日本史上初のメダル獲得! 次の目標はもちろん世界の頂点
和歌山県のアスリート、フェンシング(フルーレ)の東晟良(せら)選手(共同カイテック所属)は、フェンシング一家で育ち、姉を追いかけるように競技にのめり込みました。今では、日本代表のエースとなり、2024年に開催された4年に1度の大舞台では団体で日本女子初となる銅メダルを獲得しました。
フェンシングの最初のライバルは姉だった
「理由はわからないけれども、けんかばかりしていた」という姉妹が、フェンシングに出合ったのは元選手でもあった母の影響でした。小学生の頃から、1歳上の姉・莉央(りお)選手とフェンシング教室へ通い、帰宅してからも母と姉との個人レッスン。最初は、何となく続けていましたが、和歌山県内での大会や西日本大会で勝つ楽しさを知ってからのめり込んだ、と振り返ります。
「はじめてメダルをもらったときに、勝つことの喜び、快感を覚えました。一度その喜びを知ってしまったので、負けたときは、めっちゃ悔しい。2つの感情を知ることで、フェンシングにのめり込んでいきました」
東選手にとって、ときに大きな壁となったのは莉央選手です。決勝で2人が対戦し、勝利した莉央選手が満面の笑みを浮かべる隣で、負けた悔しさをあらわにする晟良選手。「子どもだった」と晟良選手は笑います。
身近なライバルであり、絶好のお手本ともいうべき存在。「強くなりたい」という思いが原動力でしたが、もう一つ、心に誓う思いがありました。
「自分たちが頑張ることで、和歌山のフェンシングをメジャーにしたい。フェンシングをやりたい、と思う人たちを増やしたい。きっかけをつくりたいと思い続けてきました」
海外遠征続きで地元に帰るとリフレッシュ
フェンシングの代表選手は、海外で数ヵ月間を過ごすことも珍しくありません。だからこそ、わずかな休息で地元・和歌山へ帰ると、ほっとします。東選手にとっては、家族と地元がパワーの源でもあります。
「特別な場所に行くわけではなく、ただそこに帰るだけで安心できます。自分が苦しんだときに支えてくれる人たちがいる場所です」
全員で勝ち取った団体銅メダル
24年夏、東選手は世界最高峰の舞台に立ちました。個人は初戦敗退でしたが、世界の上位8チームだけが参加できる団体では銅メダルに輝きました。日本女子が表彰台にあがるのは、史上はじめてのことで、日本のフェンシング界に新たな歴史を刻みました。
「4年に1度の舞台。東京大会はコロナの影響で無観客試合でしたが、パリ大会は大勢の前での試合でした。会場も非常に歴史的な建物で『こんなところでフェンシングができるんだ…』と幸せを感じました」
全員が個人戦でふるわなかったからこそ、メダルへの気持ちが一つになったという団体戦。メンバー全員の口から「無理かもしれない」というネガティブな言葉は、一切、出ませんでした。
トータル的にみれば調子が良くなかったという24年シーズンですが、東選手は「自身のフェンシングに自信がついてきた」と話します。
「自分がしたいプレーができるようになって、フェンシング自体は安定していた感覚があります。全くかなわなくてボロ負けしたような試合もなく、ミスが重なって負けることが多かったことも考えると、自分との戦いなのかもしれません」
昔の自分とは技術的にも立場的にも異なるポジションにいるからこそ、自信と強い気持ちを持って今後も試合に挑んでいきたいと語ります。
和歌山をフェンシングの町として盛り上げたい
明治安田「地元アスリート応援プログラム」に応募したのは、プログラムに参加していた莉央選手の影響でした。プログラムに参加して金銭的なサポートを受けられることは魅力ですが、「支えてくれた家族、大切な地元に恩返しがしたい」という晟良選手の願いと合致する趣旨に賛同したためです。
24年は世界最高峰の舞台に立つ前に、明治安田の和歌山支社を訪問。「慣れ親しんだ和歌山弁で話しかけてくれ、壁もなく親身に応援してくれたのでとても力になりました」と当時を振り返ります。
「はじめるきっかけを与えてくれただけでなく、練習や日々の食事をサポートしてくれた家族、特に母のおかげで今があります。結果を出すことで母にも恩返しをしたいし、私たち姉妹が活躍することで、地元の和歌山をフェンシングの町として盛り上げられるよう、貢献していきたいです」
次にめざすのは世界の頂点。東選手は家族のサポートと地元の声援を力に、これからも挑み続けます。
(編集:4years.)
※プロフィール画像 🄫(公社)日本フェンシング協会