病気と向き合うその先に 走れない日々から見えた「走る意味」
東京都のアスリート、陸上(短距離)の熊谷遥未選手(青森県競技力向上対策本部所属)は、バセドウ病という難病と向き合いながら競技生活を続けてきました。100m、200mで基礎を積み、大学時代に400mへ転向。走れない日々を経験したからこそ見えた「走る意味」と、世界を見据える現在の挑戦について語ります。
陸上との出合いと、病の経験
熊谷選手が陸上競技をはじめたのは中学1年のとき。小学生時代から運動会のリレー選手に選ばれることが多く、「走るのは得意かもしれない」という感覚がありました。中学進学を機に運動部に入ろうと考え、陸上部を選びました。
最初は100m、200m種目に取組みました。練習を重ねるほど記録が伸び、努力が形として現れることに魅力を感じていきます。個人競技でありながら、リレーでは仲間と力を合わせる楽しさもありました。
高校1年のとき、体調不良が続いた熊谷選手は、検査の結果バセドウ病と診断されました。バセドウ病は甲状腺ホルモンが過剰に分泌され、体が常に激しい運動をしているような状態になってしまう難病です。
陸上の練習をしても調子が上がらない原因が判明してほっとしたのもつかの間、数値が安定するまで運動は制限され、階段の使用すら禁じられる生活が始まります。「何が起きているのか分からず、受け入れるまでに時間がかかりました」
仲間が練習に励む姿を見るのもつらく、「なぜ自分だけが」という思いが募りました。数値が安定し、練習を再開しましたが、筋力が落ちてから再び戻すのは大変だったと言います。
しかし、その日々をとおして、走れることは決して当たり前ではないと気付かされます。この経験は、競技との向き合い方そのものを見つめ直す転機となりました。
高校時代に目標としていたインターハイは、予選直前の肉離れによって出場を逃します。「やり切れなかった」という悔しさが残り、その経験が、競技を続ける強い原動力となりました。
女子400mへの転向と病気の再発
その後、大学時代にリレーで女子4×400mに出場したことが、競技人生を前へ進める大きな転機となります。記録が良く、監督から400mに出てみてはと勧められたのです。「思っていた以上に走れた」という手応えから、大学3年の夏ごろに400mへの転向を決断しました。
ただ、女子100m、同200mへの思い入れは強く、簡単な選択ではありませんでした。それまでの数倍の距離を走ることになるため、スタミナを求められる練習は厳しく、「正直きつかった」と振り返ります。それでも「上のレベルで戦うために必要な道だ」と腹をくくり、前に進みました。
ところが社会人1年目の春、病気が再発します。
予定されていた試合は薬を飲みながら出場しましたが、結果が出ません。日本陸上選手権大会に出場した後に練習も含めて休むことになりました。
競技で結果を出すことが仕事となった立場で再び走れなくなり、高校時代以上に精神的な苦しさを味わいました。「自分が好きな陸上でお金をもらう立場なのに」。罪悪感や申し訳なさ、周りに相談できない孤独感、元どおりに走れるのかという不安……
そのなかで支えとなったのは家族の存在でした。あえて競技の話題から距離を取り、心を整える時間をつくってくれたことで、再びスタートラインに立つことができました。
気持ちを前向きにできたのは、同じ病気を持つアスリートの存在も大きかったと言います。「なかなかない経験。自分も誰かに勇気をあたえることができたら」と思えるようになったといいます。
原点の地元と、未来へ走り続ける理由
熊谷選手が生まれ育ったのは東京都大田区です。学生時代から社会人まで大田区を拠点に競技と向き合ってきました。現在は青森県に所属していますが、今も大田区は「自分の原点」だと感じています。
コロナ禍で競技場が使えなかった時期には、妹と近所の河川敷を走り続けました。マンションの住民や地域の人々からの何げない声援に支えられ、「この場所があったから続けられた」と実感しています。
近年は視野を広げるため、オーストラリアで単身トレーニングにも挑戦しました。競技そのものを楽しむ選手たちの姿に刺激を受け、「自分のために走る」という原点を思い出したといいます。
25年の日本陸上競技選手権では女子400mで8位入賞。「やっとここまで戻ってこられた」と実感しました。今後の目標は、日本代表としてアジア大会、世界陸上、4年に1度の大舞台に出場することです。「病気を経験したからこそ伝えられることがある。走ることで誰かの背中を押せるなら、続けていきたい」。熊谷選手は、未来へ向かって一歩ずつ走り続けます。
(編集:4years.)