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女子1万メートルに注目

2008年7月1日

写真渋井陽子さんと

 友人と共に訪れた画廊で、作家の村上春樹さんとお会いしたのは5月のこと。フルマラソンを3時間15分で走るランナーでもある村上さんは最近トライアスロンにも出場しているそうです。当然、好きな観るスポーツはマラソンかと思いきや、「観るのは1万メートルが一番面白い」。

 村上さん曰く、「勝負だけ観るなら、残り2千メートルから見ればいいが、それを楽しむために全て観る。一見美しく見える集団の中で、小刻みな駆け引きが行われているのでしょう」と楽しそうに微笑んだ。そういえば、昨夏の大阪世界陸上で、女優の秋吉久美子さんと一緒にスタンドで観戦した時、やはり「1万メートルが一番面白い」と秋吉さんも話していたのを思い出した。

 北京五輪の代表選考会となった第92回日本陸上競技選手権大会(川崎市等々力陸上競技場)。今年は何と、前売り券が完売。大会2日目にはゴールデンタイムにテレビの生放送もあり、ハンマー投げの室伏広治さん、女子走り幅跳びの池田久美子さん、400メートルハードルでは為末大さんと成迫健児さんの対決、200メートルで末讀慎吾さんと、人気選手が続々と登場した。そしてトリを務めたのが20時05分スタートの、女子1万メートルだった。レースは3人の選手に注目が集まった。渋井陽子さん、福士加代子さん、赤羽有紀子さんだ。

 中でも渋井さんと福士さんは、共に北京五輪にマラソンでチャレンジした。スピードでは群を抜いている2人だが、無念にも代表の切符を手にすることは出来なかった。

 そんな2人が気持ちを切り替えて、1万メートルにチャレンジするとあり、ウォーミングアップを行うサブトラック内では、陸上関係者からいろいろな声が聞こえてきた。

 「今回は渋井でしょ。4月、5月共に、好記録を出している」「勝負でいったらやっぱり福士は強いよ」などなど。

 確かに渋井さんは、昨年11月東京国際女子マラソンで野口みずきさんに敗れた後、その悔しさを秋の駅伝にぶつけた。そしてスピードの感触をつかみ、4月の兵庫リレーカーニバルで31分18秒。早々に五輪参加資格のA標準記録をクリアした。そして5月には東日本実業団で自らが引っ張り、31分21秒を記録。1万メートル日本記録保持者のプライドが目を覚ましたようだ。

 一方の日本選手権1万メートルを6連覇している福士さんは、1月の大阪国際女子マラソンを、前半からハイペースで飛ばし、終盤失速。マラソンの怖さを身に染みて感じた。

 「あの時のラスト10キロの苦しさを考えれば、何でも越えられる」と話したように、マラソンから得たものは大きかった。しかし、3月に左ふくらはぎを故障し、1万メートルの本格的な練習を開始したのがわずか40日前だった。

 19時35分、召集場所に選手が集まると、渋井さんはストレッチをしながら、同郷(栃木)の赤羽さんと仲良くおしゃべり。それに対し、渋井さんと普段仲の良い福士さんは、言葉をかわすどころか、目も合わせない。福士さんはベンチに座り、5本指の靴下に、念入りに1本1本足の指を入れながら集中していた。

 レースがスタート。渋井さんが積極的に先頭で引っ張り、赤羽さん、福士さんと続く。レース中盤には3人に絞られた。そして福士さんは残り2千メートルで小さなガッツポーズと共にスパート。しかし、いつものカミソリのような切れ味ではなかったため、すぐに渋井さんと赤羽さんに追いつかれた。それから順位は入れ替わりながら、最後は渋井さんが力を振り絞るように猛ダッシュ。トップでゴールラインを越えた。前傾姿勢の爆発的なスパートには「何が何でも五輪に行くんだ」という執念が感じられた。

 レース後、渋井さんの監督・渡辺重治さんは、勝因を「五輪に対する渋井の想いの強さ」と「4月の兵庫リレーカーニバルの後、1万メートルで北京に行くという目標を明確に絞り込んだこと」と話した。そして、渋井さんはその夜、那須拓陽高校の恩師・大竹先生を交え、23時から翌1時まで食事を楽しんだ。「苦しくても諦めずに頑張っていればこういう日も来る」と渋井さんはしみじみと語ったそうだ。驚いたのはお酒好きの渋井さんが、その日はお酒を一滴も飲まなかったこと。

 2日後の5千メートルのレース前、サブトラックでウォーミングアップする渋井さんを見ながら、渡辺監督に「1万メートルで優勝した後の5千メートルは、どんな気持ちで臨むんでしょうね」と尋ねると、「勝った後は、気持ちがノッてノッて、渋井のことだから5千はオマケだと思って、思い切っていくでしょう」と話した。

 その言葉通り、先頭で引っ張ったのは、やはり渋井さん。二十歳の新鋭、小林祐梨子さんが残り500メートルでスパートし優勝した。レース後、4位に終わった渋井さんは「後ろから若いモンの勝ちたいオーラをメラメラと感じていた」と話しながらも満足気だった。

 小林さんの監督・長谷川重夫さんは「小林には渋井さんのような積極的なレースができる選手になって欲しい」と讃えた。

 北京五輪女子1万メートルの日本代表は、誰もが認める実力者、渋井さん、福士さん、赤羽さんに決まった。福士さんは北京にはピークの状態で臨むだろう。赤羽さんはママさんランナーの第一人者として、自分が頑張らなければ、後輩が後に続かなくなると考えている。そして渋井さんの積極性は、大舞台でこそ活きるはず。

 マラソンだけでなく、スター性のある顔ぶれが揃った女子1万メートルに、ぜひ注目して欲しい。そして、3人にとって北京の1万メートルは、2012年ロンドン五輪のマラソンへ向けての、第一歩なのだ。

顔写真

増田 明美(ますだ・あけみ) スポーツジャーナリスト

 1964年、千葉県生まれ。成田高校在学中、長距離種目で次々に日本記録を樹立する。1984年のロス五輪に出場。1992年に引退するまでの13年間に日本最高記録12回、世界最高記録2回更新という記録を残す。現在はスポーツジャーナリストとして多方面で活躍中。2006年にはタイ・プーケットでマラソン大会を開催し、スポーツによる国際交流にも注力。大阪芸術大学教授、文部科学省中央教育審議会委員、新健康フロンティア戦略賢人会議委員なども務める。

公式サイトは「増田明美's Home page」 別ウインドウで開きますhttp://www.akemi-masuda.jp/

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