〈住人プロフィール〉
95歳(男性)
公団・4LDK・京王線・京王永山駅・多摩市
入居42年・築年数43年・ひとり暮らし
丘の上に、80年代に建てられた団地の群れがある。都心のベッドタウンとして注目を浴びた多摩ニュータウンである。私が訪れたそれは、広い空に白い壁が映え、手すりや共有廊下の隅々まで修繕がまめに繰り返されていることが窺(うかが)えた。
しかし、新築で入居し、妻亡きあともひとりで20年余住み続けたSさんはいない。
1年前、急逝したからである。
今回は、結婚するまで11年間ここで両親と過ごし、コロナ禍以降は毎週末帰省していた娘さん(61歳、会社員)に取材をした。ひとりっこである。
日帰りか1泊で、茅ケ崎から夫と通った。そして週末だけ台所の主が、父から彼女に代わる。没後の今も、片付けのため毎月通っている。
つまり父ときどき娘の台所である。
父は、95歳の最期まで何でも食べ、飲み、生活を楽しんでいた。
リクエストされ、よく作ったのは豚キムチスープや、エビとたけのこの炒め物だ。
「辛いものが好きで、父自身もよく台所に立っていました。オリーブオイルににんにくを漬け込んだ調味料も自作。オリーブオイルは体にいいんだと、なんにでもドボドボかけていましたね」
一家で入居したのは、彼女が18歳の時。エレベーターなしの最上階で、公団にしては珍しいメゾネット付きだ。映画美術の仕事をしていた母が、撮影所に通いやすいようこの地にした。
両親ともに旅行や美術館巡りや焼き物が好きだった。娘が結婚で家を出たあとも仲睦(むつ)まじく、来客と卓を囲むことも多かった。
母は、24年前の新年会で親戚と楽しく乾杯をした直後に倒れ、そのまま息を引き取った。
「大動脈瘤(りゅう)破裂でした。私はその場にいなかったのですが、父に抱きかかえられそのままぽっくり、だったそうです」
父はすでに財団法人の専門図書館を定年退職していたが、母は現役だった。
映画界にまだ女性が少なかった時代からがむしゃらに働き、「まるで人生を駆け抜けたようだった。幼い頃は、土日もお母さんがいないので寂しく感じることもありましたね」
以来、父はしばしばこう言った。
「父さんは、母さんみたいには逝かない。ちゃんとお前たちにサヨナラもアリガトウも言って逝くから、心配するな」

20年間変わらぬ朝食ルーティン
公団の入居は抽選で、庶民の憧れだった。けれども台所の流し台は、壁に面していて暗い。デザインに造詣(ぞうけい)の深い母は、数年後には台所をリフォーム。白いタイルの壁に、大理石柄のビニールフロア、流し台はハイカラなレモンイエローにした。
「私も黄色いシンクが好きで。父もこの住まいをとても気に入っていて、飲むと昔の間取りを持ってきては、嬉(うれ)しそうに私や夫に自慢していました」
印象的なのは書庫だ。本好きの父は、まるごとひと部屋を使い、天井まである書架を並べた。
定年後も趣味の西洋の歴史や絵画、工芸、建築に関する本を集め、書庫では足りず、書斎や居間にもぎっしり収められている。
父がひとりになってから、彼女は何度も一緒に暮らそうと提案してきた。そのたびにこんな言葉が返ってきた。
「ありがたいけど、読みたいときに書庫に行けばすぐ読めて、調べたいときに本を開ける。父さんはこの書庫から離れたくないんだ。精神安定剤のようなものだから」
そう言われると彼女も、父をひとりにしている罪悪感から解放される。「多少そんな気遣いもあったんじゃないでしょうか」と振り返る。
父は亡くなるその日まで3食自炊をし、あちこち出かけ、元気だった。
毎朝6時半に、天気予報と電車の運行状況をラインメッセージで彼女に伝える。スマホは人さし指で打つ。
「私の通勤電車を教えてくれるのです。私も自分でチェックできるんですけどね(笑)。ありがとうという返事がないと、心配して夫にまで連絡がいくので返信は必須です」
