われら専修人 vol.12 11歳で初舞台を踏んだ女性浪曲師「浪曲で心を響かせていきたい」 木村 勝千代 木村派 浪曲師

浪曲は明治初期から広く庶民に親しまれてきた演芸で、浪花(なにわ)節(ぶし)ともいう。戦前に隆盛を極めた浪曲だが、いまも活躍中の浪曲師、そして浪曲ファンは多い。校友の木村勝千代さんは小学生の頃から浪曲師として修行を経てデビュー。専修大学時代も学生でありながら浪曲師として舞台に立ってきた。浪曲師としての歩み、学生時代の思い出、そして浪曲への想いを語っていただいた。

おじいちゃん師匠に弟子入りし浪曲の世界へと一歩を踏み出す


木村 勝千代さん

私と浪曲との出会いは、10歳のころ、二葉百合子さんの「岸壁の母」をテレビで見たのが最初でした。当時歌謡曲で「岸壁の母」は流行していましたが、父親が「これを覚えればテレビに出られるよ」と言ったのがきっかけで、改めて「岸壁の母」の歌謡浪曲のバージョンを聞いてみました。10歳でしたが、涙が止まらないほど感動しました。さっそく一席覚えて、山梨の地元の町民会館で200名ほどのお客さんを前に披露したんです。そしたらおじいちゃんとか、おばあちゃんがものすごく泣いて「よかったよ」と言ってくれるんです。「私でも人に喜んでもらえることがある」と、もっと学ぶことを目指して最初は同好会に所属し、その後、師匠となる木村松太郎に師事したのです。

木村松太郎師匠は関東節で、当時の浪曲界最年長で、テレビ番組の花王名人劇場などにも出演していました。しゃべりが立って、とても話しが面白いナウいおじいさんでした(笑)。当時80いくつかでしたから、私は孫のような感じで「師匠」と呼ばず、「おじいちゃん」と呼んで慕っていました(笑)。師匠も私を「かつ」と呼んで、優しくしてくれていました。当時最年長の浪曲師のところに最年少の浪曲師が来たということで話題になって、メディアに登場したこともあります。

小学5年生から土曜日、日曜日になると父親と一緒に師匠のお宅がある埼玉まで行って稽古して、11歳で浅草の木馬亭に立ちました。それがプロとしての初舞台でしたが、自分では何がなんだかわからなかったですね。それからも中学、高校と平日は学生、土日は浪曲師という生活がずっと続いていました。

地元から大学まで2時間通学世界が広がった学生時代

高校時代も浪曲師として舞台に立っていましたが、親の意見として大学に進学したほうが良いと言われました。私自身もこのまま浪曲の道を進むのはどうなんだろうな、と考える場面もありました。そこで、国語が好きだったので国文科のある学校を探し、専修大学を志したのです。入学後、山梨から片道2時間かけて学校まで通っていました。みんなに「大変だね」と言われましたが、師匠のお宅に通ってましたから、さほど苦労しませんでした。ただ帰りのバスに乗れないと大変なので「5時のシンデレラ」と呼ばれていました(笑)。


自身が手掛ける演目は「慶安太平記~箱根山」「宇都宮釣天井」など古典のほか、木村松太郎師匠譲りの落語演目「芝浜の革財布」、自身のオリジナルである「まっ黒なおべんとう」「学校をつくろう」をはじめ、校友の作家上野歩氏(昭63・国文)の作品も浪曲化している。

そんな大学生活を送りながら時には舞台に立つという生活を送っていました。学校の友達には、照れくさくて、特に話すことはしていませんでしたが、たまたまテレビ番組で「あの小学生の浪曲師はいま?」というテーマで取り上げられて、「いまは女子大生の浪曲師になっている」と取材されました。それを見た友達から「え!? こういうことやってたんだ」ととても驚かれて、浅草の木馬亭に見に来てくれました。ゼミの石黒先生もとても驚いてらっしゃいました。

大学に入ることで自分の世界が大きく広がりました。魅力的な人が多く、先生や友達から影響を受けました。当時海外旅行なんて考えもしなかったんですけど、友達が誘ってくれて卒業旅行は初の海外旅行となりました。ロンドン、ローマ、パリを1週間で回る強行スケジュールでしたけど、私一人ではとても考えが及ばなかったです。いまだに当時の友達とはお付き合いがあります。

