“進化”から完成度を高める“深化”へ 地元との関りもより深める
福島県のアスリート、スキー(フリースタイル/モーグル)の西沢岳人(たけと)選手(チームリステル所属)は、2024~25年のワールドカップで初の決勝進出を果たすと、イタリア大会では8位入賞で26年に迫った世界大会の国内派遣基準をクリア。地元・北塩原村の子どもたちのためにも、大会での活躍を誓います。
父の影響ではじめたスキーが人生を捧げるスポーツに
西沢選手がモーグルに出合ったのは6歳のとき。日本体育大学の基礎スキー部だった父・優(まさる)さんの影響で2歳でスキーに出合い、その後モーグルをはじめました。
「スキー場にはスキーが上手なお兄さんがいて、みんな僕を“タケちゃん”と呼んで可愛がってくれました。そのお兄さんたちと一緒にコブを滑ったり、小さなジャンプ台でちょっと飛んだりするくらいのことなんですけれど、すごく楽しくて。毎日、母におにぎりを作ってもらって滑りに行くようになりました」
そのお兄さんの一人が、西沢選手と同じチームリステルの先輩で、現在は日本代表コーチの遠藤尚(しょう)さんでした。遠藤さんの指導もあり、西沢少年は徐々にコブを滑るスピードが速くなり、エアも高さが増していきます。
自身の成長について、西沢選手は「まだまだ足りないところ、弱いところがたくさんある」と話しますが、「誰にも負けないのはスキーやモーグルが好きという気持ち。モーグルが嫌いになったことは一度もありません」と言い切ります。腰椎(ようつい)の一部を損傷するようなけがに遭ったときもありましたが、初雪が降るあたりから「毎年、ああ、やっと冬が来るってワクワクするんです」と笑顔を見せます。
挫折して感じた地元愛。初心に戻って “大ジャンプ”
明治安田「地元アスリート応援プログラム」を知ったきっかけについて、西沢選手は「人とのつながりを感じた」と語ります。父・優さんの高校の同級生で母・佐知子さんの友人が、このプログラムを勧めてくれたことで応募を決めました。早稲田大学に通うため故郷を離れ、地元の良さや自然の美しさを改めて感じた期間でもあり、「いつか地元に貢献できるといいな」という漠然とした思いが輪郭を持ったときでもありました。
そして、大学では東京を拠点にトレーニングを積み、全日本選手権では2年連続で3位以内と実績をあげ、22年の卒業後は地元・福島のホテルリステル猪苗代に就職。スキー場に所属し仕事をしながら練習も精力的に行ないます。
しかしながら、23年は西沢選手にとって試練の1年でもありました。これまで選出されていた日本代表から惜しくも外れてしまったのです。
「毎月のように合宿に行っていましたが、23年は地元のコーチと2人で練習する時間も多くなりました。けれでも、全日本を外れ多くの時間を福島で過ごすことで、より地元の方々のサポートを感じたし、応援の声も多く届きました。リフレッシュできる時間も多く取れましたね。もし競技をやめても、ずっと福島に住みたいなと改めて思いました」
競技人生初の“深化”でつかんだ世界大会への切符
「スキルに自信はあったものの、順位ばかりにこだわって自分の滑りができていない時期がありました。しかし、順位にこだわらず自分のプレーに集中することで、結果的に“攻めた滑り”につながり、自ずと順位がついてくるようになりました」
考え方を大きく変えることで、徐々に成績も上向きました。24年3月に開催された全日本スキー選手権大会では、デュアルモーグル優勝。モーグルでも2位の好成績を残すなど、24年シーズンは見事、全日本代表に返り咲きました。
西沢選手はこれまで、つねに“進化”を求めて高みをめざしてきましたが、そのオフから、夏のウォータージャンプの回数も減らし、フィジカルトレーニングに重点を置くトレーニングに変更。「今までの競技人生のなかで、一番大きく変わりましたね」
腰の不安がある西沢選手にとって、長いシーズンを最後まで戦ううえで必要なのは、けがをしないための体の動かし方、体幹の使い方といったフィジカルでした。
「僕はもともと腰が悪いので、4月以降は腰に負担がかからないトレーニングに特に力を入れました。シーズン中に滑れなくなってしまってはダメになるので、それを逆算してというか」
しかし、11月に開幕した24~25年のワールドカップでは、なかなか結果を残すことができませんでした。
「公式練習では結構良くて、自信はあったんですけど、クリスマスまではいざ試合になると落ち着いて滑れなくて空回りしていた」と振り返り、ワールドカップ遠征から落ちそうな危機もありましたが、一時帰国した地元福島でこれまでのワールドカップを振り返るとともに、基礎的なターンを見つめ直すことで選考会に優勝し、ワールドカップ出場を継続。そして、ワールドカップ再開のアメリカ大会で自身初の決勝進出を果たすと、3月のイタリア大会で8位入賞。26年に行なわれる世界大会の国内派遣基準をクリアしました。
北塩原村の子どもたちのために世界大会出場を誓う
オフに西沢選手は、地元福島の明治安田の集会に招待され、「僕のことなんか知ってる方は多くはないはずなのに、みなさんに声をかけていただき、一丸となって応援してくれている感じがとても温かいなと思いました」と振り返ります。
また、夏には母校の小学校で3・4年の総合の時間に来てくれないかと依頼され、児童たちがインタビューしてくれるという授業に出向きました。「子どもたちは、時間が足りなくなるぐらい質問してくれたり、休み時間も一緒に遊んだり、一緒に給食とか食べさせてもらったり。あと、体育の授業も一緒に体験させてもらい、地元とのつながりという面で一番うれしかった」と振り返り、職場であるリステル猪苗代のスタッフの応援に対しても、結果で恩返しできたらと意気込みを語ってくれました。
国内派遣基準をクリアしたといっても、大会出場が決まったわけではありません、そのために西沢選手は「派遣基準を満たした人の中から上位4人が選ばれるので、まだまだ全然油断はできなくて、むしろこの1年がとても大事。けがをしてはダメですし、成績が残せなかったらダメ。4年前もめざしましたが、すごく悔しい思いをして、それから考えたら派遣基準を切れたことはうれしいこと。まだまだ大変な道のりなのは変わりないので、来年の1月に喜べるように、頑張ってトレーニングと試合に臨んでいきたい」と話します。
「メダルとかねらいたいんですけど、それは出られたらにしようかな」と笑顔を見せる西沢選手。地元では雄大な磐梯山に力をもらい、“深化”した西沢選手が、26年2月には遠藤コーチとスタート地点に立ち、地元で応援してくれる人々や小学校で会った子どもたちに夢や勇気を与えてくれる滑りを見せてくれることでしょう。
(編集:4years.)