
リオデジャネイロオリンピックのオフィシャル・サプライヤーとして卓球台を提供した会社のルーツをたどっていくと、二人の校友がいました。
松田英男さんと三浦慎さん─
今号では、われら専修人Special版と題して、日本の卓球台製造を牽引してきた二人の校友に登場いただきました。

2016年の夏は、リオデジャネイロオリンピックで大きな盛り上がりをみせました。獲得したメダルは、金銀銅合計で41個と過去最多を数え、連日の熱戦に眠い眼をこすりながら仕事へ、学校へ向かう人が続出したようです。
そんな睡眠不足の原因の1つとなったのが、卓球でした。銅メダルを獲得した女子団体では福原愛選手の涙に心を動かされ、個人として初の銅メダルを獲得した水谷隼選手をはじめ、団体でも銀メダルに輝いた男子の姿にも大いに沸きました。そんな彼ら、彼女らの姿を思い出すとき、一緒に脳裏に浮かぶのが、鮮やかな色の天板と美しいX型の脚部をした卓球台です。
この卓球台、『infinity(インフィニティ)』というのですが、これが日本製だということは、さまざまなメディアで紹介されたのでご存知の方も多いと思います。ところがそれだけではなく、実は、生産・販売元である株式会社三英の代表取締役社長・三浦 慎さんは、『日本卓球台の父』と呼ばれる松田英治郎さんのお孫さんであり、専修大学の校友です。しかも、英治郎さんの息子で、長年、卓球台生産を担ってきたマツダ工業株式会社の代表取締役を務める松田英男さんもまた、校友の一人なのです。
「父・英治郎は、1940年から松田材木店を営み、戦後の卓球人気が高まりつつあった頃から卓球台メーカーに材木を卸していました。しかし、当時は桂材を接ぎ合わせていたため、天板の乾燥が甘いと反りが出てしまったのです。それを何とかしようと研究・開発したのが、細かい端材でつくった芯板の表裏に単板をはった5層構造のランバーコアでした。この特許を取得したことで、自ら卓球台の生産へ乗り出すようになったのです。それが1957~1958年の頃でした」(松田さん)

松田さんが、10歳くらいのときのことで、1956年に世界卓球選手権大会男子シングルスで荻村伊智朗選手が優勝、1959年に世界卓球選手権大会女子シングルスで松崎キミ代選手(現姓:栗本)(昭36・商経商)が優勝し、「卓球日本」に日本中が沸いた頃でもあります。そこから卓球人気が盛り上がりはじめ、㋓(マルエ)印の卓球台は販売数を伸ばしていくことになります。その様子を中学、高校と見てきた松田さんであれば、さぞや卓球熱も高かったのだろうと思ったのですが、本人はそうでもなかったようです。
「専修大学に入学してから入ったのは、カメラクラブでした。昔から写真を撮るのが好きだったんですよ。当時の仲間とは、現在も時々集まっています」
とはいえ、卓球を避けていたのかというと、それもまた違うようです。
「商学部商業学科を選んだのは、いずれ会社を継ぐことを意識していたからですし、学生時代から木場へ行って材木関連のアルバイトをしたりもしていました。私にとってマツダ工業という存在は、意識する、しないというものではなく、継ぐことが当たり前の存在だったように思います」(松田さん)

松田材木店が法人化され松田合板工業株式会社となった後、社名変更したのがマツダ工業で、卓球台の生産を本格的に始めた1962年、その販売を担うために設立された別会社が三英商会(現在の三英)です。『三英』という名称は、英治郎さんの長女であり、三浦さんの母である三浦英子さんの名前からとったものでした。
実は、「いつか継ぐのが当たり前だった」と感じていたのは、三浦さんも同様だったといいます。
「小さい頃から美術が好きで、大学進学を考える時期には、先生から『ある大学の芸術学部なら推薦が取れるぞ』と言われました。しかし、頭のどこかに会社を継ぐという意識があったため、専修大学の経営学部経営学科へ進んだのです。子どもの頃から、晩酌する祖父の膝下に呼ばれて、『いつか会社を継ぐのだ』と言われていたことが記憶に残っていたのでしょう」(三浦さん)
しかし、勉強熱心ではなかったと当時を振り返ります。
「経営学部の講義に出ても、さっぱりでした。勉強よりも遊ぶことに熱心で、休みの日になると、仲の良い友人たちと(セーリング・)ディンギーに明け暮れていましたね。多少なりとも意識が変わったのは、2年に上がる前、1年間休学してイギリスへ留学したのがきっかけだったように思います。日本と異なる外国の文化や考え方に触れたことで、“海外”というものを強く意識するようになりました」
このときの体験が、後々、三英が海外へ打って出ていくことへとつながっていくことになります。
松田さんが大学を卒業し、修業も兼ねて会計事務所に就職してからわずか2年後、父・英治郎さんが他界し、会社へ戻ることになります。
「父とともに仕事をしたことがなく、会社の流儀も分からなかったため、長年、会社を支えてきた番頭さんや社員たちに支えられながらの経営でした」
それでも、工場を流山から材木調達のしやすい北海道足寄郡足寄町へ移転。近代的な工場を建設して、マツダ工業の成長に貢献します。
1991年、千葉で開催された世界選手権では、初のオフィシャル・サプライヤーとなり、翌92年のバルセロナ五輪にも同社の卓球台が採用されることにもなりました。
「販売は、三英が行っていたので、私はつくるほうにしか関わっていませんが、自社が生産した卓球台が、世界の舞台で使用されるということに誇りを感じました」(松田さん)
ただ、バルセロナ五輪のときは、初の海外大会への供給ということで、予期せぬトラブルもあったといいます。

