幼なじみの背中を追い、「自分も影響を与えられる存在に」
鳥取県のアスリート、女子ボクシングの木下鈴花(りんか)選手(クリエイティブサポート所属)は、2023年の女子世界選手権で日本人女子歴代最高位の銅メダル獲得し、全日本選手権でも優勝と最優秀選手賞に輝くなど、勇気と感動を与えているアスリートです。
入江聖奈さんと幼なじみ、切磋琢磨し成長
21年夏、世界最高峰の舞台で日本女子ボクシング初の優勝を果たした入江聖奈さんとは0歳児のときからの幼なじみです。ともに鳥取県米子市で育ち、ボクシングの道に進むきっかけをつくってくれたのも、気心が知れた入江さんでした。
「小学校4年の頃、聖奈のお母さんに誘われたんです。『空手をしているなら、ボクシングもできるんじゃない』って」。ジムに足を運んでみたものの、すぐには興味を持てませんでした。幼い頃から空手道場に通っていた木下選手が「空手のほうが強い」と言えば、入江さんは「ボクシングのほうが強い」という具合に意地の張り合いになることもあったそうです。堂々巡りは数年続いたものの、あるとき、木下選手は自分の気持ちがリングに向いていることに気付きました。
「(同じ土俵に立って)聖奈に勝ちたい」
実際にグローブをつけ、ジムワークをはじめたのは中学校2年のときでした。足技は使えず、パンチだけで戦う格闘技は空手とは勝手が違いました。スパーリング(実戦形式の練習)では入江さんに何度も打ち負かされ、そのたびに「もっとうまくなりたい、もっと強くなりたい」と木下選手は思いました。
木下選手は根っからの負けず嫌い。「負けたくない」という思いを原動力に、一歩先を行くライバルからは常に刺激をもらい、切磋琢磨してきました。米子南高校、日本体育大学で技を磨き、2人で大きな目標を共有しながら、国内外の主要大会で好成績を収めてきました。
米子への特別な思い、応援し続けてくれる方々に感謝
明治安田「地元アスリート応援プログラム」を紹介してくれたのも、当時支援アスリートに選ばれていた入江さんでした。木下選手は23年度から参加しました。
地元を活性化するというプログラムの趣旨に共感し、講演会で競技について語るなど、アマチュア女子ボクシングを盛り上げていくと同時に、生まれ育った鳥取県米子市に恩返しをしています。
「本プログラムで23年度に実施していただいたクラウドファンディングでは、地元の方々にも協力していただいて、遠征やボクシング用具の購入に支援金を使うことができたので本当に感謝しています」と語ります。
地元には特別な思い入れがあります。育ち盛りの頃に食べたメニューはすぐに頭に浮かびます。給食で出てきた鳥取の郷土料理「ののこめし」、ボクシングの練習帰りに米子駅近くで食べた「とんきん」のチキンカレーの味は忘れられません。大学時代に東京で暮らしていたときに思い出すことが多かったのは、米子の風景の美しさでした。大山(だいせん)で眺める星空や、飽きずに見ていられる日本海。いま見ても心が落ち着くそうです。
まだ実績を残せていなかった頃から応援してくれている米子の人たちの優しさは、木下選手がボクシングを続ける上で大きな支えになっています。
胸に刻んでいるのは17年12月、米子産業体育館で開催された全日本女子選手権。スタンドには「燃えろ、鳥取」の横断幕が掲げられ、熱い声援を送られました。木下選手はジュニアの部のフライ級で出場し、高校2年で入江さん(フェザー級)とともにはじめての全国制覇を達成しました。リングサイドにいた母親が涙を流して喜んでくれた姿は、何年経っても脳裏に焼きついています。
盟友の快挙に心が震え、挫折で迎えた転機
19年春、中学生の頃から追い求めてきた夢の舞台に立つため、入江さんと一緒に日本体育大学に進学しました。
ところが、木下選手は1年のときから絶望の淵に突き落とされました。4年に1度の世界大会への出場権をつかめたのは入江さんだけ。モチベーションは低下し、引退も頭をよぎりました。コロナ禍で大会は次から次に中止となり、21年3月には椎間板(ついかんばん)ヘルニアを発症してしまいました。悪いことが次々と重なり、「あの時期はすごく苦しかった」と言います。
それから5ヵ月後のこと。再び立ち上がれたのは、盟友の「快挙」を目の当たりにしたからでした。自分が立てなかったリングで入江さんは快進撃を続け、頂点に立ちました。その姿を見て心が震えました。「一緒に頑張ってきたので、自分のことのようにうれしかった。有言実行する聖奈は本当に格好良かった」
勇気をもらった木下選手は、この年の11月に全日本選手権で準優勝を果たして復活。22年5月には世界選手権に初出場し、23年3月の世界選手権では銅メダルを獲得しました。しかし、9月の杭州アジア大会女子54kg級で5位に終わり、大きな決断を下します。
「自分のベストを尽くせる階級で出たい」。バンタム級から約4キロ、3階級も下のライトフライ級への転向でした。
幼なじみの言葉に「今こそ自分が頑張るとき」
転向後の23年11月、東京で行なわれた全日本選手権で見事に優勝を果たしました。
「コンディションをバッチリ整えて試合に入れました。ライトフライ級には強敵が多かったので戦略、戦術を練って練習してきたのが大きかった」と勝因を振り返ります。
「地元の米子市のジムから50人ほどの応援団が来てくださったんです。応援してくれた方の目の前で優勝できたのはすごくうれしかったし、代表入りが懸かっていた試合なのでホッしました」と、変わらずにサポートしてくれる地元の方々への感謝を述べました。
大学を卒業してからは、ボクシングの強豪である習志野高校で男子に交じってトレーニングに励んできました。大事な大会前の追い込み時期は地元に帰って練習しています。
「地元に帰ると暖かい言葉をいただける。すごく支えられていると感じられるから、また頑張ろうと思えるんです。それに、米子のジムには私がボクシングをはじめたときからお世話になっているコーチがいます。喝を入れてくれて、厳しい指導をしてくれる。私にとっては有難い存在なので、大事な時期は地元に帰ってきているんです」
あるとき、幼なじみの入江さんが語った言葉が胸に刺さりました。「地元で一緒にボクシングの練習をしていた頃を振り返っていたとき、聖奈が『リンがやらないときこそ自分は頑張っていた』と話してくれたんです。当時、私よりもコツコツ努力していたからこそ、聖奈はひと足早く金メダルを獲得できたんだなと。だから私は、遅くなってしまったけど、今こそ自分が頑張るときだと、思わせてくれました」
私を奮い立たせてくれた聖奈のように――。
「私も誰かに影響を与えられる、自分を見て誰かが元気になれるような存在になりたい」と心に誓う木下選手は、その思いを拳に込めてリングに立ち続けます。
(取材・制作:4years.)
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