10浜中町 北海道

岩倉 しおり

  • 展望台から望む浜中町の霧多布湿原=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 黄金色のヨシに埋め尽くされた湿原がどこまでも続いているかのようだ=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 湿原内の奥琵琶瀬野鳥公園に整備された木道=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 天気がいい日には湿原を流れる川でカヌーもできる=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 霧多布湿原など限られた場所にしか生息しないバラ科のホザキシモツケ=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 陽光のなか風にそよぐヨシ=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • ペンション「ポーチ」前の琵琶瀬湾から昇る朝日=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 「ポーチ」の客室からは湿原が一望できる=2021年11月21日、岩倉しおり撮影
  • 琵琶瀬湾を月が照らす=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 太平洋に突き出した湯沸岬(霧多布岬)
=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 広大な大地で放牧される牛=2021年11月20日、岩倉しおり撮影
  • 町内にある藻散布沼(かつて海だった海跡沼)には越冬のためハクチョウが飛来する=2021年11月21日、岩倉しおり撮影

多様な自然と町が近い里

人を受け入れ未来を育む

地平線へと続く黄金色のじゅうたんの真ん中を川が大きく蛇行してゆったりと流れている。高台にある展望台に立つと、北海道らしい地平線と空の広がりが目に飛び込んだ。道東に位置する浜中町の霧多布湿原。国内有数の広さを誇る3168ヘクタールのほとんどが1993年に「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(ラムサール条約)」に基づく「ラムサール条約湿地」に登録されているこの湿原は、国立公園に準ずる風景地であると、2021年3月には厚岸霧多布昆布森国定公園として新たに国定公園にも指定された。

「SATO」プロジェクトのナビゲーターで上智大学大学院のあん・まくどなるど教授は大きく空気を吸い込むと「空気がおいしくて体がエネルギーでいっぱいになります」と北海道をからだ全体で受け止めた。

浜中町は霧多布湿原を抱き、人々は漁業や酪農を営む。この日の浜中町は11月中旬というものの、暖かくて穏やかだった。厳しい冬を迎える前の北の大地。「大自然の中で生活するみなさんは自然とどういう関わりをもっているのでしょう」。「SATO」プロジェクトの最後の旅へ、あん教授とともに出た。

一体となった森と湿原と海と町

黄金色のじゅうたんの正体は「ヨシ」だ。水辺に群落をつくる大型のイネ科の植物。その中をまっすぐに伸びる木道を、あん教授は霧多布湿原センターの島﨑楽(らく)さん(30)と歩いた。「雪が降る前のモノトーンの景色。美しいですね」。あん教授の言葉に島﨑さんが続けた。「秋が好きです。ヨシに穂が出て、夕日に照らされる様子がすごくきれいです」

枯れ草色に染まる一帯は、夏は鮮やかな花々が咲き乱れる。黄色いエゾカンゾウ、濃い紫色のヒオウギアヤメ、白い綿毛のワタスゲなど、その数は300種類以上にも及ぶ。標高3メートルだが緯度が高いため、本州では高い山に登らないと出会えない高山植物も咲いている。

湿原には森と海が隣り合う。森と湿原と海。様々な自然が町と分断されずにほぼ手つかずの状態で残っている。この環境がラムサール条約で評価された。

「鳥ひとつとっても、森に住む鳥、湿原にいる鳥、海を利用する鳥、と浜中町では293種類が確認されています。日本にいる鳥は633種類なので、浜中町で約半分が見られることになります」。国の特別天然記念物になっているタンチョウが道路からすぐのところに生息している。異なる環境がコンパクトにまとまり生み出す多様性。島﨑さんはそこに霧多布湿原の魅力を感じている。

島﨑さんは霧多布湿原センターに就職して7年。東京農業大学の大学院生だった時はノネズミの研究をしていた。ある時、自分の研究を一般の人に伝える機会があった。その時、こうして多くの人に自然のよさを伝える仕事がしたいと思うようになり、研修生を募集していたここにたどり着いた。

2015年2月に初めて来た時は一面の雪。寒さも身にしみたが、面接をした部屋の窓からは鹿の群れが見えた。泊まった宿の食事は温かくておいしかった。働き始めると、地域の人たちは気軽に山菜採りや釣りなどに誘ってくれた。今ではすっかり溶け込み、霧多布湿原に理解を示してくれる企業の人たちと木道や森林の整備をしたり、海外からのツアーの受け入れをしたりしている。

人間の芯をつくる ふるさとの風景と人

霧多布湿原センターには、この地に魅せられた若い人たちが、今度は自分たちがその魅力を人々に伝えたいと活動している。森田茉莉子さん(28)は千葉県生まれ。里山づくりに携わる両親のもとで育ち、幼いころから自然が身近にあった。麻布大学で環境教育を学んでいた時のゼミの担当教員が霧多布湿原とつながりを持っていたことから卒業論文のテーマにここを選び、そのまま働くことにした。