彼女から昼は「ご飯食べるよ」、帰宅後は「帰ったよ」とメールをする。夜は電話をかけて父の声を聞く。
「特になにを話すわけでもないのですが、父の様子を確認したいので」
茅ケ崎と多摩。父と娘の心の距離は近いようだ。
食事のルーティンも興味深い。
愛用の深いステンレスの鍋で、3週間分の野菜スープを作り置きして、朝飲む。母が亡くなった直後から20年続く習慣だ。食材も決まっている。玉ねぎ、さつまいも、えのき、しいたけ、ピーマン、しめじ、いんげん。これに塩コショウと、自家製ニンニク入りオリーブオイルを加え、食べるときに半熟卵を落とす。野菜スープは情報番組で知ったらしい。
朝食はほかに、パンとりんごとヨーグルトをつける。歳(とし)をとるにつれ、小食にはなったが、多様な食材をとり、栄養バランスには気をつけていた。
昼は好物の甘いものを少し。わらび餅や鳩(はと)サブレーを食べる。それと大好物のインスタントラーメンを半量が定番だ。
夜は娘が週末に作り置きした主菜やスープ、ときどき白米をほんの少し。
「もともと、共働きなので父は料理が苦じゃないんですね。私の保育園時代は、私をおんぶして送迎していた。当時はそういう父親は少なかったので目立っていました」
母が急逝したころ彼女は、夫と父と3人でうまくやっていけるかと心配になったらしい。夫は、母とは仲が良かったが、父には遠慮があり、そこまで親しいというわけでもなかったからだ。
「杞憂(きゆう)でした。父は、夫と飲むのがすごく楽しそうで、だんだん夫も自然体に。私といるときより3人のほうが盛り上がるくらいになりました。夫は当初、下戸でしたが、父の影響で飲むように。“アル中になるなよー”と父にからかわれると“なに言ってるんですか、お父さんが僕に教えたんでしょう”なんて言い返していました」
聞くからに豪快で朗らかな父親だ。
しかし彼女は、そんな父の忘れられない孤独な横顔を、忘れられずにいる。
母が亡きあと、元気づけようと、父の大好きなイタリアに夫と親戚を含む5人で旅行をした。
父から離れて教会を見学し、彼女だけ戻ってきたときのこと。
父が横の公園のベンチで、ポケットから定期入れを取り出し、なにか独り言をつぶやいた。
そっと近づくと母の写真だった。
「ホントにお前は、アリガトウもサヨナラも言わないで逝っちゃうなんて、おっちょこちょいだなぁ」

別れ
昨年のよく晴れた春の日。
父は元同僚の仲間と大磯で飲んだ。よほど気分が良かったのだろう。いつになく飲みすぎたようだと、友人から連絡が来た。そのため多摩に戻らず、車で茅ケ崎の彼女の家まで送り届けてくれた。
ところが到着しても寝たまま起きる気配がないため、救急車を呼び搬送。そのまま病院で死去した。
「大好きなお友だちと、大好きなお酒飲んで、最期は娘のところで亡くなって。ぴんぴんころりで幸せな人生だったね」と周囲から言われる。
そのとおりかもしれない。だが彼女はつぶやく。
「パパ、それじゃああんまり慌てん坊すぎるよ」
もうすぐ1年が経(た)つ。
今は多摩に通い、整理を進めている。両親が買い集めた器はだいぶ処分した。蔵書には手を付けていないが、住まいとともに手放すという。
「私自身は、モノにこだわりがないので」
もちろん置く場所もないからだろうが、それだけではない気がした。
ここまで密な父と娘が育んできたものは、モノではなく彼女の心に宿っている。触れたり見たりできなくても、はかりしれない喪失のなかで彼女のどこかを今日も支えているのではないか。
前述のように、公団にはエレベーターがない。駅からも坂道続きだ。
90代になっても、この階段を上り下りし、バスに乗り、スーパーに行き、帰りに大好きな図書館に寄って本を借りたんだな。
慌てん坊だけど、なんて見事な人生だろう。
私は息を切らしながら階段を下り、白い団地をまぶしく仰ぎ見た。
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