりますが、さまざまな批判も受けることになりました。「援助対象国の発展よりも、日本企業の利益や日本経済の発展を優先し、援助の見返りを期待した」、あるいは「日本の援助によってさまざまな環境破壊が起きている」といった批判です。これを受けて、それまで右肩上がりに増えていたODA予算は1998年から削減が始まります。日本経済の成長が頭打ちになったことや、2009年に事業仕分けが実施されたこともあいまってODAの削減傾向は続き、2011年には、1997年のピーク時に比べて半分以下に落ち込みました。
ところが、削減が続いていたODA予算が、ある出来事を機に下げ止まり、その後、わずかながら増加に転じます(グラフ参照)。転機となったのは、2011年。言うまでもなく、東日本大震災が起きた年ですね。
人も、家も、学校も、病院も、あらゆるものが一瞬にして津波にのみ込まれた被災地には、各国から緊急援助チームや医療支援チームが派遣され、温かいメッセージや寄付金も寄せられました。
日本人が特に驚いたのは、所得水準が極めて低く、深刻な貧困に直面しており、それまでは日本が支援する相手だった国々でも日本を支援する機運が盛り上がり、被害者に対する弔意や被災者への激励のメッセージや折り鶴、なけなしのお金を工面してくれたであろう寄付金が、日本大使館や総領事館などを通じて日本に届けられたことでした。当時、「今度は我々がお返しを」と、日本に何らかの支援やお見舞いを届けてくれた国・地域・国際機関は254に上ったのです。
大惨事により深く傷ついていた日本にとって、この出来事は、これまでの日本の支援が各国に確実に足跡を残し、絆を培ってきたことをいま一度思い出させることになりました。
国と国をつなぐ、大切な外交手段として展開されてきたODA。施設やインフラなどを建設するだけでなく、教育、保健医療、農業、司法、社会福祉、平和構築など、多岐にわたる分野で専門人材を育成し、新たな制度の立ち上げや仕組みの導入も支援しながら、対象国の国造りに寄り添う日本の協力によって、世界の国々に親日派や知日派が育ち、日本に対する信頼感が確かに醸成されてきました。今年2月6日に発生したトルコ・シリア大地震でも、発災後すぐに国際緊急援助隊が派遣され、極寒の中、行方不明者の捜索や被災者の診療に尽力しました。
その一方で、近年、国際情勢の混乱と世界を席巻する強権体制の広がりに伴い、新たな課題も顕在化しています。2021年2月、日本が官民を挙げて民主化を支援してきたミャンマーで軍事クーデターが起こり、国軍に抵抗する市民への暴力や弾圧が続いています。また、同年8月には、2001年9月11日の世界同時多発テロをきっかけに、日本や米国などが20年にわたり平和構築支援を続けてきたアフガニスタンでイスラム主義勢力タリバンが復権。全土を再び支配下に置き、女性の人権に対する締め付けを強めています。アフリカや中南米の国々でもクーデターや強権化の嵐が吹き荒れ、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻の影響は、エネルギーや食料の価格高騰にドル高といった形で世界に及んでいます。
G7がG20に拡大したことにも見られるように、かつて途上国だった国々が新興国として経済的にも政治的にも存在感を増している今日、かつてのように少数の先進国がリードして物事を決めることは難しくなっています。発言力のある国々が増えること自体は決して悪いことではないのですが、それぞれの国内で深刻化する人権侵害に対してさえ、各国がそれぞれの思惑で発言し、国際社会として一致したメッセージを送ることが難しい場面も増えているのです。
こうした中、国家間で合意文書を交わして協力を開始する日本のODAは、相手国の政治体制が急に変わったり、人道問題が懸念されたりする場合に、どのように迅速に、かつ柔軟に対応するのか、これまでにない課題を突きつけられていると言えます。
政府は2022年9月、ODAの指針を定めた「開発協力大綱」を8年ぶりに改定することを明らかにしました。現在、最終検討が進められているこの大綱にも、こうした観点に立った議論が反映される必要があることは言うまでもありません。また、かつての日本と同じように、国際社会の支援を卒業して近隣国への支援を開始する国々に対し、ODAを通じて培った絆をどのように維持し、新たな分業体制を構築していくのか、広がる国際協力のアクター(担い手)との関係も含め、いま一度考えるべき時期に来ています。
長い国際協力の歴史の中には、残念ながら志半ばで命を落とした方々も多数います。ODA関係者に限っても、古くは1978年、長大橋を自力で架ける技術がなかったミャンマーで、技術者を育成する協力を開始するために現地に向かっていた両国の関係者が飛行機事故に巻き込まれました。1991年にはペルーで野菜の栽培技術を指導していたJICA専門家3人がゲリラ勢力の凶弾に倒れ、2016年にはバングラデシュの首都ダッカで起きたテロ事件によって、鉄道支援に従事していたコンサルタント7人が亡くなりました。国際情勢や、その時々の政策の影響を受けて変化してきたODAですが、現地の人々のより良い生活を願って現場で汗を流す関係者たちの志は、いつの時代も変わりません。
世界の分断と人道危機が深刻になるほど、外交手段としてのODAの役割と意義は拡大し、日本としての方針やメッセージがこれまで以上に問われます。「自分の祖国の問題が世界から見放されている」という絶望感を味わう人や、生まれた国や地域によって生命の「重さ」が違ってしまう状況を生み出さないために、日本への信頼を醸成し、平和な世界を実現するという本来の目的に、いま一度、立ち戻ることが必要ではないでしょうか。すべての人々が生命の危機にさらされることなく、人権を保障され、生きることを謳歌(おうか)できる世界の実現に貢献するODAであってほしい。亡くなった方々の遺志を受け継ぎ国際協力に携わる者として、そう強く願います。
〈たまがけ・みつえ〉
国際開発センター研究員。東京大学教育学部卒、同大学院修了。在カンボジア日本大使館、国際協力機構(JICA)カンボジア事務所などでの勤務を経て、2006年に国際開発ジャーナル社に入社。以来、月刊誌『国際開発ジャーナル』でODAの最新動向や民間セクターの途上国ビジネスなど、12年にわたり開発協力分野の話題を幅広く取材。2014年から編集長を務めた。2018年から現職。東京を拠点に各国の国際協力事業に参画し、現地の意識啓発や広報などの業務に携わる傍ら、2019年にはニュースサイト「ドットワールド」を立ち上げ、現地から見た世界の姿をテーマに発信を続けている。