〈住人プロフィール〉
64歳(建築士・女性)
戸建て・1DK2R+1LDK(親世帯)・小田急線 玉川学園前駅・町田市
入居15年・築年数15年・夫(会社経営・58歳)とのふたり暮らし
取材前、我々を駅まで住人の夫が車で迎えに来ていた。インタビューの対象は、応募者の妻だが、タイミングを見てコーヒーを淹(い)れたり、テーブルの端で、必要なときだけそっと妻の記憶を補ってコメントをしたり。夫のさりげない心配りを、印象深く思った。
自宅は、建築士の妻が設計した。夫の実家を建て替えたもので、2階は義母のエリア。夫婦世帯は地下1階と1階になる。
台所はこの二層をつなぐ中間、階段でいえば踊り場にあたるステップフロアに位置する。
台所が間取りの中央にあり、地下も1階も一部が吹き抜けになっている。
今は独立した27歳の息子が幼い頃は、階層が違っても家事をしながら、家族の気配がなんとなく感じられたというオープンな作りである。
15年前、家が完成したときは、ガス台と流しと換気扇だけだった。そこからオーブンを入れ、背後に収納棚を作り、ふたりで相談しながらDIYが得意な夫がコツコツと15年かけて今の形に整えた。
器はふたりが好きなコンランショップやリビング・モティーフで買うことが多く、毎日晩酌を欠かさない。旬の野菜や山菜、魚やくだものを楽しむのが好きな妻は、料理が大好きで作り置きはしない。宅配で届いた野菜や、旬の食材を見ながら、その日食べたいものを作り、夫と卓を囲む。
仲が良いですね。思わず言葉が出ると、ふたりは苦笑した。
「私が20年ほど前に新潟の父の介護を始めてから、うつやパニック障害を経験しまして。夫は起業に一生懸命で、一時は大きく心がすれ違っていた。今でも口喧嘩(げんか)なんてしょっちゅうです」
彼女は、メンタルの調子を崩してから始まった、空気を飲み込むことで起こる嚥下(えんげ)障害がまだ寛解していないという。夫が言葉を添える。
「かつては、彼女だけサインした離婚届がテーブルにおいてあったこともあります」
そんなふたりが、今は毎日、晩酌のツマミと酒を相談しあっている。私は少々不思議な気持ちで、これまでの日々に耳を傾けた。

介護と、心身の疲弊
幼い頃から父と反りが合わず、「ずっと対立してきた」と、彼女はいう。だから、進学ではどうしても家を出たかった。
「県外に進学するなら国立大だけと言われ、猛勉強をしました」
関東の大学卒業後は建築事務所に就職。建築士として仕事に打ち込み、結婚の翌年、33歳で独立を果たす。一男に恵まれ、仕事に育児に家事にとますます忙しく立ち働いていたその10年後。突然父が倒れた。
脳卒中だった。
「息子は6歳。夫は起業したばかりで、連日会社に寝泊まりするような生活でした。私はひとり娘なので、高齢の母を助けるため月2回、新潟と東京を往復する生活が始まりました」
子どもは小さい。夫は忙しい。自分の仕事もできない。
頑固な父は、外の人に世話をしてもらうのを極端に嫌がり、デイサービスはもちろん、訪問介護も拒絶する。そのうえ偏食が多く、市販の弁当は、気に入ったものを一つふたつしか手を付けない。彼女と母で手料理をする以外、手立てがなかった。
「強かった父が急に弱者になったというショック以上に堪えたのは、“やって当然”という父の言葉でした。自分ひとりの肩に、高齢の母と父の世話がのしかかるストレスもあり、だんだん夜眠れなくなっていきました」
この生活がいつまで続くのか。先の見えない不安は、やがてパニック発作や睡眠障害をもたらした。前述のように無意識に空気を飲み込み、お腹(なか)がパンパンに膨れて通院することや、酒の痛飲も増える。
精神科の治療やカウンセリングを受けながら介護に通う生活を10年続けた末に、父は亡くなった。最初の7年間はデイサービスを拒み、入浴カーを自宅に呼んでしのいだ。
「今でもあのときの日々を思い出すと、空気を飲み込む癖が出ちゃうんですよね。だから、もしものことを考えて、今日もこれなんです」
彼女は、自分が着ているウエストラインのゆるいスモック型の服を指さしてほほ笑んだ。