「最初に来た時はサバンナみたいな場所だと感じました。自然がとても豊かです。そして人もすごく豊か。生まれも仕事も考え方も異なる人たちを積極的に受け入れ、接してくれます。その人たちがいたからこそ、ここに住んで働こうという気持ちになりました」

太田愛梨さん(21)は浜中町で生まれ育ち、霧多布湿原がいつもそばにあった。小学生の時から霧多布湿原センターが開催する自然体験学習に参加して、カエルやサンショウウオなど自然の生き物と触れるおもしろさを知り、中学生のころには「霧多布湿原センターで自然案内をしたい」と思うようになった。けれども、高校卒業時に進学がかなわず道内の釧路市にある菓子店に就職。一度は地元を離れたものの、かつての夢を思い出して、この春、霧多布湿原センターに職を得た。

菓子店では、出身地についてお客さんに話をすると、浜中町の名前は知っていても霧多布湿原のことを知っている人は皆無に近かった。1日に100人ものお客さんと接する日々は忙しく、たまに帰省して浜中町の自然の中で何も考えない時間にとても心が落ち着いた。「私はやっぱり霧多布湿原が好きで、霧多布湿原のことを多くの人に知ってほしいのだとわかりました」

3人の話を聞いたあん教授は「こうした地域で、輝きのある若者が先頭に立って活動をしているのは素晴らしいですね」と大きくうなずいた後、自らについて語った。

「私はふるさとが好きだったのですが、その後、田舎を窮屈に感じて脱出したくてたまらなくなり、日本に出てきました。でも30年くらい前に北海道に来た時、ふるさとが恋しくなって涙があふれたのです。ふるさとで生活をすることはもうないと思いますが、北海道のおかげで、ふるさとの風景と人は一生、私の芯なのだと知りました。みなさんの仕事は人の心にそういう気持ちを残すこと。すごく大事ですね」

「なくてもいい当たり前」から「なくては困る当たり前」へ

若い世代が引きつけられる霧多布湿原が手つかずに近い形で引き継がれているのには、先人たちの取り組みがあった。霧多布湿原のうち、道路と林地に囲まれているほとんどの部分が私有地だったため、常に開発の危機にさらされていたのを懸念した地元の有志たちが1986年に「霧多布湿原ファンクラブ」を設立。霧多布湿原の「ファン」から募った資金で土地を借り上げる形で保全活動を始めた。イギリス発祥の「ナショナルトラスト」をヒントに、2000年にはNPO法人「霧多布湿原トラスト」として広く個人や企業から資金を集め今度は買い取りを開始。この20年で私有地の買い取りをほぼ終えた。

霧多布湿原のすぐそばでペンション「ポーチ」を経営する瓜田勝也さん(64)さんは、当初の保全活動に携わったひとりだ。地元に生まれ昆布漁師になったが、この地にほれ込んだ東京からの移住者と出会ったことで霧多布湿原を見る目が変わった。

「漁師からペンション経営者になった瓜田さんのライフストーリーを聞かせて下さい」。あん教授は、今度は30年余りにわたって霧多布湿原とともに歩んできた瓜田さんの話に耳を傾けた。

「若い頃は東京に憧れがありました。でも、地元以外の人の目を通して霧多布湿原を見ることで『こんな田舎はつまらない』から、『この田舎はいいな』と思うようになったのです」

それまで、目にしてはいたものの、足を止めてじっくりと霧多布湿原を見ることはなかった。毎日通り過ぎて存在のみを知っていたタンチョウをじっくり眺めると、羽ばたいていたり、子どもに餌をやっていたりというしぐさがあった。「それに気付いた時、ここはなんていいところなのだと感じました」

漁師をやめて、1986年に「ポーチ」を開業。宿を通じて霧多布湿原を紹介することを目指した。毎晩、夕食後に霧多布湿原の四季を説明するスライドショーを実施。カヌー、サイクリング、散策、歩くスキーと、あらゆる方法で霧多布湿原を体験するエコツアーも主催している。

霧多布湿原センターで活動する島﨑さんが初めて浜中町を訪れた時に泊まったのも、卒業論文を書くために森田さんが足を運んだのも「ポーチ」だった。「宿をしているからこそ、出会える人たちと交流して色々な価値観に触れ、自分が磨かれる。まして、ここに移り住み、あるいは地元の中から、仕事として霧多布湿原に関わる人が出てきたというのはうれしい限りです」

「瓜田さんたちがしてきたことの大きな成果ですね」。あん教授は顔をほころばせた。

瓜田さんは今、野生動物の様子や花の開花状況に日々の喜びを感じるという。「以前は『なくてもいいと思っていた当たり前』が、今は『なくては困る当たり前』になりました。これからも、この環境を生かした宿づくり、地域づくりをしていきたいです」