「そのときは60~70台を収めたのですが、船による長距離輸送で、かつ赤道を通過するなど温度環境の変化が災いして、多くの台に反りが出てしまったのです。天板は、一度乾燥させて反りが出ないよう加工するのですが、赤道を通過したことで短期間のうちに再度温められたため、反ってしまったようです」(三浦さん)
当時は、現地に入ってから大わらわとなったようだが、こんな経験もリオ五輪で生かされています。
「リオのときは温度変化が出ないよう、冷蔵コンテナで運びました。おかげで、現地到着後に反りが出るようなこともなく、最高のコンディションで、選手たちに卓球台を届けることができたと自負しています」(三浦さん)
オリンピックのオフィシャル・サプライヤーに挑み、見事採用された同社ですが、その前段となった世界選手権千葉大会のときから、もう一つの試みをスタートしていました。それは、「卓球はネクラ」というイメージ払拭への挑戦です。
「当時の卓球台といえば、濃いグリーンが当たり前でした。この色が、“ネクラ”というイメージに通じていると感じたため、思い切って鮮やかなブルーを採用したのです」(三浦さん)
この決断が、後々生きてくることになります。2001年頃から世界選手権では、テレビ放映用のコートが固定されるようになり、テレビ映えする卓球台を採用しようという動きが出てきたからです。バルセロナ五輪後、卓球台の生産から販売まで、すべてを担うことになった三英の色鮮やかな卓球台は、2001年大阪、2009年横浜、2014年東京と日本で開催された世界選手権で次々と採用され、世界における認知度を少しずつ高めていきました。そして、昨年のリオ五輪でもオリンピックのオフィシャル・サプライヤーとなったのでした。
「実は、バルセロナ五輪に採用されたときは、営業上の戦略はありませんでした。しかし、リオでは、三英の卓球台を世界へ広めていくという明確な意図のもと、戦略的に採用を勝ち取りにいったのです」(三浦さん)
卓球台の需要は世界を見渡しても40万台超だといいます。しかし、その大半はホビー用の安価なもので、三英が得意とする競技用は、全体の5~7%、2万台ほどでしかありません。そのうちの7割のシェア獲得を目指すには、海外へ打って出ていく必要が、どうしてもありました。

「世界中が注目する五輪の舞台で、当社の卓球台がテレビを通じて世界へ放映される。その効果は計り知れないものがあります。でも、リオに提供できた喜びは、それだけではありません。リオ五輪への採用が決定してから、どのような卓球台をつくるか構想を練るためにブラジルへ行ったとき、日系二世、三世の方々にお会いしたのです。ブラジルへ移住した日本人たちは大変な苦労をされましたが、彼らが生活の楽しみの一つとして親しんだのが卓球だったというのです。その話を聞いたとき、本当にリオに提供できて良かったと思えました」(三浦さん)
斬新で美しいデザインによって世界の注目を集めた三英は、2020年東京五輪のオフィシャル・サプライヤーにも決まっています。2大会連続のオフィシャル・サプライヤーですから、同社の認知度がますます高まっていくことは間違いありません。
しかし、三浦さんは、「自分には経営の才能はない」と謙遜します。
「大学時代の友人に、信楽焼の窯元の息子がいました。彼曰く、『父親のように世の中から評価されるほどの才能は自分にはない。それでも窯を継ぐのは、父の才能は間違いなく自分のDNAの中にあり、自分の子どもたちへ受け継がれるかもしれないから』だといいました。その話に、ものすごく共感したことを今でも覚えています。私自身は優秀な経営者とはいえませんが、息子たちに会社を残していくことで、いつか祖父のDNAが再び開花してくれると思うのです。そのために、会社を維持し、次の世代へ渡していくのが自分の勤めだと思っています」(三浦さん)
穏やかな表情でそう語りながら、三浦さんは話を結びました。
オリンピックでも使用される三英の卓球台が製造されている北海道の足寄工場。そこには美しいデザイン性と正確無比なボールのバウンドを実現する卓球づくりのノウハウが詰まっています。












まつだ ひでお●1947年生まれ。1970年(昭45年)商学部商業学科卒。卒業後、会計事務所に就職。2年後、三英商会(現、三英)入社。後、マツダ工業の2代目社長に就任する。
みうら しん●1961年生まれ。1985年(昭60年)経営学部経営学科卒。卒業後、三英に入社。営業部長を経て2000年に取締役就任、2002年から代表取締役社長を務める。