紙の花
「このままではいけない」
妻が深刻な症状に陥っていた時分を、夫は述懐する。朝は起きられず、昼から酒を飲んだり、酒と薬を一緒に飲んだりする。刃物をしまってから出勤することもあった。
6歳下の夫は、妻の父が倒れた年に起業をした。会社は自宅から車で2時間の場所にあり、猛烈に忙しい10年間は、彼女がだんだん心を壊していく時期と重なる。
ある日、意を決して経営のパートナーに、プライベートの事情をすべてを話した。妻に寄り添いたいので、仕事を急に休んだり、抜けたりすることがあるかもしれないこと。今までのようには働けず、任せたい部分が大きいこと。
パートナーの理解と協力を得て、いざやってみると「自分がいなくても意外と会社は回っていくんだなと驚いた」。
さらに大きな気付きがあった。
「家事や育児をするより、仕事のほうがずっと楽。仕事優先で、家のことをほとんどしないできてしまったのをすごく反省しました」
彼女は、43歳からのつらい10年余をなんとか脱することができたのは、「夫が諦めずに、こっちを向いてくれたから」と語る。
もうひとつ、彼女にとって忘れられない光景がある。
朝起きられず、保育園児の息子が登園したあとやっと寝室を出ると、ドアの前の廊下に、画用紙の花が咲いていた。
クレヨンで描かれたチューリップが、下部分を折ってビニールテーブで固定され、すっくと立っていたのだ。母が起きてきたときすぐ目に入るようにと、息子が工作したものだ。
「あー、私はこんなことしてちゃだめだと思いました」
時期を同じくして夫婦は、それぞれの方法とタイミングで、日々を紡ぎ直そうと自分を変えはじめたのである。

母の介護に、学びを生かす
冷蔵庫に、つやつやとした山吹(やまぶき)色のキンカンのワイン煮が入っていた。季節の食材を料理するのが好きで、作ったばかりだという。
「新潟では山菜やきのこ、季節の野菜がすごくおいしいんですよね。そういうものを食べて育ったので、旬のものは取り寄せても食べたいという気持ちがあります」
病に臥(ふ)せっていたころも、よほど体調が悪くない限り、料理だけは続けていた。
献立を考えたり、作りながら「このかぼちゃは煮物に向かないな」と、その食材の持ち味を最大限に引き出す料理に途中で変えたり、自己流にアレンジを加える工程が好きだ。料理と器の組み合わせを、作る前にスケッチしてテーブルコーディネートを考えることも多い。形、色、取り合わせ、食卓がきれいだと無条件に嬉(うれ)しくなる。
では、もっとも料理で達成感がある瞬間は──。
「冷蔵庫が残り物の野菜や魚のカスカスの状態で、おいしい料理を何品も作れたときですね! しなびたカスカスのネギとじゃがいも1個でもおいしいスープが作れたとき、“あたし天才!”って思っちゃいます」
自分の手でおいしいものを作ると、それがどんなにシンプルで簡単なものであっても、大きな自己肯定につながる。おいしいねと一緒に喜んでくれる存在は、さらにそれを大きくするだろう。
夫はこう自嘲する。
「僕も料理をしないわけではありませんが、妻のほうが圧倒的にスキルが高い。なんでもおいしいので、僕は料理に合わせて飲み物を決める係と洗い物係に専念しています」
じつは彼女は家族の協力で病から立ち直ったのもつかの間、56歳のとき母の認知症が始まった。
だがその介護を語る表情は暗くない。父の経験から、大切なことを学んだからだ。
「介護はひとりで抱え込んでは絶対にいけない。“全員ハッピー”はない。本人か家族、誰かが必ず我慢をすることになる。ハッピーはないのだから、妥協点をどこで見つけるかがいちばん大事なんですよね」
軽度のうちは訪問介護サービスを利用し、5年前に東京のケアサービス付き高齢者住宅への入居を選択した。
入居の日、夫、息子を伴い、いざ新潟から車で東京に向かうと、母は「帰りたい」「もうおろして」と言い出した。認知症とはいえ、住み慣れた故郷を離れることは理解しているようだ。
それを見越して家族で相談し、施設の部屋を3人であらかじめ模様替えをしていた。
母が大事にしていた絵や置物、柱時計を飾り、カーテンは母の好きな色とデザインの上質で明るいものに。テーブルと椅子は、カリモクのおしゃれなものを誂(あつら)えた。
「母は、しぶしぶ足を踏み入れた部屋をひと目見て、あっさり気に入ってしまって。絵の位置は高いほうがいい? 低いほうがいい? なんて好みを聞きながらレイアウトをし直していると、嬉しそうにどんどん表情がほころんでいきました」
最近、母は近くの特別養護老人ホームに移ったもの、朗らかに過ごしているという。
母を東京に呼んでからは、在宅ワークが増えた夫と3食をともにする穏やかな日々が続いている。
「ごはんを作ってふたりで食べていると、何げない瞬間が本当に幸せだなと感じます」
これからふきのとうを料理するのが楽しみだと目を輝かせる。
ステップフロアで何層にもまたがるこの家の真ん中に、台所がある。多くのことがままならず悶々(もんもん)とした日々も、ぎりぎりながらも彼女の真ん中に食があった。
「今日は何を作ろうかなあ」と穏やかな気持ちで台所に立ち、その料理に合わせて夫が酒を選ぶ日がくることを、この家は建ったときから知っていたんじゃないか。そう思った。
3月26日開催! オンライントークイベント
「東京の台所」筆者、大平一枝さんの
オンライントークイベントを開催します。
開催日時:2025年3月26日(水)19:00-20:00
事前申し込みが必要です。詳細と応募はこちら。