健全な土、餌、牛、人が高品質を生む

森、湿原、海、町が一体となった浜中町では、産業である酪農と漁業もまた、お互いのつながりを意識しながら自然環境を生かしたあり方を探っている。

広大な土地に大小さまざまな牛が草をはみ、横たわっている浜中町就農者研修牧場。ここでは就農を目指す人たちが基礎から実践まで酪農を日々学んでいる。気候が冷涼で米作や畑作には向かない浜中町では、農業はすべてが酪農だ。牛乳の質は非常に高く、高級アイスクリームに使われている。だが、農業を拡大させる過程では多くの木々が伐採された。

あん教授は浜中町農業協同組合の参事・高橋勇さん(60)に尋ねた。「酪農は人間に不可欠な活動ですが、そのために自然界に及ぼしてきた影響もあると思います。浜中町ではどうでしたか」

「牛を飼うために、従来あった自然をどんどん牧草地に変えてきた結果、元の環境がなくなってしまいました。大量の肥料によって水が汚れたり、河川改修で川の流れが直線化したりしたことで、漁業に影響が出て大きな問題にもなりました。そこで、少しでも元に戻せるようにと『緑の回廊』を始めたのです」と高橋さんは教えてくれた。

緑の回廊はかつての自然が失われ、当たり前にいた動物などが見られなくなったことに危機感を抱いた酪農家や地元住民の有志が2001年から取り組んだ。牧草地に適さない原野や傾斜地に植樹をして、開拓で分断させてしまった動物たちの通り道をつなげられるようにしたほか、魚道を設置して、サケやイトウが産卵しやすい環境を整えた。

また、海外に依存しているエネルギー資源の地産地消を目指し、自然環境と調和した生乳生産を実現しようと、2010年からは207戸のうち105戸の農家が太陽光発電を導入。町にはソーラーパネルがあちこちに立つ。

「消費者にきちんとしたものを届けるためには土、餌、牛、人が健全であること。そして、酪農と漁業に携わる者が相互理解することがこれからも大切です」。高橋さんは力強く言った。

岩盤清掃で昆布の藻場を回復

森や湿原からのミネラルが海に流れ込む浜中町の漁業もまた、自然環境に即した形を模索してきた。全国の水揚げ量の1割を占める昆布漁が盛んだが、30年ほど前から、それまでは毎年のようにやってきた流氷が接岸せずに海底の表面が削られなくなり、付着面の更新がなくなったことから昆布の漁獲量が落ち込んだことがあった。

「どのようにして解決策を見いだしたのですか」。あん教授が疑問を投げかけると、「藻場の保全を1992年から始めました」と浜中漁業協同組合指導部の部長である亀井英昭さん(62)は答えた。流氷に代わって人工的に海底表面を削ることで雑海藻の増殖を防ぎ、昆布場の保全を図ることにしたのだ。昆布漁の漁期が終わった秋から冬にかけて、熊手の先のような形をした金属製の駆除具を、船で引いて海の岩盤についた雑海藻を削り取るように、清掃している。「昆布が岩に着生し、漁獲量は高水準で推移するようになりました」

冬場になると本州に出稼ぎに出ていた漁師たちが地元で仕事ができるようにするため、2003年からはウニの養殖にも取り組む。良質な昆布のみを餌として与える養殖ウニは高額で取引され、今は浜中町を代表する水産物のひとつだ。

亀井さんとともに漁協で働く指導部課長の成田竜典さん(37)は「頑張れば頑張っただけ収入になり、いい景色の中でおいしい魚介類が食べられる。大変なこともありますが、そういうところが漁師の魅力です」と話す。

厳しい自然が育む人の温かさ、美しい里づくり

森、霧多布湿原、海、町、人がつながり、ひとつになっている浜中町。それぞれの景色に足を運び、そこに生きる人たちと触れ合ったあん教授は今回の旅で、厳しい自然の中で育まれる人の温かさや寛大さを受け取った。

「誰に会ってもほのぼのとした、輝きのある、自然体の笑顔がありました。そして先輩たちが大きく、柔らかい心で若い人たちの夢を応援したり育てようとしたりしていることに感銘を受けました。その姿があるからこそいい里づくりができ、未来にもきっと美しい里があるのだと感じました」

あん・まくどなるどあんまくどなるど

カナダ生まれ。高校生だった1982年から1年間日本に滞在。1988年、熊本大学留学。全国環境保全型農業推進会議推進委員を務めたほか、気候変動に関する政府間パネルの評価報告書作成に携わる。「にほんの里100選」の選考委員。 2009年上智大学地球環境学研究科非常勤講師、2011年同大同科教授。

VIDEO REPORT

LATEST STORIES