テレビから同時期を過ごした浪曲師の三味線が聞こえ……



舞台では身振り、手振りはもちろん、声音や仕草で幾人も演じ分ける。舞台の情報は自身のブログ、ツイッターでも公開中。

大学卒業後は、浪曲との二足の草鞋で、専門学校で高校生向けに進路アドバイスをする仕事や、学習塾での受験生への進路相談などもしていましたが、気づいた時には、浪曲の舞台から遠のいていました。その後、結婚し、子育てしている時に、テレビをつけていたら、国本武春(※)さんの三味線が聞こえてきたんです。そうしたら「私、なにか忘れていることない?」ってよみがえってきて、「浪曲で創作もできるかもしれない」という思いもわきあがってきました。

もう一度という思いから、まずは木馬亭に連絡し、稽古して準備をということになり、三味線の沢村豊子師匠をご紹介していただいて、また稽古を再開しました。ただ子供が小さかったので1カ月に1回、長ければ数カ月間があいてから稽古に行っていました。

ある日、豊子師匠から「あんた稽古してるばかりじゃなくて舞台に出たら?」と言われて、「じゃあ月1回木馬亭に出てみます」というところから、舞台に戻ることになりました。それが4年ぐらい前、45歳ぐらいの時です。

※浪曲師。父は天中軒龍月、母は国本晴美でともに浪曲師。NHK・Eテレの子供番組「にほんごであそぼ」にも出演していた。2015年、脳出血により死去。

古典や落語演目に限らず人の心を動かす浪曲を作りたい

久々の舞台ですから、上の子にも見せようと、連れていきました。ちょうど子供が中学にあがる前の1月で、「芝浜の革財布」という木村松太郎師匠の演目をやらせていただきました。それが復帰となり、最初は木馬亭から、今は上野広小路亭、校友会の支部会、また各地の学校でも浪曲を披露しています。

演目は自分で作ったものもあります。そのなかでメディアにも取り上げられたのが「まっ黒なおべんとう」です。子育て中、様々な絵本を読みましたが、児童文学「まっ黒なおべんとう」との出会いは、たまたまタイトルが気になり、手にしたのがきっかけです。原爆の恐ろしさ、親子の愛を伝えるストーリーでした。復帰前からいつか浪曲でやろうと思っていて、たまたま広島の資料館を訪れて、実際に真っ黒に焦げたお弁当を見て、浪曲にしなければな、と進めました。

三味線の師匠とも相談し、稽古を重ねて作り上げたのが浪曲の「まっ黒なおべんとう」です。ネタおろし(新作お披露目)から、大変な反響を頂いて、知り合いに中学の先生がいて、中学生に聞かせることになりました。浪曲を聞くのも初めてだと思いますが、とても感動してくれました。その後も母校で高校生を前に公演して、みな感動してくれたのと「平和な世を続けたい」と語ってくれたのが印象的でした。

校友の皆さんにお馴染みの「学校をつくろう」も創始者の情熱を伝えられるように作り上げました。海外で外国人に助けられた場面、また、スタンダップスピーチで聴衆の心が動く様は特に力を入れました。

浪曲を通じて、「感動した」「心を動かされた」という言葉を聞いた時に「やっていてよかった」と思いますね。これからも人の心を動かせる浪曲師を目指していきたいと思います。ぜひみなさん一度聞きにいらしてください。

「浪曲」とは

明治時代初期から始まった芸能で、三下りの三味線を用い、節と啖呵(セリフ)でストーリーを演じる芸事。説教節、でろれん祭文、阿呆陀羅経などが母体であり、ルーツをたどると宗教音楽時代の説教、祭文に行き当たる。浪曲の定席は東京都台東区浅草の「木馬亭」と、大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」がある。

きむら かつちよ●山梨県上野原市出身。木村勝千代は芸名。平成2年、文学部国文科卒業。10歳にて浪曲師・木村松太郎に弟子入り、初舞台を踏む。大学在学中は石黒吉次郎ゼミで平家物語や中世芸能を学ぶ。サークルは文学研究会に所属。結婚を機に舞台から離れるが、4年前に復帰。現時点では最後の木村派だが、名前を次の世代へ残すために精力的に活動している。